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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第七章 黒い旗

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106/106

第106話 青白い目

谷の返事は、「今日は、返事をしない」だった。

年寄りの女が、朝のうちにそう教えてくれた。夜のあいだに、谷の家を一軒ずつ回って決めたのだという。

「運ぶとも、運ばないとも言わない。……谷でもう少し考える。そう言ったら、あの焼き印の男、何て言ったと思う」

年寄りの女は、少し首をかしげた。

「『そうか。なら、また来る』だってさ。それだけ」

ハルトは、丘のほうを見た。黒い旗が、朝の風に揺れていた。

息子は、戸口の横に座っていた。誰とも話さず、ずっと丘を見ていた。

ラースは、谷に残ると言った。

「見張りは、俺の仕事だ」

それから、腕の布を指で叩いた。

「今度は、これを巻いたまま、な」

「言ってから、ですね」

ハルトが言うと、ラースは少しだけ笑った。

「今、言った」


焼け跡の門の前に、知らない男が座っていた。

四十を過ぎたくらいの日に焼けた男だった。膝の上に杖代わりの長い棒。足もとに汚れた布袋が一つ。

トマが、持ち場から男を見下ろしていた。

ハルトたちが近づくと、トマは先にこちらを見た。

「どこから、来た」

「谷から」

ハルトは言った。

「なら、入れ」

それから、トマは顎で男を示した。

「そいつは、東の村からだ。……今朝から、そこで待ってる。盟主に話があるんだと」

男が、棒にすがって立ち上がった。

「あんたが盟主さんかい」

男はハルトの灰色の腕を見て、少し驚いた顔をした。それから、すぐに目を伏せた。

「羊飼いだ。……東の村の」

ニコが、ハルトの後ろで「あ」と小さく言った。

「橋の下で聞いた、羊の村だ」

男は、布袋の口を開けた。

中には、羊の毛の塊と、半分にちぎれた革の首輪が入っていた。

「狼だ」

男は言った。

「春から、三度やられた。最初は二頭。次は五頭。……一昨日の夜は、九頭だ。囲いを破られた」

男の声が少し震えた。

「十頭よりも多い。村の若いのが追い払おうとしたが、一人が腕を食いちぎられそうになった。……あいつら、ただの狼じゃねえ」

「ただのじゃない?」

「回りこむんだ。囲いのいちばん弱いところに。……一頭だけ、離れたところにいて、そいつが吠えると、全部が一緒に動く」

男は、自分の目を指さした。

「そいつの目が光ってた。月のない夜に。……青白く」

ハルトの横でユノが息を吸った。

ハルトも覚えていた。

洞窟の獣の目。それから、カインが石の棺に閉じこめた、あの巨獣の目。

「払えるものは、あんまりねえ」

男は、うつむいた。

「羊が、二頭。塩が、少し。……それで、足りるかどうか」

「みんなに、聞きます」

ハルトは言った。

男が顔を上げた。

「一人では、決めないんです。……でも、たぶん、行きます」


その夜の鍋の列で、手はすぐに上がった。

ノエラは、帳面を開いて、短く言った。

「狼が十と少し。……人は、十あれば足ります」

「足ります、って言ったよ」

ニコが、隣のコレットに耳打ちした。

「最近、よく言うんだよ。あの人」

ノエラは、聞こえないふりをした。

行くのは、ハルト、ユノ、リュネ、ヤン、ロブ、ニコ。それに稽古場の樽の男。

「俺は、歩けねえぞ」

腿を射られた男は、杖を握ったまま言った。

「足跡を見てほしいんです」

ハルトは言った。

「座ったままで、いいので」

「……牛で引ける」

若い御者が、鍋の向こうから言った。

「荷車に乗せればいい。帰りは、羊も乗せられる」

樽の男は、しばらく黙っていた。それから、杖の先で地面を一度突いた。

「……足しか、見ねえぞ」

「はい。足だけで」

ゴードンが、樽の上で口の端を上げていた。

「狼はな」

ゴードンは言った。

「頭を見るな。肩を見ろ。……跳ぶ前に肩が下がる」

ハルトは、頷いた。

剣ではなく、剣を持つ手を見る。ゴードンに、何べんも言われたことだった。

狼の肩。それは、同じことだった。


東の村までは、一日半だった。

牛の荷車がゆっくり進んだ。若い御者が手綱を引き、荷台の上で樽の男が揺られていた。ロブとヤンが前を歩き、ニコがその間を行ったり来たりした。

ハルトは、ユノとリュネと並んで、後ろを歩いた。

三人だけで歩くのは、ずいぶん久しぶりだった。

「ねえ」

リュネが言った。手帳を開いたまま歩いていた。

「谷で何を見たの。……ちゃんと、話してないでしょ」

ハルトは、話した。

畝をよけて歩く列。小さな桶を下げた子供。焼き印の男の「来たけりゃ、来い」。ベルナの訛り。

それから、息子の言葉。

「言えねえところから来た奴は、どうすんだ、って」

リュネは、しばらく黙っていた。

「……言わなくていい、っていう言葉も、トマさんは持ってるでしょ」

「それは、帰ってくる人の言葉だよ」

ハルトは言った。

「最初に来る人には、言わないんだ」

「……そうね」

リュネは、手帳に何かを書きかけて、やめた。

ユノは、ずっと黙っていた。

ハルトの右手を、ユノはいつもの癖で軽く握っていた。灰色の指は、何も感じなかった。でも、肘の下の境目のあたりが、少しだけ温かかった。

「私もね」

ユノが言った。

「言えないこと、あるよ」

ハルトは、ユノを見た。

ユノは、前を向いたままだった。

「でも、ハルは聞かないでしょ。……聞かないで、横にいるでしょ」

「……うん」

「それで、いいんだと思う。今は」

リュネが手帳を閉じた。

「前もこうだったわね」

リュネは言った。

「三人で歩いて。誰かが黙って。……あの頃は、もう一人いたけど」

誰も名前は言わなかった。

前のほうで、ニコが何か言って、ロブが笑っていた。牛が一度だけ鳴いた。

ハルトは、空を見た。

石の守りは、もうない。前を歩いて、黙って大剣を担いでいた背中も。

でも、隣に二人いた。前に四人。荷台に一人。

(……数えられる)

ハルトは、そう思った。


東の村は、斜面に張りついた十軒ほどの家だった。

囲いの柵は、三か所で破られていた。地面には、乾いた血の跡が残っていた。

樽の男が、荷台から身を乗り出した。

長いこと、地面を見ていた。

「十二。……いや、十三だな」

樽の男は言った。

「若いのが多い。足跡が浅い。……それと」

樽の男は、柵から少し離れた斜面を指さした。

「あそこだけ、足跡が深い。でかいのが一頭。そこから動いてねえ。……ずっと、立って見てたんだ」

ヤンが斜面を見上げた。

「風下です。囲いがよく見える」

「指図してたんだ」

ロブが言った。槍の柄を手のひらで二度叩いた。

「狼のくせに」

羊飼いが、ハルトの後ろで小さく震えていた。

「今夜も来ると思う。……一昨日、半分しか持っていけなかったから」


日が沈む前に並びを決めた。

囲いの前にハルト。盾を持って立つ。左の横にロブ。

ヤンとユノは、羊小屋の屋根の上。弓。

リュネは、囲いの内側。羊の群れの中。

ニコと若い御者は、荷車の陰。松明を用意する。樽の男は荷台の上から、地面を見る。

「理論的には」

リュネが言った。

「狼は、冷たいのが嫌い。足もとが凍れば、跳べない。……でも、十三頭全部の足もとは無理よ」

「囲いの前だけでいい」

ハルトは言った。

「俺の前に来させるから」

「来させる、って。……どうやって」

「羊を俺の後ろに集める。狼は、いちばん弱いところに回りこむって、羊飼いさんが言ってただろ」

ハルトは、囲いの柵を見た。

「だから、いちばん弱いところを俺にする」

リュネが、ハルトの顔をしばらく見ていた。

「……ばかね」

それから、少しだけ笑った。

「でも、理論的には、正しいわ」


月は、出なかった。

最初に気づいたのは、樽の男だった。

「……来たぞ。右の斜面の下。四つ」

ハルトは、盾を握り直した。

暗がりの中に目が光った。黄色い、普通の獣の目が四つ。八つ。もっと。

囲いを回りこむように、ゆっくり広がっていく。

それから、斜面の上。

一つだけ、離れたところに。

青白い光が二つ、浮かんでいた。

その光がすっと細くなった。

低い唸り声が、斜面から降りてきた。

狼たちが一斉に動いた。

ハルトの前に三頭。囲いの破れた柵のほうに、四頭。羊小屋の裏に残り。

「左の柵!」

樽の男の声が飛んだ。

「三頭目の、足が速い! 先に来るぞ!」

屋根の上でユノの弓が鳴った。一頭が転がった。ヤンの矢が、二頭目の前の地面に刺さり、狼が跳びのいた。

ハルトの前の三頭が、間合いを詰めてきた。

肩を見た。

一頭目の肩が下がった。

(……来る)

跳んだ。

ハルトは、盾を前に出した。正面ではなく、少し斜めに。

狼の体が盾に当たった。重かった。肘から肩まで衝撃が抜けた。でも、まっすぐ受けなかった分、狼の体は盾の面を滑った。

ハルトは、盾の縁をほんの少しだけ押した。

狼が、横向きに地面へ落ちた。

起き上がる前にロブの槍が入った。

(……今の)

受けただけではなかった。滑らせて、押した。狼は、自分の跳んだ勢いで転んだ。

崩した、と言っていいのかどうか、ハルトにはわからなかった。

でも、受けて止めただけの時とは、手応えが違った。

二頭目が来た。

肩が下がる。盾を斜めに出す。滑らせる。

今度は、うまくいかなかった。狼は盾の縁に牙をかけて、ハルトの腕ごと引きずろうとした。足が半歩、前に出た。

「リュネ!」

「わかってる!」

囲いの内側から、冷たいものが地面を走った。

ハルトの足もとから前に、薄い氷が広がった。狼の後ろ足が氷の上で滑った。牙が盾から外れた。

ロブの槍。

二頭目が動かなくなった。

三頭目は、氷の手前で止まった。跳ぼうとして、跳ばなかった。

斜面の上で、青白い目がまた細くなった。

唸り声。

破れた柵のほうに回っていた狼たちが、急に向きを変えた。ハルトの前へ。氷の手前に、六頭、七頭と集まってくる。

「……数で押す気だ」

ロブが低く言った。

ハルトは、斜面を見上げた。

青白い目は、動いていなかった。一歩も。ほかの狼が倒れても、ずっとそこから見ていた。

(……あいつだ)

あいつが、全部を動かしている。

「ユノ姉!」

ハルトは叫んだ。

「斜面の上! 目が光ってるやつ!」

「遠いよ!」

「ヤンさんと、二人で!」

屋根の上で、二つの弓が同時に引かれる音がした。

その間に、氷の手前の狼たちが動いた。

三頭が同時に跳んだ。

ハルトは、盾を構えた。一頭を受け、滑らせた。二頭目はロブが槍の柄で払った。三頭目が、盾の下をくぐって、ハルトの脚に向かってきた。

間に合わなかった。

脛に牙が触れた。

その瞬間、荷車の陰から松明が飛んできた。狼の鼻先で火の粉が散った。狼が悲鳴を上げて跳びのいた。

ニコだった。

「当たった! 今の、当たったよね!」

「当たってない!」

若い御者が叫んだ。

「でも、効いた!」

屋根の上で弓が鳴った。

二本の矢が闇を抜けていった。

一本が外れた。

もう一本が、斜面の上の青白い光のすぐ下に刺さった。

長い甲高い声が上がった。

青白い光が揺れた。それから、一つ消え、もう一つも消えた。

氷の手前にいた狼たちが、動きを止めた。

頭を上げて、斜面のほうを見た。

それから、ばらばらに散った。右へ、左へ、森のほうへ。もう、どの一頭も、ほかの狼を見ていなかった。

さっきまで一つの群れだったものが、ただの十頭と少しの獣に戻っていた。


斜面の上の大きな狼は、ヤンの矢を首の下に受けて倒れていた。

ほかの狼より、ひと回り大きかった。毛が、ところどころ抜けて、地肌が見えていた。

目は、もう光っていなかった。

濁った、普通の灰色の目だった。

リュネが、その横にしゃがんだ。指先が白くなっていた。氷を一度張っただけの軽い冷えだった。

「……さっきまで光ってたのよね」

「うん」

「死んだら、消えた」

リュネは、手帳を開いた。炭筆が少し震えていた。冷えのせいだと、リュネは言った。

日付を書いた。それから、東の村、と書いた。

「十三。……うち、倒したのが四。逃げたのが九」

それから、少し間を置いて書いた。

「目。一頭。青白い」

リュネは、その行を指でなぞった。

「洞窟の獣と同じ色だった」

ハルトは、何も言わなかった。

ユノが、ハルトの脛を見ていた。ズボンが裂けて、皮膚に浅い引っかき傷があった。血は、ほとんど出ていなかった。

「……痛い?」

「痛くない……」

「嘘」

「……少しだけ」

ユノが布を巻いてくれた。

ロブは、袖が破れたのを気にしていた。ヤンは、外した一本の矢を探しに斜面を下りていった。ニコは、まだ「当たったと思うんだけどなあ」と言っていた。

荷台の上で、樽の男が、地面を見下ろしていた。

「……三頭目の、足が速いって言ったろ」

「はい。助かりました」

ハルトが言うと、樽の男は少しだけ黙った。

それから、笑った。

ハルトは、樽の男が笑うのを、初めて見た気がした。


朝、羊飼いが、羊を二頭連れてきた。塩の小さな袋も。

「これで足りるかどうか」

「足ります」

ハルトは言った。それから、少し笑った。

「軍師の人がそう言うと思います」

羊飼いは、ハルトの顔をしばらく見ていた。

「……名前を聞いてもいいか。盟主さんの」

「ハルトです」

「ハルト」

羊飼いは、繰り返した。

「村の者に言っとく。……狼の夜に、来てくれた盾の名前だって」

荷台に羊が二頭乗った。樽の男が、迷惑そうな顔で羊の横に座り直した。

帰り道、リュネはずっと手帳を開いていた。

「春から、なのよね」

リュネが言った。

「狼が大きな群れになったのも。青白い目が、また出てきたのも。……全部、春から」

「何か、あったのかな。春に」

「わからない」

リュネは、手帳を閉じた。

「でも、何かが始まったのよ。……どこかで」

リュネは、手帳を膝の上に置いたまま、空を見ていた。

ハルトも同じ空を見た。

どこで何が始まったのか。それは、まだ手帳のどの頁にも書いていなかった。

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