第104話 四人目の布
ピムが、椀を持ってきた。
ラースは、門柱の横に座りこんだまま、それを両手で受け取った。飲まずに、湯気だけを見ていた。
「数は」
ノエラが聞いた。帳面はもう開いていた。
「わからねえ」
ラースは首を振った。
「谷から見上げても、柵の中までは見えねえ。……登っていくのは、何十人も見た。数えようとしたけど、途中でわからなくなった」
ノエラの炭筆が動いて、止まった。
「谷には」
ハルトが聞いた。
「下りてきてねえ。まだ」
ラースは、椀の縁に口をつけた。一口だけ飲んで、また下ろした。
「……畑を、踏まなかったんだ」
「畑?」
「丘へ登る道は、谷の畑の脇を通る。芽が出たばかりの、種麦の畝だ」
ラースの指が、椀の縁をなぞった。
「あいつら、畝をよけて歩いてた。一列になって。……誰も、そうしろって、言ってねえのに」
誰も、何も言わなかった。
セラが、門柱の陰に立っていた。左手は外套の脇にあった。
「言葉は」
セラが聞いた。
「ばらばらだ。北の訛りも、西のも。……聞いたことのねえのも」
セラは、それ以上は聞かなかった。
ラースは、椀を膝の上に置いた。それから、門の内側を見回した。
鍋の煙。倉。ネリの炉。稽古場の柵。
その目が、何かを探していた。
ハルトには、何を探しているのかがわかった。
ラースの後ろに、帝国の靴の二人が立っていた。二人とも、ラースの顔を見なかった。
「……フーゴは」
ラースが言った。
北の斜面は、朝の光がまだ届いていなかった。
正面の死者たちの隣に、新しい土が二つ。一つはポルタの髭の御者。もう一つが、フーゴだった。
ラースは、その前に立った。
長いこと、立っていた。
帝国の靴の二人が、少し後ろにいた。ハルトは、その横にいた。ウルリクが、杖をついて、斜面の下で止まっていた。
「崖の道か」
ラースが言った。
「はい」
ハルトは言った。
「霧の切れ目で、矢を受けて。……それでも、円まで走って、隙間に立ちました。そこで」
「……そうか」
ラースは、土を見ていた。
「あいつ、走るのだけは、遅かったんだ。陣にいた頃から」
二人のうちの一人が、短く息を吐いた。笑ったのかもしれなかった。
ハルトは、土の前に膝をついた。
言わなければならないことがあった。
「戻ったら、もう一度、聞きますって、言いました」
ラースが、ハルトを見た。
「東の砦へ行く前に。……四人に」
ハルトは、新しい土を見た。
「フーゴさんには、聞けませんでした」
斜面を、風が上がってきた。
ラースは、しばらく黙っていた。
「巻いていいかどうかは、そっちが決めることだ。……そう言ったろ。俺は」
「はい」
「なら、聞く相手が、違うだろ」
「だから、今夜、みんなに聞きます」
ハルトは言った。
「それから、もう一度、三人に聞きます」
ラースは、何か言いかけて、やめた。
斜面の下で、ウルリクの杖が一度、土を突いた。
その夜、鍋の列で、ハルトは立った。
列の端に、帝国の靴の三人がいた。いつもの場所だった。鍋からいちばん遠い、壁の影の際。
ハルトは、全員を見た。
「帝国の靴の、三人のことです」
鍋の湯気の向こうで、何人かが顔を上げた。
「冬に、焼け跡の戦いの後で、残るって言ってくれました。春に、東の砦へ道を案内してくれました。崖の道で、牛の道を登って、弩を止めてくれました」
ハルトは、三人のほうは見なかった。
「布を、巻いてもらってもいいか。……みんなに、聞きます」
鍋の列が、静かになった。
最初に声を出したのは、ウルリクだった。
「鞴を、引いた奴らだ」
冬と同じ言葉だった。
ウルリクは、杖の先で地面を一度突いた。
「……二回目だぞ。もう、聞くな」
それで、手が上がった。
ロブが上げた。ベックが上げた。トマが、門の持ち場から片手だけ上げた。ピムが鍋の柄を握ったまま、反対の手を上げた。東の谷の男たちが上げた。陣の外れの村の男たちが上げた。稽古場の樽の男が、杖を脇に挟んで上げた。
ゴードンが、樽に座ったまま、ゆっくり手を上げた。
ベックが、手を上げたまま、三人の足もとを見た。
「その靴のまま、か」
三人が、自分の足を見た。帝国の陣の、底の厚い靴だった。
「……これしか、ねえんだよ」
二人のうちの一人が言った。
列のどこかで、誰かが噴き出した。それがすぐに広がった。ニコがいちばん大きな声で笑っていた。コレットが「靴の底、厚いのはいいことだよ。堀を掘るのに」と言って、また笑いが起きた。
ハルトも、笑っていた。
気づいたら、笑っていた。
ノエラが、帳面を閉じた。
「布は、あります」
ノエラは言った。
「巻いた日に、書きます。戦える人の頁に」
三人が、ハルトの前に来た。
ハルトは、もう一度聞いた。
「巻いて、もらえますか」
ラースは、すぐには答えなかった。
後ろの二人を見た。二人は、ラースを見ていた。
「巻く」
ラースが言った。
「三人とも」
ノエラが、布を三本出した。橙と藍の、細長い布。古い天幕の切れ端と、誰かの外套の裏地。色は、少しずつばらばらだった。
ラースは、一本を受け取った。
それから、ノエラの手もとを見た。
「……もう一本、くれ」
ノエラの手が止まった。
「フーゴの分だ」
鍋の列の音が、また消えた。
ノエラは、ラースを見た。それから、帳面を開いた。いちばん後ろの頁。帝国の靴の四人の名前。その一つの横に、日付があった。
ノエラは、袋からもう一本、布を出した。
ラースは、二本を受け取った。
「ここの決まりは、自分で巻くんだろ」
ラースは言った。ハルトにではなく、自分に言ったようだった。
ハルトは、レオニスの声を思い出した。
誰かに巻いてもらった布は、いつか、誰かのせいにできる。自分で巻いた腕は、自分のものだ。
「こいつは、もう、自分じゃ巻けねえ」
ラースは、二本目の布を握っていた。
ハルトは、何も言えなかった。
(……どう、言えばいい)
フーゴが巻きたかったかどうか、ハルトは知らなかった。聞く前に、死んでしまった。
「フーゴは、鞴を引いた」
ウルリクが言った。
杖をついて、列の中から出てきていた。
「冬に。俺の隣で。……誰にも、引けって、言われてねえのに」
ウルリクは、ラースの手の布を見た。
「あれが、あいつの答えだ。……あいつは、自分で、巻いてたんだよ。とっくに」
ラースの顔が、一度だけ歪んだ。
それから、頷いた。
北の斜面に、松明を一本持っていった。
ついてきたのは、三人と、ハルトと、ノエラだけだった。ほかの者は、鍋の列から見ていた。
ラースが、フーゴの土の前に膝をついた。
墓の頭に立てた杭に、布を回した。一度。二度。結び目を作るのに、少し時間がかかった。指が震えていたのか、松明の火が揺れていたのか、ハルトにはわからなかった。
結んだ。
それから、三人が、自分の腕に布を巻いた。
左の二の腕に。
二人のうちの一人は、一度ほどけて、巻き直した。もう一人は、歯で端を噛んで引いた。ハルトが、初めて巻いた日と同じだった。
ラースは、最後に巻いた。
巻き終えて、杭の布と、自分の腕の布を、かわるがわる見た。
「……四人だ」
ラースは言った。
ノエラが、帳面を開いた。
戦える人の頁に、三つの名前を書いた。それから、いちばん後ろの頁を開いた。フーゴの名前と日付の横に、小さく書き足した。
「布、一」
ノエラは、声に出して読んだ。
炭筆は、震えていなかった。
「二百、十七」
ハルトは、松明の火を見た。
(……四人に、聞けた)
喉の奥が、少し熱かった。
谷のことは、鍋の列に戻ってから話した。
ノエラが、帳面の端に、四角を一つ描いた。四隅に小さな丸。真ん中に点が一つ。
「コレットさんの知っている図面です」
「そうだよ」
コレットが、腕を組んだ。
「四隅に塔。井戸は、真ん中に一つだけ」
「黒い旗の人たちが、何人入ったのかは、わかりません」
ノエラは言った。
「でも、柵の中で暮らすなら、水が要ります。井戸一つでは、夏を越せません。……今は、春の終わりです」
ノエラの炭筆が、四角の下に、波の線を引いた。谷の沢だった。
「水は、谷から運ぶことになります。谷の人に、運ばせるか。……自分たちで、汲みに下りてくるか」
ウルリクが、鼻を鳴らした。
「畑をよける連中が、か」
「はい」
ノエラは顔を上げた。
「畑をよける人たちが、です」
ウルリクは、しばらく黙っていた。
「……行儀のいい敵が、いちばん厄介だ」
サビナが、斧槍の柄に顎をのせていた。
「紋のない旗、ね」
サビナは言った。
「何も描いてない旗の下に集まる連中は、金じゃ動かないよ。……傭兵が、いちばん嫌いな相手だ」
誰も、笑わなかった。
ハルトは、全員を見た。
「谷のことは、谷の人が決めます」
それは、東の谷の男が言ったことだった。
「でも、谷の人が、何を見て決めるのか。……俺たちも、見ておきたいです」
「戦いに行くのか」
ロブが聞いた。
「見に行きます」
ハルトは言った。
「谷の人に、聞きに行きます」
ノエラが、帳面に書いた。
「戦う数では、ありません。……聞く数です」
ヤンが、黙って一歩出た。
ラースが、腕の布に触れた。
「道は、俺が知ってる。……谷は、俺の谷だ」
ニコが、手を上げた。
「俺も。……顔を覚えるのは、得意なんだ」
ノエラは、四つの名前を書いた。
「四人です」
トマが、門の持ち場から言った。
「行く時は」
「言ってから、行きます」
ハルトは言った。
夜更け、ハルトはもう一度、北の斜面に上がった。
松明はもう消えていた。杭の布は、暗くて色がわからなかった。風が吹くと、端だけが小さく動いた。
ラースが、そこにいた。
膝を抱えて、土の前に座っていた。
ハルトは、隣に座った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「……一つ、言ってなかった」
ラースが言った。
「門の前じゃ、言えなかった。……言ったら、本当のことになる気がして」
ハルトは、ラースを見た。
ラースは、東を見ていた。
「丘を登っていった連中の中に。……子供が、いた」
ハルトの背中が、冷たくなった。
「五つか、六つか。もっと大きいのも、いた」
ラースの声は、低かった。
「大人に、手を引かれて」
ラースは、腕の布を、もう片方の手で押さえた。
「笑ってたんだよ。……そいつらも」
東の空には、まだ何も見えなかった。
その向こうに、丘がある。
紋のない旗が立つ丘が。




