第106話 青白い目
谷の返事は、「今日は、返事をしない」だった。
年寄りの女が、朝のうちにそう教えてくれた。夜のあいだに、谷の家を一軒ずつ回って決めたのだという。
「運ぶとも、運ばないとも言わない。……谷でもう少し考える。そう言ったら、あの焼き印の男、何て言ったと思う」
年寄りの女は、少し首をかしげた。
「『そうか。なら、また来る』だってさ。それだけ」
ハルトは、丘のほうを見た。黒い旗が、朝の風に揺れていた。
息子は、戸口の横に座っていた。誰とも話さず、ずっと丘を見ていた。
ラースは、谷に残ると言った。
「見張りは、俺の仕事だ」
それから、腕の布を指で叩いた。
「今度は、これを巻いたまま、な」
「言ってから、ですね」
ハルトが言うと、ラースは少しだけ笑った。
「今、言った」
焼け跡の門の前に、知らない男が座っていた。
四十を過ぎたくらいの日に焼けた男だった。膝の上に杖代わりの長い棒。足もとに汚れた布袋が一つ。
トマが、持ち場から男を見下ろしていた。
ハルトたちが近づくと、トマは先にこちらを見た。
「どこから、来た」
「谷から」
ハルトは言った。
「なら、入れ」
それから、トマは顎で男を示した。
「そいつは、東の村からだ。……今朝から、そこで待ってる。盟主に話があるんだと」
男が、棒にすがって立ち上がった。
「あんたが盟主さんかい」
男はハルトの灰色の腕を見て、少し驚いた顔をした。それから、すぐに目を伏せた。
「羊飼いだ。……東の村の」
ニコが、ハルトの後ろで「あ」と小さく言った。
「橋の下で聞いた、羊の村だ」
男は、布袋の口を開けた。
中には、羊の毛の塊と、半分にちぎれた革の首輪が入っていた。
「狼だ」
男は言った。
「春から、三度やられた。最初は二頭。次は五頭。……一昨日の夜は、九頭だ。囲いを破られた」
男の声が少し震えた。
「十頭よりも多い。村の若いのが追い払おうとしたが、一人が腕を食いちぎられそうになった。……あいつら、ただの狼じゃねえ」
「ただのじゃない?」
「回りこむんだ。囲いのいちばん弱いところに。……一頭だけ、離れたところにいて、そいつが吠えると、全部が一緒に動く」
男は、自分の目を指さした。
「そいつの目が光ってた。月のない夜に。……青白く」
ハルトの横でユノが息を吸った。
ハルトも覚えていた。
洞窟の獣の目。それから、カインが石の棺に閉じこめた、あの巨獣の目。
「払えるものは、あんまりねえ」
男は、うつむいた。
「羊が、二頭。塩が、少し。……それで、足りるかどうか」
「みんなに、聞きます」
ハルトは言った。
男が顔を上げた。
「一人では、決めないんです。……でも、たぶん、行きます」
その夜の鍋の列で、手はすぐに上がった。
ノエラは、帳面を開いて、短く言った。
「狼が十と少し。……人は、十あれば足ります」
「足ります、って言ったよ」
ニコが、隣のコレットに耳打ちした。
「最近、よく言うんだよ。あの人」
ノエラは、聞こえないふりをした。
行くのは、ハルト、ユノ、リュネ、ヤン、ロブ、ニコ。それに稽古場の樽の男。
「俺は、歩けねえぞ」
腿を射られた男は、杖を握ったまま言った。
「足跡を見てほしいんです」
ハルトは言った。
「座ったままで、いいので」
「……牛で引ける」
若い御者が、鍋の向こうから言った。
「荷車に乗せればいい。帰りは、羊も乗せられる」
樽の男は、しばらく黙っていた。それから、杖の先で地面を一度突いた。
「……足しか、見ねえぞ」
「はい。足だけで」
ゴードンが、樽の上で口の端を上げていた。
「狼はな」
ゴードンは言った。
「頭を見るな。肩を見ろ。……跳ぶ前に肩が下がる」
ハルトは、頷いた。
剣ではなく、剣を持つ手を見る。ゴードンに、何べんも言われたことだった。
狼の肩。それは、同じことだった。
東の村までは、一日半だった。
牛の荷車がゆっくり進んだ。若い御者が手綱を引き、荷台の上で樽の男が揺られていた。ロブとヤンが前を歩き、ニコがその間を行ったり来たりした。
ハルトは、ユノとリュネと並んで、後ろを歩いた。
三人だけで歩くのは、ずいぶん久しぶりだった。
「ねえ」
リュネが言った。手帳を開いたまま歩いていた。
「谷で何を見たの。……ちゃんと、話してないでしょ」
ハルトは、話した。
畝をよけて歩く列。小さな桶を下げた子供。焼き印の男の「来たけりゃ、来い」。ベルナの訛り。
それから、息子の言葉。
「言えねえところから来た奴は、どうすんだ、って」
リュネは、しばらく黙っていた。
「……言わなくていい、っていう言葉も、トマさんは持ってるでしょ」
「それは、帰ってくる人の言葉だよ」
ハルトは言った。
「最初に来る人には、言わないんだ」
「……そうね」
リュネは、手帳に何かを書きかけて、やめた。
ユノは、ずっと黙っていた。
ハルトの右手を、ユノはいつもの癖で軽く握っていた。灰色の指は、何も感じなかった。でも、肘の下の境目のあたりが、少しだけ温かかった。
「私もね」
ユノが言った。
「言えないこと、あるよ」
ハルトは、ユノを見た。
ユノは、前を向いたままだった。
「でも、ハルは聞かないでしょ。……聞かないで、横にいるでしょ」
「……うん」
「それで、いいんだと思う。今は」
リュネが手帳を閉じた。
「前もこうだったわね」
リュネは言った。
「三人で歩いて。誰かが黙って。……あの頃は、もう一人いたけど」
誰も名前は言わなかった。
前のほうで、ニコが何か言って、ロブが笑っていた。牛が一度だけ鳴いた。
ハルトは、空を見た。
石の守りは、もうない。前を歩いて、黙って大剣を担いでいた背中も。
でも、隣に二人いた。前に四人。荷台に一人。
(……数えられる)
ハルトは、そう思った。
東の村は、斜面に張りついた十軒ほどの家だった。
囲いの柵は、三か所で破られていた。地面には、乾いた血の跡が残っていた。
樽の男が、荷台から身を乗り出した。
長いこと、地面を見ていた。
「十二。……いや、十三だな」
樽の男は言った。
「若いのが多い。足跡が浅い。……それと」
樽の男は、柵から少し離れた斜面を指さした。
「あそこだけ、足跡が深い。でかいのが一頭。そこから動いてねえ。……ずっと、立って見てたんだ」
ヤンが斜面を見上げた。
「風下です。囲いがよく見える」
「指図してたんだ」
ロブが言った。槍の柄を手のひらで二度叩いた。
「狼のくせに」
羊飼いが、ハルトの後ろで小さく震えていた。
「今夜も来ると思う。……一昨日、半分しか持っていけなかったから」
日が沈む前に並びを決めた。
囲いの前にハルト。盾を持って立つ。左の横にロブ。
ヤンとユノは、羊小屋の屋根の上。弓。
リュネは、囲いの内側。羊の群れの中。
ニコと若い御者は、荷車の陰。松明を用意する。樽の男は荷台の上から、地面を見る。
「理論的には」
リュネが言った。
「狼は、冷たいのが嫌い。足もとが凍れば、跳べない。……でも、十三頭全部の足もとは無理よ」
「囲いの前だけでいい」
ハルトは言った。
「俺の前に来させるから」
「来させる、って。……どうやって」
「羊を俺の後ろに集める。狼は、いちばん弱いところに回りこむって、羊飼いさんが言ってただろ」
ハルトは、囲いの柵を見た。
「だから、いちばん弱いところを俺にする」
リュネが、ハルトの顔をしばらく見ていた。
「……ばかね」
それから、少しだけ笑った。
「でも、理論的には、正しいわ」
月は、出なかった。
最初に気づいたのは、樽の男だった。
「……来たぞ。右の斜面の下。四つ」
ハルトは、盾を握り直した。
暗がりの中に目が光った。黄色い、普通の獣の目が四つ。八つ。もっと。
囲いを回りこむように、ゆっくり広がっていく。
それから、斜面の上。
一つだけ、離れたところに。
青白い光が二つ、浮かんでいた。
その光がすっと細くなった。
低い唸り声が、斜面から降りてきた。
狼たちが一斉に動いた。
ハルトの前に三頭。囲いの破れた柵のほうに、四頭。羊小屋の裏に残り。
「左の柵!」
樽の男の声が飛んだ。
「三頭目の、足が速い! 先に来るぞ!」
屋根の上でユノの弓が鳴った。一頭が転がった。ヤンの矢が、二頭目の前の地面に刺さり、狼が跳びのいた。
ハルトの前の三頭が、間合いを詰めてきた。
肩を見た。
一頭目の肩が下がった。
(……来る)
跳んだ。
ハルトは、盾を前に出した。正面ではなく、少し斜めに。
狼の体が盾に当たった。重かった。肘から肩まで衝撃が抜けた。でも、まっすぐ受けなかった分、狼の体は盾の面を滑った。
ハルトは、盾の縁をほんの少しだけ押した。
狼が、横向きに地面へ落ちた。
起き上がる前にロブの槍が入った。
(……今の)
受けただけではなかった。滑らせて、押した。狼は、自分の跳んだ勢いで転んだ。
崩した、と言っていいのかどうか、ハルトにはわからなかった。
でも、受けて止めただけの時とは、手応えが違った。
二頭目が来た。
肩が下がる。盾を斜めに出す。滑らせる。
今度は、うまくいかなかった。狼は盾の縁に牙をかけて、ハルトの腕ごと引きずろうとした。足が半歩、前に出た。
「リュネ!」
「わかってる!」
囲いの内側から、冷たいものが地面を走った。
ハルトの足もとから前に、薄い氷が広がった。狼の後ろ足が氷の上で滑った。牙が盾から外れた。
ロブの槍。
二頭目が動かなくなった。
三頭目は、氷の手前で止まった。跳ぼうとして、跳ばなかった。
斜面の上で、青白い目がまた細くなった。
唸り声。
破れた柵のほうに回っていた狼たちが、急に向きを変えた。ハルトの前へ。氷の手前に、六頭、七頭と集まってくる。
「……数で押す気だ」
ロブが低く言った。
ハルトは、斜面を見上げた。
青白い目は、動いていなかった。一歩も。ほかの狼が倒れても、ずっとそこから見ていた。
(……あいつだ)
あいつが、全部を動かしている。
「ユノ姉!」
ハルトは叫んだ。
「斜面の上! 目が光ってるやつ!」
「遠いよ!」
「ヤンさんと、二人で!」
屋根の上で、二つの弓が同時に引かれる音がした。
その間に、氷の手前の狼たちが動いた。
三頭が同時に跳んだ。
ハルトは、盾を構えた。一頭を受け、滑らせた。二頭目はロブが槍の柄で払った。三頭目が、盾の下をくぐって、ハルトの脚に向かってきた。
間に合わなかった。
脛に牙が触れた。
その瞬間、荷車の陰から松明が飛んできた。狼の鼻先で火の粉が散った。狼が悲鳴を上げて跳びのいた。
ニコだった。
「当たった! 今の、当たったよね!」
「当たってない!」
若い御者が叫んだ。
「でも、効いた!」
屋根の上で弓が鳴った。
二本の矢が闇を抜けていった。
一本が外れた。
もう一本が、斜面の上の青白い光のすぐ下に刺さった。
長い甲高い声が上がった。
青白い光が揺れた。それから、一つ消え、もう一つも消えた。
氷の手前にいた狼たちが、動きを止めた。
頭を上げて、斜面のほうを見た。
それから、ばらばらに散った。右へ、左へ、森のほうへ。もう、どの一頭も、ほかの狼を見ていなかった。
さっきまで一つの群れだったものが、ただの十頭と少しの獣に戻っていた。
斜面の上の大きな狼は、ヤンの矢を首の下に受けて倒れていた。
ほかの狼より、ひと回り大きかった。毛が、ところどころ抜けて、地肌が見えていた。
目は、もう光っていなかった。
濁った、普通の灰色の目だった。
リュネが、その横にしゃがんだ。指先が白くなっていた。氷を一度張っただけの軽い冷えだった。
「……さっきまで光ってたのよね」
「うん」
「死んだら、消えた」
リュネは、手帳を開いた。炭筆が少し震えていた。冷えのせいだと、リュネは言った。
日付を書いた。それから、東の村、と書いた。
「十三。……うち、倒したのが四。逃げたのが九」
それから、少し間を置いて書いた。
「目。一頭。青白い」
リュネは、その行を指でなぞった。
「洞窟の獣と同じ色だった」
ハルトは、何も言わなかった。
ユノが、ハルトの脛を見ていた。ズボンが裂けて、皮膚に浅い引っかき傷があった。血は、ほとんど出ていなかった。
「……痛い?」
「痛くない……」
「嘘」
「……少しだけ」
ユノが布を巻いてくれた。
ロブは、袖が破れたのを気にしていた。ヤンは、外した一本の矢を探しに斜面を下りていった。ニコは、まだ「当たったと思うんだけどなあ」と言っていた。
荷台の上で、樽の男が、地面を見下ろしていた。
「……三頭目の、足が速いって言ったろ」
「はい。助かりました」
ハルトが言うと、樽の男は少しだけ黙った。
それから、笑った。
ハルトは、樽の男が笑うのを、初めて見た気がした。
朝、羊飼いが、羊を二頭連れてきた。塩の小さな袋も。
「これで足りるかどうか」
「足ります」
ハルトは言った。それから、少し笑った。
「軍師の人がそう言うと思います」
羊飼いは、ハルトの顔をしばらく見ていた。
「……名前を聞いてもいいか。盟主さんの」
「ハルトです」
「ハルト」
羊飼いは、繰り返した。
「村の者に言っとく。……狼の夜に、来てくれた盾の名前だって」
荷台に羊が二頭乗った。樽の男が、迷惑そうな顔で羊の横に座り直した。
帰り道、リュネはずっと手帳を開いていた。
「春から、なのよね」
リュネが言った。
「狼が大きな群れになったのも。青白い目が、また出てきたのも。……全部、春から」
「何か、あったのかな。春に」
「わからない」
リュネは、手帳を閉じた。
「でも、何かが始まったのよ。……どこかで」
リュネは、手帳を膝の上に置いたまま、空を見ていた。
ハルトも同じ空を見た。
どこで何が始まったのか。それは、まだ手帳のどの頁にも書いていなかった。




