第108話 水路
セラは、門柱の横に立っていた。
夜の見張りの半分の時間だった。トマは持ち場の毛布にくるまって眠っていた。
ハルトが近づくと、セラは振り向かなかった。
「ベルナの訛り、と言ったな」
セラは言った。
東の村から戻った夜、ヤンが鍋の列で谷の話をした。黒い旗の列のベルナの訛り。子供の桶を支えて歩く背中。セラはその時、何も言わなかった。
「……はい」
「子供が、いたと」
「はい。小さな桶を両手で持ってました」
セラは、しばらく黙っていた。
外套の脇で左手が震えていた。セラはもう、それを隠さなかった。冬からずっと。
「谷へ行く」
セラは言った。
それから、少しだけ間を置いた。
「……言ってから、行く。ここの決まりだろう」
ハルトは、頷いた。
「俺も行きます」
セラが、初めてハルトを見た。
「君の用ではない」
「わかってます」
ハルトは言った。
「でも、谷の返事を、もう一度聞きに行かなきゃいけないので。……ついでです」
ついでではないことを、セラはわかっていたと思う。
セラは、何も言わなかった。
翌朝、鍋の列で聞いた。
行くのは、ハルト、セラ、ヤン、ユノ。
ノエラは帳面に四つの名前を書いて、何も聞かなかった。
道の二日目、セラは少し前を一人で歩いていた。
背中がまっすぐだった。歩幅がずっと同じだった。数えているのかもしれない、とハルトは思った。
「ねえ、ハル」
ユノが隣で小さく言った。
「セラさん、昨日の夜、ずっと門にいたよ。見張りの番じゃない時も」
「うん」
「寝てないと思う」
「……うん」
ハルトは、セラの背中を見た。
背中に剣はなかった。いつもそうだった。焼け跡に来た冬から、ずっと。
「ハルは」
ユノが言った。
「セラさんに、剣、習いたいんでしょ」
ハルトは、ユノを見た。
「なんで、わかるの」
「わかるよ。……門のところで、言いかけてたでしょ。指が動いた夜」
ハルトは、少し黙った。
「まだ言ってないんだ」
「うん」
「右手が、握れるようになってからだと思って。……それに」
ハルトは、セラの背中を見た。
「セラさんの剣、ベルナにあるから」
ユノは、何も言わなかった。
それから、ハルトの右手をそっと握った。
「じゃあ、待ってようね。二人で」
「……うん」
前を歩くセラの足が、一度だけ乱れた。
すぐに元の歩幅に戻った。
ラースが、谷の入口で待っていた。
「返事は、まだだ」
ラースは言った。
「あの連中、二日おきに聞きに来る。谷は『まだ』って答える。……そしたら、『そうか』って帰る。水は、自分たちで汲んでいく」
「毎日?」
「毎日。日が傾く前に。……下の沢だ。谷の外れの」
セラがラースを見た。
「その沢へ行けるか」
ラースは、セラの顔を見て、それから、ハルトを見た。
ハルトは、頷いた。
谷の外れの沢は、岩の間を細く流れていた。
ハルトとユノとヤンは、沢を見下ろす岩の陰にいた。
セラは、隠れなかった。
沢のほとりに一人で立っていた。水筒を沢に沈めて、ゆっくり水を汲んでいた。
「……見えちゃうよ」
ユノが小さく言った。
「うん」
ハルトは言った。
「たぶん、見えるように、立ってるんだと思う」
足音が来た。
丘からの道を、一列で。桶を下げて。前と同じだった。十人と少し。子供が二人。
列の前のほうにいた焼き印の男が、沢のほとりのセラに気づいた。
足が止まった。
セラは、水筒を沢から上げた。それだけだった。剣はない。構えもしない。
焼き印の男は、しばらくセラを見ていた。
それから、肩をすくめて、沢へ下りた。何も聞かなかった。
列が沢に着いた。
その最後に背の高い男がいた。
まだ若かった。十九か、二十か。痩せていて、手足が長い。肩だけが妙に広かった。帝国の灰色の外套を、裏返して着ていた。
片手に大きな桶。もう片方の手で、小さな子供の桶を下から支えていた。
ハルトは、その背中を覚えていた。
谷の水車小屋の裏から見た背中だった。
若い男が、沢のほとりで顔を上げた。
セラを見た。
大きな桶が手から落ちた。
水が、沢の石の上に広がった。子供が、驚いて男の外套をつかんだ。
男は、子供のほうを見なかった。
「……セラ様」
ベルナの言葉だった。
岩の陰でヤンが息を止めた。
「先に行ってくれ」
男が列のほうへ言った。声が掠れていた。
焼き印の男が、男を見て、それからセラを見た。
何も聞かなかった。
「日が沈む前に戻れよ」
それだけ言って、子供の手を取った。列は水を汲んで、また一列になって、丘へ登っていった。子供が一度だけ振り返った。
沢のほとりに二人が残った。
男は、落ちた桶を拾わなかった。
「……生きてたんだ」
男は言った。
「門にいた、騎士様だ」
「ああ」
セラは言った。
「ベルナの西門にいた。……君は」
「穀物蔵にいた」
男は、セラを見ていた。目をそらさなかった。
「あんたが言ったんだ。穀物蔵なら、壁が厚いって。……入れって」
ハルトの胸の奥で、何かが冷たくなった。
セラは、目をそらさなかった。
「……私だ」
セラは言った。
「三百人を、あそこに入れたのは、私だ」
男の顔が少しだけ歪んだ。
笑ったのではなかった。泣いたのでもなかった。
「上が崩れた」
男は言った。
「真っ暗になった。扉が開かなくなった。……誰かが、奥に水の音がするって言った。古い水路だった。蔵より、ずっと古い」
男は、自分の両手を見た。
手のひらに古い傷があった。指の腹にも。何本も横に走る傷だった。
「格子があった。錆びてた。……曲げた。何日もかかった。手の皮が全部剥けた」
男は、手を握った。
「水が胸まであった。子供を肩に乗せて。……先に出られる奴から、出した」
「何人」
セラが聞いた。
「三十八」
男は言った。
「出てから、数えた。……中に残った人たちの声が、水路の奥から聞こえてた。途中から、聞こえなくなった」
沢の音だけがしていた。
ハルトの隣で、ユノが口元を押さえていた。
「運河の下に出た」
男は言った。
「三日、待った。橋の下で。……誰かが来ると思ってた。門の騎士が。評議会が。誰でもいい」
男は、セラを見た。
「あの日、誰も来なかった」
セラの左手が、外套の脇で大きく震えた。
セラは、それを押さえなかった。
「……私が、扉を開けたのは、半年後だ」
セラは言った。
「知ってる」
男は言った。
「噂で聞いた。……剣を置いた騎士が、一人で瓦礫を掘ってるって」
男の声が、少しだけ低くなった。
「遅えよ」
責める声では、なかった。
ただ、本当のことを言っているだけの声だった。
「三十八人は」
セラが聞いた。
「今、どこに」
「散った」
男は言った。
「川を下った。どの村も入れてくれなかった。……ベルナの者は入れられないって。帝国の町になったから。熱で子供が二人死んだ。年寄りも。どこかの村に、残してきたのもいる」
男は、丘のほうを見た。
「十一人。……今、上にいるのは、俺を入れて、十一人だ。子供が六人」
「黒い旗の下に」
「来いって、言ったのは、あいつらだけだった」
男は言った。
「何も聞かなかった。どこから来たかも。何があったかも。……鍋に並べって。それだけだった」
男は、裏返しの灰色の外套の襟を、指でつまんだ。
「これも上でもらった。……誰のだったか、誰も聞かない」
セラは、黙っていた。
長いこと、黙っていた。
「君の名前を」
セラが言った。
男は、少し驚いた顔をした。
それから、目を伏せた。
「……ジル」
「ジル」
セラは、繰り返した。
一度で覚えたようだった。
ジルは、落ちた桶を拾った。沢に沈めて、水を汲んだ。
「もう、来ないでくれ。セラ様」
ジルは言った。
「上じゃ、誰も、あんたのことを知らない。……ベルナのことも。知らないままで、いいんだ」
ジルは、桶を肩に担いだ。
それから、少しだけ立ち止まった。
「朝は、俺一人で汲みに来る。子供らが起きる前に」
なぜそれを言ったのか、ジル自身もわかっていないようだった。
丘への道を一人で登っていった。
一度も振り返らなかった。
夜、年寄りの女の家の外で、セラは石に座っていた。
ハルトは、少し離れたところに立っていた。
セラの膝の上に一枚の紙があった。
折り目が、すり切れかけていた。外套の内側に、いつも入れているものだった。ハルトは、それが何なのかを知らなかった。
セラは、紙を広げなかった。
折ったまま、両手で持っていた。
「証は、裁く者がいて、初めて証になる」
セラが言った。
ハルトにではなく、紙に言ったようだった。
「……そう、思っていた。だから、誰にも見せなかった。今のベルナに裁く者はいない」
セラの左手が、紙の端で震えていた。
「裁く者は、評議会では、なかった」
セラは、丘を見た。
黒い旗の火が、いくつも灯っていた。
「扉の中にいた人だ」
セラは、立ち上がった。
紙を外套の内側に戻した。いつもの場所ではなく、手の届くところに。
ハルトは、何も聞かなかった。
聞かなくても、わかった。
夜明け前に沢へ行く。ジルが一人で、水を汲みに来る時に。
「セラさん」
ハルトは言った。
セラが振り向いた。
「言ってから、行ってください」
セラは、しばらくハルトを見ていた。
それから、ほんの少しだけ、口の端が動いた。
「……行ってくる」
セラは、沢のほうへ歩いていった。
まっすぐな背中だった。
歩幅がずっと同じだった。
ユノが、いつの間にか、ハルトの横に来ていた。
「止めないの?」
「止めない」
ハルトは言った。
「セラさんが、決めたことだから」
ユノは、ハルトの袖を、そっとつかんだ。
二人で、セラの背中が見えなくなるまで、そこに立っていた。
丘の上の火は、消えなかった。
夜明けまでまだ長かった。




