第105話 どこからも
三日目の昼過ぎ、尾根の上でラースが足を止めた。
「ここから、見える」
ハルトは、ラースの横に並んだ。
谷が下にあった。
段々畑が、斜面に何段も重なっていた。どの段も薄い緑で覆われていた。種麦の芽だった。前にここへ来た時は、雪の残る灰色の土しかなかった。
石の家が二十と少し。沢の音。沢のほとりに、水車小屋の屋根が見えた。
それから、谷の向こう。
丘の上に四角い壁があった。
まだ半分しかできていなかった。黒ずんだ石と、切り出したばかりの白い石。四隅に塔の土台らしいものが四つ。その一つの上に旗が立っていた。
黒かった。
風が吹いても、何も見えなかった。紋も、色の筋も。ただ黒い布が、はためいているだけだった。
「……でかいな」
ニコが言った。いつもより、声が小さかった。
ヤンは、何も言わなかった。壁の上を端から端まで見ていた。人の数を数えているのだと、ハルトにはわかった。
「表の道は、丘から丸見えだ」
ラースが言った。
「裏から下りる。……炭焼き小屋の道だ」
ラースの「婆さん」の家は、谷のいちばん奥にあった。
戸口に出てきた年寄りの女は、ラースを見て、それからラースの腕を見た。
左の二の腕に橙と藍の布。
「巻いたのかい」
「巻いた」
「そうかい」
年寄りの女は、それだけ言った。
それから、ハルトを見た。灰色の右腕を見て、背中の剣を見て、また顔を見た。
「盟主の坊やだね。雪解けの頃の」
「はい」
「入りな。……狭いけど」
家の中には、男が一人いた。
三十には届かないくらいの男だった。年寄りの女の息子だと、ハルトは覚えていた。秋に帝国の兵に取られて、焼け跡の戦いで前の列から森へ逃げ、谷へ帰ってきた人だった。
男は、ハルトに頭を下げなかった。目を合わせなかった。
年寄りの女が湯を出してくれた。
「来たよ。昨日」
年寄りの女は言った。
「黒い旗の連中が。沢まで桶を下げて」
ラースが湯の椀を置いた。
「何か、されたのか」
「されてないよ。何も」
年寄りの女は、首を振った。
「畑も踏まなかった。家にも入らなかった。……水を汲んで、それから、あたしに頭を下げた」
「頭を」
「水を運んでくれって」
年寄りの女は、膝の上で手を組んだ。
「丘の上の井戸じゃ、足りないんだと。……運んでくれたら、麦で払う。運ばなくても、谷には何もしない。そう言った」
ハルトは、ノエラが帳面の端に描いた四角を思い出した。真ん中の点が一つ。
「運べ、って言われたのかと、思ってた」
ラースが言った。
「あたしもさ」
年寄りの女は、少しだけ笑った。
「でも、頼まれたんだよ。……ああいう頼み方をされたのは、初めてだね。帝国にも、誰にも」
息子が、戸口のほうを見ていた。
午後、ハルトたちは水車小屋の裏にいた。
壁の板の隙間から、沢が見えた。ラースが、黒い旗の連中は日が傾く前に水を汲みに来る、と言った。昨日もそうだったのだと。
ヤンが弓を下ろしていた。
「見るだけです」
ハルトは言った。
「はい」
ヤンは、頷いた。
ニコが、板の隙間に目を寄せていた。札を持たない手が、膝の上で落ち着かなかった。
足音が来た。
丘からの道を、一列になって下りてくる。
十人と少し。桶を下げていた。鎧は着ていない。外套の色が、一人ずつ違っていた。継ぎの当たった茶色。色の褪せた緑。帝国の兵のものらしい灰色を、裏返して着ている者もいた。
段々畑の脇を通る時、列が細くなった。
誰も畝を踏まなかった。
(……ラースさんの、言ったとおりだ)
列の真ん中あたりに、背の低いものが混じっていた。
子供だった。
小さな桶を両手で下げていた。中身がこぼれないように、一歩ずつ足もとを見ていた。前を歩く大人が、時々振り返って、子供の歩幅に合わせていた。
ハルトの胸の奥で、何かが小さく縮んだ。
沢に着くと、列はほどけた。桶を沢に沈めて、水を汲む。誰かが冗談を言ったらしく、何人かが笑った。
子供も笑っていた。
その時、沢の下手から、三人の若い男が来た。
谷の男たちだった。一人は、年寄りの女の息子だった。
黒い旗の連中の何人かが、顔を上げた。
誰も剣に手をやらなかった。
「水かい」
黒い旗の一人が言った。四十くらいの男で、首の横に古い焼き印があった。
「……ここは、俺たちの沢だ」
息子が言った。
「そうだな」
焼き印の男は、あっさり言った。
「だから、汲ませてもらってる。……婆さんには、昨日、頼んだ」
息子は、何も言わなかった。
焼き印の男は、桶を沢から上げた。それから、息子の手首を見た。
ハルトも見た。
息子の手首には、何もなかった。鎖の跡も、焼き印も。
でも、焼き印の男は、別のものを見たようだった。
「秋に持っていかれたのか。麦と男を」
息子の顔がこわばった。
「……持っていかれた。前の列に並ばされた」
「そうか」
「それで、逃げたんだよ。森に。……ほかの奴らが、まだ並んでるのに」
息子の声が少し大きくなった。
焼き印の男は、笑わなかった。
「来たけりゃ、来い」
焼き印の男は言った。
水車小屋の裏で、ニコの息が止まった。
「上には、誰も何も聞く奴はいねえ。どこから来たかも。何をしてきたかも。……逃げたかどうかも」
焼き印の男は、桶を肩に担いだ。
「聞かれねえってのは、楽なもんだぞ」
息子は、動かなかった。
列の後ろのほうで誰かが言った。
「ほら、行くぞ。こぼすなよ」
子供に言ったのだと思った。
その声を聞いた時、ヤンの肩が動いた。
ハルトは、ヤンを見た。ヤンは、板の隙間から目を離さなかった。
「……ベルナの言葉です」
ヤンが言った。ほとんど息だけの声だった。
ハルトも聞いていた。
避難所の焚き火の輪で聞いた言葉。ヤンが初めて弓を向けてきた夜の言葉。同じ訛りだった。
声の主を探した。列は、もう丘へ向かって歩き出していた。見えたのは、背中だけだった。子供の桶を片手で支えて歩く背中。
列は、来た時と同じように、畝をよけて登っていった。
三人の谷の男たちは、沢のほとりに立ったまま、それを見送っていた。
いちばん長く見ていたのは、息子だった。
夜、年寄りの女の家で粥をもらった。
息子は、粥に手をつけなかった。
しばらくして、息子のほうから口を開いた。
「……あいつらは、聞かなかった」
ハルトは、匙を止めた。
「どこから来たか、って」
息子は、ハルトを見なかった。
「焼け跡は、聞くんだろ。門で」
「聞きます」
ハルトは言った。
「トマさんが。……どこから来た、って」
「なんて答えりゃいいんだ」
「来たところを、そのまま言えばいいんです」
ハルトは、ニコを見た。ニコは「橋から」と言った。コレットは「ポルタから」と言った。ラースは、「谷から」と言った。
息子は、少し黙った。
「言えねえところから来た奴は、どうすんだ」
ハルトは、答えられなかった。
森から。逃げた先から。ほかの誰かがまだ列に並んでいるのを、木の陰から見ていた場所から。
それを門の前で口に出せるのか。
(……トマさんなら、何て、言うだろう)
わからなかった。
年寄りの女が鍋の蓋を閉めた。
「明日、もう一度来るってさ。あの連中」
年寄りの女は言った。
「水のことの返事を聞きに。……谷の皆で決めなきゃね」
息子は、立ち上がった。
戸口の外へ出ていった。
ハルトは、戸口から外を見た。
丘の上に火が見えた。いくつも。
笑い声が、風に乗って、ほんの少しだけ届いた。
誰も、どこから来たかを聞かれない場所の、笑い声だった。




