↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第七章 黒い旗

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
105/106

第105話 どこからも

三日目の昼過ぎ、尾根の上でラースが足を止めた。

「ここから、見える」

ハルトは、ラースの横に並んだ。

谷が下にあった。

段々畑が、斜面に何段も重なっていた。どの段も薄い緑で覆われていた。種麦の芽だった。前にここへ来た時は、雪の残る灰色の土しかなかった。

石の家が二十と少し。沢の音。沢のほとりに、水車小屋の屋根が見えた。

それから、谷の向こう。

丘の上に四角い壁があった。

まだ半分しかできていなかった。黒ずんだ石と、切り出したばかりの白い石。四隅に塔の土台らしいものが四つ。その一つの上に旗が立っていた。

黒かった。

風が吹いても、何も見えなかった。紋も、色の筋も。ただ黒い布が、はためいているだけだった。

「……でかいな」

ニコが言った。いつもより、声が小さかった。

ヤンは、何も言わなかった。壁の上を端から端まで見ていた。人の数を数えているのだと、ハルトにはわかった。

「表の道は、丘から丸見えだ」

ラースが言った。

「裏から下りる。……炭焼き小屋の道だ」


ラースの「婆さん」の家は、谷のいちばん奥にあった。

戸口に出てきた年寄りの女は、ラースを見て、それからラースの腕を見た。

左の二の腕に橙と藍の布。

「巻いたのかい」

「巻いた」

「そうかい」

年寄りの女は、それだけ言った。

それから、ハルトを見た。灰色の右腕を見て、背中の剣を見て、また顔を見た。

「盟主の坊やだね。雪解けの頃の」

「はい」

「入りな。……狭いけど」

家の中には、男が一人いた。

三十には届かないくらいの男だった。年寄りの女の息子だと、ハルトは覚えていた。秋に帝国の兵に取られて、焼け跡の戦いで前の列から森へ逃げ、谷へ帰ってきた人だった。

男は、ハルトに頭を下げなかった。目を合わせなかった。

年寄りの女が湯を出してくれた。

「来たよ。昨日」

年寄りの女は言った。

「黒い旗の連中が。沢まで桶を下げて」

ラースが湯の椀を置いた。

「何か、されたのか」

「されてないよ。何も」

年寄りの女は、首を振った。

「畑も踏まなかった。家にも入らなかった。……水を汲んで、それから、あたしに頭を下げた」

「頭を」

「水を運んでくれって」

年寄りの女は、膝の上で手を組んだ。

「丘の上の井戸じゃ、足りないんだと。……運んでくれたら、麦で払う。運ばなくても、谷には何もしない。そう言った」

ハルトは、ノエラが帳面の端に描いた四角を思い出した。真ん中の点が一つ。

「運べ、って言われたのかと、思ってた」

ラースが言った。

「あたしもさ」

年寄りの女は、少しだけ笑った。

「でも、頼まれたんだよ。……ああいう頼み方をされたのは、初めてだね。帝国にも、誰にも」

息子が、戸口のほうを見ていた。


午後、ハルトたちは水車小屋の裏にいた。

壁の板の隙間から、沢が見えた。ラースが、黒い旗の連中は日が傾く前に水を汲みに来る、と言った。昨日もそうだったのだと。

ヤンが弓を下ろしていた。

「見るだけです」

ハルトは言った。

「はい」

ヤンは、頷いた。

ニコが、板の隙間に目を寄せていた。札を持たない手が、膝の上で落ち着かなかった。

足音が来た。

丘からの道を、一列になって下りてくる。

十人と少し。桶を下げていた。鎧は着ていない。外套の色が、一人ずつ違っていた。継ぎの当たった茶色。色の褪せた緑。帝国の兵のものらしい灰色を、裏返して着ている者もいた。

段々畑の脇を通る時、列が細くなった。

誰も畝を踏まなかった。

(……ラースさんの、言ったとおりだ)

列の真ん中あたりに、背の低いものが混じっていた。

子供だった。

小さな桶を両手で下げていた。中身がこぼれないように、一歩ずつ足もとを見ていた。前を歩く大人が、時々振り返って、子供の歩幅に合わせていた。

ハルトの胸の奥で、何かが小さく縮んだ。

沢に着くと、列はほどけた。桶を沢に沈めて、水を汲む。誰かが冗談を言ったらしく、何人かが笑った。

子供も笑っていた。

その時、沢の下手から、三人の若い男が来た。

谷の男たちだった。一人は、年寄りの女の息子だった。

黒い旗の連中の何人かが、顔を上げた。

誰も剣に手をやらなかった。

「水かい」

黒い旗の一人が言った。四十くらいの男で、首の横に古い焼き印があった。

「……ここは、俺たちの沢だ」

息子が言った。

「そうだな」

焼き印の男は、あっさり言った。

「だから、汲ませてもらってる。……婆さんには、昨日、頼んだ」

息子は、何も言わなかった。

焼き印の男は、桶を沢から上げた。それから、息子の手首を見た。

ハルトも見た。

息子の手首には、何もなかった。鎖の跡も、焼き印も。

でも、焼き印の男は、別のものを見たようだった。

「秋に持っていかれたのか。麦と男を」

息子の顔がこわばった。

「……持っていかれた。前の列に並ばされた」

「そうか」

「それで、逃げたんだよ。森に。……ほかの奴らが、まだ並んでるのに」

息子の声が少し大きくなった。

焼き印の男は、笑わなかった。

「来たけりゃ、来い」

焼き印の男は言った。

水車小屋の裏で、ニコの息が止まった。

「上には、誰も何も聞く奴はいねえ。どこから来たかも。何をしてきたかも。……逃げたかどうかも」

焼き印の男は、桶を肩に担いだ。

「聞かれねえってのは、楽なもんだぞ」

息子は、動かなかった。

列の後ろのほうで誰かが言った。

「ほら、行くぞ。こぼすなよ」

子供に言ったのだと思った。

その声を聞いた時、ヤンの肩が動いた。

ハルトは、ヤンを見た。ヤンは、板の隙間から目を離さなかった。

「……ベルナの言葉です」

ヤンが言った。ほとんど息だけの声だった。

ハルトも聞いていた。

避難所の焚き火の輪で聞いた言葉。ヤンが初めて弓を向けてきた夜の言葉。同じ訛りだった。

声の主を探した。列は、もう丘へ向かって歩き出していた。見えたのは、背中だけだった。子供の桶を片手で支えて歩く背中。

列は、来た時と同じように、畝をよけて登っていった。

三人の谷の男たちは、沢のほとりに立ったまま、それを見送っていた。

いちばん長く見ていたのは、息子だった。


夜、年寄りの女の家で粥をもらった。

息子は、粥に手をつけなかった。

しばらくして、息子のほうから口を開いた。

「……あいつらは、聞かなかった」

ハルトは、匙を止めた。

「どこから来たか、って」

息子は、ハルトを見なかった。

「焼け跡は、聞くんだろ。門で」

「聞きます」

ハルトは言った。

「トマさんが。……どこから来た、って」

「なんて答えりゃいいんだ」

「来たところを、そのまま言えばいいんです」

ハルトは、ニコを見た。ニコは「橋から」と言った。コレットは「ポルタから」と言った。ラースは、「谷から」と言った。

息子は、少し黙った。

「言えねえところから来た奴は、どうすんだ」

ハルトは、答えられなかった。

森から。逃げた先から。ほかの誰かがまだ列に並んでいるのを、木の陰から見ていた場所から。

それを門の前で口に出せるのか。

(……トマさんなら、何て、言うだろう)

わからなかった。

年寄りの女が鍋の蓋を閉めた。

「明日、もう一度来るってさ。あの連中」

年寄りの女は言った。

「水のことの返事を聞きに。……谷の皆で決めなきゃね」

息子は、立ち上がった。

戸口の外へ出ていった。

ハルトは、戸口から外を見た。

丘の上に火が見えた。いくつも。

笑い声が、風に乗って、ほんの少しだけ届いた。

誰も、どこから来たかを聞かれない場所の、笑い声だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。