第107話 拾い物
--- カイン視点 ---
床の石が四本立った。
技師は、まだ紙を広げている途中だった。
溝が光り、光は五つに分かれた。台の向こうで、誰かが息を詰める音がした。五人目だった。前より、声を上げなくなった。
カインは、右手を板から離した。
技師が、紙の上の数字と、立った石の数を見比べた。何も言わずに、紙を畳んだ。
もう、読み上げる意味がないのだと、カインは思った。
それについて、何も感じなかった。
回廊に出ると、ハインツがいた。
窓の前に立っていた。回廊に一つしかない、外の見える窓。工房の門が下に見える。
カインを待っていたのだと、すぐにわかった。この男は、偶然そこにいる、ということをしない。
「歩こうか」
ハインツは言った。
カインは、答えなかった。答えなくても、ハインツは歩き出す。カインの部屋のほうへ。
足音が二つ並んだ。
「今日も一度で流したそうだね」
「技師に聞いたのか」
「技師の紙にね。数字が書いていなかった」
ハインツは、楽しそうに言った。
「読む前に終わっているから。……書きようがない」
カインは、前を見ていた。
回廊の石の継ぎ目。数えたことがある。最初の冬に。今は、数えなくても、どこで曲がるか足が知っている。
「東に」
ハインツが言った。
「殿下の拾い物が行った」
カインの足は、止まらなかった。
止めないことは、前より上手くなっていた。
「拾い物」
「そう呼んでいる。僕はね」
ハインツは、外套の袖を軽く払った。
「殿下は、捨てられたものを拾うのが、お好きなんだ。鎖を外された者。焼き印を押された者。……誰にも、名前を呼ばれなくなった者」
「どこに」
カインは、聞いた。
聞いてから、聞かなければよかったと思った。
ハインツは、少しだけ笑った。
「東の陣の先だよ。谷を見下ろす丘の上に、砦を建てている。……焼け跡からは、三日ほどかな」
焼け跡。
その言葉は、耳の奥の決まった場所に落ちた。いつも同じ場所に。そこには、もう何も置かないようにしている。
「僕が送ったのではないよ」
ハインツは言った。
「殿下は、ご自分の拾い物を、ご自分でお使いになる。……僕の帳簿には、載らない」
「なら、なぜ、俺に言う」
「君の顔を見たかったから」
ハインツは、立ち止まった。
カインの部屋の扉の前だった。
ハインツは、カインの顔を見た。長くは見なかった。それで足りる、という見方だった。
「……うん」
ハインツは言った。
「いい顔だ」
カインは、扉の取っ手に手をかけた。
「君も、少し似ているかもしれないね。殿下の拾い物に」
ハインツの声は、柔らかかった。
「捨てられて、拾われて。……ここにいる」
「拾われてない」
カインは言った。
「自分で来た」
「そうだったね」
ハインツは、頷いた。
「君は、自分で来た。……そこが、殿下の拾い物とは違う」
それから、少しだけ首をかしげた。
「どちらが、楽なのかは。……僕には、わからないけれど」
扉が閉まった。
足音が遠ざかっていった。
カインは、扉に背をつけて、しばらく立っていた。
(……焼け跡から、三日)
その考えを決まった場所に戻した。
戻せた。
昼の粥を食べ終えた頃、扉が叩かれた。
ゼノビアだった。帳簿を抱えていた。
「読みますか」
「ああ」
ゼノビアは、五つの名前を読んだ。
カインは、一度で聞いた。五つ目の名前を、口の中で繰り返すことも、もうなかった。覚えていたからだ。
ゼノビアは、帳簿を閉じなかった。
「回廊で、ハインツと、お話しになりましたね」
「聞いていたのか」
「回廊は、声がよく通ります」
ゼノビアは、帳簿の頁を一枚めくった。何かを書くのかと思ったが、書かなかった。
「ポルタの議会の報告が、先日届きました」
ゼノビアは言った。カインの顔ではなく、帳簿を見ていた。
「焼け跡の盟主は、議会で、自分から御者が死んだことを言ったそうです。値段を決めるのは自分ではない、と。……皆で、決めるので、と」
カインは、黙っていた。
ゼノビアも、それ以上は言わなかった。
帳簿を閉じた。
「……なぜ、言う」
カインは聞いた。ハインツに聞いたのと、同じ言葉だった。
ゼノビアは、扉のところで振り返った。
「帳簿に、書けないことでしたので」
それだけ言って、扉を閉めた。
回廊でペンの音はしなかった。
カインは、寝台に座っていた。
皆で、決めるので。
その言葉を、決まった場所に戻そうとした。
なかなか、戻らなかった。
流した日の夕方は、中庭でミアに会える。
花壇の真ん中の一本は、カインの腰の高さまで伸びていた。
太くなっていた。ほかの茎を全部切ったから、根が吸う水が、全部この一本に行ったのだろう。十七の言ったとおりだった。
茎の先に固い蕾が一つついていた。
十七は、花壇の縁に座っていた。膝の上にガルドの鋏。
薬指の白さが、前より広がっていた。一節目に届きかけていた。
カインは、それを見た。
見て、数に入れた。
それが、十七の指を見る時のやり方になっていた。いつからかは、もう思い出さなかった。
ミアが、花壇の隅にしゃがんでいた。
カインに気づいて、立ち上がった。
走らなかった。
「……カインお兄ちゃん」
「ああ」
ミアは、カインの外套の端をつかんだ。
いつもなら、「これ」と言う。花壇の前へ引っぱって、指さして、「これ」と。
今日は、何も言わなかった。
黙って隅へ引っぱった。
七本の差した茎があった。
六本は、枯れていた。
茶色く縮れて、土の上に折れていた。葉は、もう葉の形をしていなかった。十七の言ったとおりだった。根がなかった。
一本だけ、違った。
茎は、細いままだった。差した時と、ほとんど変わらなかった。
でも、その先に小さな緑があった。
爪の先ほどの、新しい葉が二枚。折りたたまれたまま、開きかけていた。
ミアは、それを指さした。
何も言わなかった。
ただ、指さして、カインを見上げた。
カインは、その緑を見た。
(……根が、ないはずだ)
切ったのは、カインだった。根元から。七本とも、迷わずに。
迷わねえな、と十七に言われた。
その一本が生きていた。
十七が、花壇の縁から立ち上がった。
ゆっくり隅まで来た。しゃがんで、その一本を見た。灰色の指で、土の表面をそっと払った。
長いこと、黙っていた。
「……一本、か」
十七は言った。
それだけだった。いつものように「つかねえよ」とは言わなかった。
カインは、目をそらした。
そらしたことに、気づいた。
(……一本だけだ)
カインは、自分に言った。
七本のうち、六本は枯れた。一本が、たまたま根を出した。それだけのことだ。真ん中の一本は、全部の水を吸って、蕾をつけた。十七の言ったことは、正しかった。
全部育てたら、全部細くなる。
だから、一本にした。
正しかった。
ミアが、外套の端を、まだつかんでいた。
カインは、ミアの顔を見なかった。
見なくても、ミアがこちらを見ているのがわかった。何も言わずに。
ミアは、言わない。
言わないで、見ている。
工房に来た日もそうだった。
ミアは、しゃがんで、両手で水をすくった。花壇の縁の水桶から。
小さな手のひらから、水がこぼれた。半分も残らなかった。
それを隅の一本の根元に落とした。
それから、枯れた六本の根元にも一本ずつ。
すくっては、落とす。
すくっては、落とす。
枯れた茎に水は要らない。カインは、そう言おうとした。
言わなかった。
十七が、カインの横で小さく鼻を鳴らした。
「……あの、ちびはな」
十七は言った。
「毎日、やってるんだよ。それを。……枯れてからも」
カインは、何も言えなかった。
ミアの手のひらから、水がこぼれ続けていた。
鐘が鳴って、ミアは銀の鎖の男に連れられて戻っていった。
振り返らなかった。
外套の端を離す時だけ、少し強く握った。それだけだった。
十七が、鋏を膝の上で開いたり閉じたりしていた。
「若いの」
十七が言った。
「蕾がついたら、もう一回、切るぞ。脇から、また細いのが出てくる」
「……ああ」
「迷わねえだろ。あんたなら」
十七は、カインを見なかった。
花壇の隅を見ていた。
夜、窓のない部屋で、カインは寝台に座っていた。
流した日は、眠れる。
今夜も眠れるはずだった。
右手を見た。肘までの灰色。冬から、のぼっていない。
明日は、流さない日だった。
ミアには、会えない。
カインは、明後日を数えた。
いつものように。
数えることに、もう驚かなかった。最初に気づいた夜は、驚いた。今は、目を閉じる前にそうしている。流す日を待つ。待つ日が、一日ずつ減っていく。
それで、眠れる。
(……焼け跡から、三日)
ハインツの声が、決まった場所から、一度だけ浮かんだ。
戻した。
戻せた。
カインは、横になった。
天井の石を見た。
明後日。流す日。中庭。ミア。
数えている途中で、一度だけ別のものが浮かんだ。
爪の先ほどの、緑。
根のないはずの一本。
カインは、目を閉じた。
それを、どこに戻せばいいのか、わからなかった。
決まった場所は、もう、いっぱいだった。




