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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第七章 黒い旗

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108/108

第108話 水路

セラは、門柱の横に立っていた。

夜の見張りの半分の時間だった。トマは持ち場の毛布にくるまって眠っていた。

ハルトが近づくと、セラは振り向かなかった。

「ベルナの訛り、と言ったな」

セラは言った。

東の村から戻った夜、ヤンが鍋の列で谷の話をした。黒い旗の列のベルナの訛り。子供の桶を支えて歩く背中。セラはその時、何も言わなかった。

「……はい」

「子供が、いたと」

「はい。小さな桶を両手で持ってました」

セラは、しばらく黙っていた。

外套の脇で左手が震えていた。セラはもう、それを隠さなかった。冬からずっと。

「谷へ行く」

セラは言った。

それから、少しだけ間を置いた。

「……言ってから、行く。ここの決まりだろう」

ハルトは、頷いた。

「俺も行きます」

セラが、初めてハルトを見た。

「君の用ではない」

「わかってます」

ハルトは言った。

「でも、谷の返事を、もう一度聞きに行かなきゃいけないので。……ついでです」

ついでではないことを、セラはわかっていたと思う。

セラは、何も言わなかった。


翌朝、鍋の列で聞いた。

行くのは、ハルト、セラ、ヤン、ユノ。

ノエラは帳面に四つの名前を書いて、何も聞かなかった。

道の二日目、セラは少し前を一人で歩いていた。

背中がまっすぐだった。歩幅がずっと同じだった。数えているのかもしれない、とハルトは思った。

「ねえ、ハル」

ユノが隣で小さく言った。

「セラさん、昨日の夜、ずっと門にいたよ。見張りの番じゃない時も」

「うん」

「寝てないと思う」

「……うん」

ハルトは、セラの背中を見た。

背中に剣はなかった。いつもそうだった。焼け跡に来た冬から、ずっと。

「ハルは」

ユノが言った。

「セラさんに、剣、習いたいんでしょ」

ハルトは、ユノを見た。

「なんで、わかるの」

「わかるよ。……門のところで、言いかけてたでしょ。指が動いた夜」

ハルトは、少し黙った。

「まだ言ってないんだ」

「うん」

「右手が、握れるようになってからだと思って。……それに」

ハルトは、セラの背中を見た。

「セラさんの剣、ベルナにあるから」

ユノは、何も言わなかった。

それから、ハルトの右手をそっと握った。

「じゃあ、待ってようね。二人で」

「……うん」

前を歩くセラの足が、一度だけ乱れた。

すぐに元の歩幅に戻った。


ラースが、谷の入口で待っていた。

「返事は、まだだ」

ラースは言った。

「あの連中、二日おきに聞きに来る。谷は『まだ』って答える。……そしたら、『そうか』って帰る。水は、自分たちで汲んでいく」

「毎日?」

「毎日。日が傾く前に。……下の沢だ。谷の外れの」

セラがラースを見た。

「その沢へ行けるか」

ラースは、セラの顔を見て、それから、ハルトを見た。

ハルトは、頷いた。


谷の外れの沢は、岩の間を細く流れていた。

ハルトとユノとヤンは、沢を見下ろす岩の陰にいた。

セラは、隠れなかった。

沢のほとりに一人で立っていた。水筒を沢に沈めて、ゆっくり水を汲んでいた。

「……見えちゃうよ」

ユノが小さく言った。

「うん」

ハルトは言った。

「たぶん、見えるように、立ってるんだと思う」

足音が来た。

丘からの道を、一列で。桶を下げて。前と同じだった。十人と少し。子供が二人。

列の前のほうにいた焼き印の男が、沢のほとりのセラに気づいた。

足が止まった。

セラは、水筒を沢から上げた。それだけだった。剣はない。構えもしない。

焼き印の男は、しばらくセラを見ていた。

それから、肩をすくめて、沢へ下りた。何も聞かなかった。

列が沢に着いた。

その最後に背の高い男がいた。

まだ若かった。十九か、二十か。痩せていて、手足が長い。肩だけが妙に広かった。帝国の灰色の外套を、裏返して着ていた。

片手に大きな桶。もう片方の手で、小さな子供の桶を下から支えていた。

ハルトは、その背中を覚えていた。

谷の水車小屋の裏から見た背中だった。

若い男が、沢のほとりで顔を上げた。

セラを見た。

大きな桶が手から落ちた。

水が、沢の石の上に広がった。子供が、驚いて男の外套をつかんだ。

男は、子供のほうを見なかった。

「……セラ様」

ベルナの言葉だった。

岩の陰でヤンが息を止めた。


「先に行ってくれ」

男が列のほうへ言った。声が掠れていた。

焼き印の男が、男を見て、それからセラを見た。

何も聞かなかった。

「日が沈む前に戻れよ」

それだけ言って、子供の手を取った。列は水を汲んで、また一列になって、丘へ登っていった。子供が一度だけ振り返った。

沢のほとりに二人が残った。

男は、落ちた桶を拾わなかった。

「……生きてたんだ」

男は言った。

「門にいた、騎士様だ」

「ああ」

セラは言った。

「ベルナの西門にいた。……君は」

「穀物蔵にいた」

男は、セラを見ていた。目をそらさなかった。

「あんたが言ったんだ。穀物蔵なら、壁が厚いって。……入れって」

ハルトの胸の奥で、何かが冷たくなった。

セラは、目をそらさなかった。

「……私だ」

セラは言った。

「三百人を、あそこに入れたのは、私だ」

男の顔が少しだけ歪んだ。

笑ったのではなかった。泣いたのでもなかった。

「上が崩れた」

男は言った。

「真っ暗になった。扉が開かなくなった。……誰かが、奥に水の音がするって言った。古い水路だった。蔵より、ずっと古い」

男は、自分の両手を見た。

手のひらに古い傷があった。指の腹にも。何本も横に走る傷だった。

「格子があった。錆びてた。……曲げた。何日もかかった。手の皮が全部剥けた」

男は、手を握った。

「水が胸まであった。子供を肩に乗せて。……先に出られる奴から、出した」

「何人」

セラが聞いた。

「三十八」

男は言った。

「出てから、数えた。……中に残った人たちの声が、水路の奥から聞こえてた。途中から、聞こえなくなった」

沢の音だけがしていた。

ハルトの隣で、ユノが口元を押さえていた。

「運河の下に出た」

男は言った。

「三日、待った。橋の下で。……誰かが来ると思ってた。門の騎士が。評議会が。誰でもいい」

男は、セラを見た。

「あの日、誰も来なかった」

セラの左手が、外套の脇で大きく震えた。

セラは、それを押さえなかった。

「……私が、扉を開けたのは、半年後だ」

セラは言った。

「知ってる」

男は言った。

「噂で聞いた。……剣を置いた騎士が、一人で瓦礫を掘ってるって」

男の声が、少しだけ低くなった。

「遅えよ」

責める声では、なかった。

ただ、本当のことを言っているだけの声だった。


「三十八人は」

セラが聞いた。

「今、どこに」

「散った」

男は言った。

「川を下った。どの村も入れてくれなかった。……ベルナの者は入れられないって。帝国の町になったから。熱で子供が二人死んだ。年寄りも。どこかの村に、残してきたのもいる」

男は、丘のほうを見た。

「十一人。……今、上にいるのは、俺を入れて、十一人だ。子供が六人」

「黒い旗の下に」

「来いって、言ったのは、あいつらだけだった」

男は言った。

「何も聞かなかった。どこから来たかも。何があったかも。……鍋に並べって。それだけだった」

男は、裏返しの灰色の外套の襟を、指でつまんだ。

「これも上でもらった。……誰のだったか、誰も聞かない」

セラは、黙っていた。

長いこと、黙っていた。

「君の名前を」

セラが言った。

男は、少し驚いた顔をした。

それから、目を伏せた。

「……ジル」

「ジル」

セラは、繰り返した。

一度で覚えたようだった。

ジルは、落ちた桶を拾った。沢に沈めて、水を汲んだ。

「もう、来ないでくれ。セラ様」

ジルは言った。

「上じゃ、誰も、あんたのことを知らない。……ベルナのことも。知らないままで、いいんだ」

ジルは、桶を肩に担いだ。

それから、少しだけ立ち止まった。

「朝は、俺一人で汲みに来る。子供らが起きる前に」

なぜそれを言ったのか、ジル自身もわかっていないようだった。

丘への道を一人で登っていった。

一度も振り返らなかった。


夜、年寄りの女の家の外で、セラは石に座っていた。

ハルトは、少し離れたところに立っていた。

セラの膝の上に一枚の紙があった。

折り目が、すり切れかけていた。外套の内側に、いつも入れているものだった。ハルトは、それが何なのかを知らなかった。

セラは、紙を広げなかった。

折ったまま、両手で持っていた。

「証は、裁く者がいて、初めて証になる」

セラが言った。

ハルトにではなく、紙に言ったようだった。

「……そう、思っていた。だから、誰にも見せなかった。今のベルナに裁く者はいない」

セラの左手が、紙の端で震えていた。

「裁く者は、評議会では、なかった」

セラは、丘を見た。

黒い旗の火が、いくつも灯っていた。

「扉の中にいた人だ」

セラは、立ち上がった。

紙を外套の内側に戻した。いつもの場所ではなく、手の届くところに。

ハルトは、何も聞かなかった。

聞かなくても、わかった。

夜明け前に沢へ行く。ジルが一人で、水を汲みに来る時に。

「セラさん」

ハルトは言った。

セラが振り向いた。

「言ってから、行ってください」

セラは、しばらくハルトを見ていた。

それから、ほんの少しだけ、口の端が動いた。

「……行ってくる」

セラは、沢のほうへ歩いていった。

まっすぐな背中だった。

歩幅がずっと同じだった。

ユノが、いつの間にか、ハルトの横に来ていた。

「止めないの?」

「止めない」

ハルトは言った。

「セラさんが、決めたことだから」

ユノは、ハルトの袖を、そっとつかんだ。

二人で、セラの背中が見えなくなるまで、そこに立っていた。

丘の上の火は、消えなかった。

夜明けまでまだ長かった。

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