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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第七章 黒い旗

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第104話 四人目の布

ピムが、椀を持ってきた。

ラースは、門柱の横に座りこんだまま、それを両手で受け取った。飲まずに、湯気だけを見ていた。

「数は」

ノエラが聞いた。帳面はもう開いていた。

「わからねえ」

ラースは首を振った。

「谷から見上げても、柵の中までは見えねえ。……登っていくのは、何十人も見た。数えようとしたけど、途中でわからなくなった」

ノエラの炭筆が動いて、止まった。

「谷には」

ハルトが聞いた。

「下りてきてねえ。まだ」

ラースは、椀の縁に口をつけた。一口だけ飲んで、また下ろした。

「……畑を、踏まなかったんだ」

「畑?」

「丘へ登る道は、谷の畑の脇を通る。芽が出たばかりの、種麦の畝だ」

ラースの指が、椀の縁をなぞった。

「あいつら、畝をよけて歩いてた。一列になって。……誰も、そうしろって、言ってねえのに」

誰も、何も言わなかった。

セラが、門柱の陰に立っていた。左手は外套の脇にあった。

「言葉は」

セラが聞いた。

「ばらばらだ。北の訛りも、西のも。……聞いたことのねえのも」

セラは、それ以上は聞かなかった。

ラースは、椀を膝の上に置いた。それから、門の内側を見回した。

鍋の煙。倉。ネリの炉。稽古場の柵。

その目が、何かを探していた。

ハルトには、何を探しているのかがわかった。

ラースの後ろに、帝国の靴の二人が立っていた。二人とも、ラースの顔を見なかった。

「……フーゴは」

ラースが言った。


北の斜面は、朝の光がまだ届いていなかった。

正面の死者たちの隣に、新しい土が二つ。一つはポルタの髭の御者。もう一つが、フーゴだった。

ラースは、その前に立った。

長いこと、立っていた。

帝国の靴の二人が、少し後ろにいた。ハルトは、その横にいた。ウルリクが、杖をついて、斜面の下で止まっていた。

「崖の道か」

ラースが言った。

「はい」

ハルトは言った。

「霧の切れ目で、矢を受けて。……それでも、円まで走って、隙間に立ちました。そこで」

「……そうか」

ラースは、土を見ていた。

「あいつ、走るのだけは、遅かったんだ。陣にいた頃から」

二人のうちの一人が、短く息を吐いた。笑ったのかもしれなかった。

ハルトは、土の前に膝をついた。

言わなければならないことがあった。

「戻ったら、もう一度、聞きますって、言いました」

ラースが、ハルトを見た。

「東の砦へ行く前に。……四人に」

ハルトは、新しい土を見た。

「フーゴさんには、聞けませんでした」

斜面を、風が上がってきた。

ラースは、しばらく黙っていた。

「巻いていいかどうかは、そっちが決めることだ。……そう言ったろ。俺は」

「はい」

「なら、聞く相手が、違うだろ」

「だから、今夜、みんなに聞きます」

ハルトは言った。

「それから、もう一度、三人に聞きます」

ラースは、何か言いかけて、やめた。

斜面の下で、ウルリクの杖が一度、土を突いた。


その夜、鍋の列で、ハルトは立った。

列の端に、帝国の靴の三人がいた。いつもの場所だった。鍋からいちばん遠い、壁の影の際。

ハルトは、全員を見た。

「帝国の靴の、三人のことです」

鍋の湯気の向こうで、何人かが顔を上げた。

「冬に、焼け跡の戦いの後で、残るって言ってくれました。春に、東の砦へ道を案内してくれました。崖の道で、牛の道を登って、弩を止めてくれました」

ハルトは、三人のほうは見なかった。

「布を、巻いてもらってもいいか。……みんなに、聞きます」

鍋の列が、静かになった。

最初に声を出したのは、ウルリクだった。

「鞴(ふいご)を、引いた奴らだ」

冬と同じ言葉だった。

ウルリクは、杖の先で地面を一度突いた。

「……二回目だぞ。もう、聞くな」

それで、手が上がった。

ロブが上げた。ベックが上げた。トマが、門の持ち場から片手だけ上げた。ピムが鍋の柄を握ったまま、反対の手を上げた。東の谷の男たちが上げた。陣の外れの村の男たちが上げた。稽古場の樽の男が、杖を脇に挟んで上げた。

ゴードンが、樽に座ったまま、ゆっくり手を上げた。

ベックが、手を上げたまま、三人の足もとを見た。

「その靴のまま、か」

三人が、自分の足を見た。帝国の陣の、底の厚い靴だった。

「……これしか、ねえんだよ」

二人のうちの一人が言った。

列のどこかで、誰かが噴き出した。それがすぐに広がった。ニコがいちばん大きな声で笑っていた。コレットが「靴の底、厚いのはいいことだよ。堀を掘るのに」と言って、また笑いが起きた。

ハルトも、笑っていた。

気づいたら、笑っていた。

ノエラが、帳面を閉じた。

「布は、あります」

ノエラは言った。

「巻いた日に、書きます。戦える人の頁に」


三人が、ハルトの前に来た。

ハルトは、もう一度聞いた。

「巻いて、もらえますか」

ラースは、すぐには答えなかった。

後ろの二人を見た。二人は、ラースを見ていた。

「巻く」

ラースが言った。

「三人とも」

ノエラが、布を三本出した。橙と藍の、細長い布。古い天幕の切れ端と、誰かの外套の裏地。色は、少しずつばらばらだった。

ラースは、一本を受け取った。

それから、ノエラの手もとを見た。

「……もう一本、くれ」

ノエラの手が止まった。

「フーゴの分だ」

鍋の列の音が、また消えた。

ノエラは、ラースを見た。それから、帳面を開いた。いちばん後ろの頁。帝国の靴の四人の名前。その一つの横に、日付があった。

ノエラは、袋からもう一本、布を出した。

ラースは、二本を受け取った。

「ここの決まりは、自分で巻くんだろ」

ラースは言った。ハルトにではなく、自分に言ったようだった。

ハルトは、レオニスの声を思い出した。

誰かに巻いてもらった布は、いつか、誰かのせいにできる。自分で巻いた腕は、自分のものだ。

「こいつは、もう、自分じゃ巻けねえ」

ラースは、二本目の布を握っていた。

ハルトは、何も言えなかった。

(……どう、言えばいい)

フーゴが巻きたかったかどうか、ハルトは知らなかった。聞く前に、死んでしまった。

「フーゴは、鞴を引いた」

ウルリクが言った。

杖をついて、列の中から出てきていた。

「冬に。俺の隣で。……誰にも、引けって、言われてねえのに」

ウルリクは、ラースの手の布を見た。

「あれが、あいつの答えだ。……あいつは、自分で、巻いてたんだよ。とっくに」

ラースの顔が、一度だけ歪んだ。

それから、頷いた。


北の斜面に、松明を一本持っていった。

ついてきたのは、三人と、ハルトと、ノエラだけだった。ほかの者は、鍋の列から見ていた。

ラースが、フーゴの土の前に膝をついた。

墓の頭に立てた杭に、布を回した。一度。二度。結び目を作るのに、少し時間がかかった。指が震えていたのか、松明の火が揺れていたのか、ハルトにはわからなかった。

結んだ。

それから、三人が、自分の腕に布を巻いた。

左の二の腕に。

二人のうちの一人は、一度ほどけて、巻き直した。もう一人は、歯で端を噛んで引いた。ハルトが、初めて巻いた日と同じだった。

ラースは、最後に巻いた。

巻き終えて、杭の布と、自分の腕の布を、かわるがわる見た。

「……四人だ」

ラースは言った。

ノエラが、帳面を開いた。

戦える人の頁に、三つの名前を書いた。それから、いちばん後ろの頁を開いた。フーゴの名前と日付の横に、小さく書き足した。

「布、一」

ノエラは、声に出して読んだ。

炭筆は、震えていなかった。

「二百、十七」

ハルトは、松明の火を見た。

(……四人に、聞けた)

喉の奥が、少し熱かった。


谷のことは、鍋の列に戻ってから話した。

ノエラが、帳面の端に、四角を一つ描いた。四隅に小さな丸。真ん中に点が一つ。

「コレットさんの知っている図面です」

「そうだよ」

コレットが、腕を組んだ。

「四隅に塔。井戸は、真ん中に一つだけ」

「黒い旗の人たちが、何人入ったのかは、わかりません」

ノエラは言った。

「でも、柵の中で暮らすなら、水が要ります。井戸一つでは、夏を越せません。……今は、春の終わりです」

ノエラの炭筆が、四角の下に、波の線を引いた。谷の沢だった。

「水は、谷から運ぶことになります。谷の人に、運ばせるか。……自分たちで、汲みに下りてくるか」

ウルリクが、鼻を鳴らした。

「畑をよける連中が、か」

「はい」

ノエラは顔を上げた。

「畑をよける人たちが、です」

ウルリクは、しばらく黙っていた。

「……行儀のいい敵が、いちばん厄介だ」

サビナが、斧槍の柄に顎をのせていた。

「紋のない旗、ね」

サビナは言った。

「何も描いてない旗の下に集まる連中は、金じゃ動かないよ。……傭兵が、いちばん嫌いな相手だ」

誰も、笑わなかった。

ハルトは、全員を見た。

「谷のことは、谷の人が決めます」

それは、東の谷の男が言ったことだった。

「でも、谷の人が、何を見て決めるのか。……俺たちも、見ておきたいです」

「戦いに行くのか」

ロブが聞いた。

「見に行きます」

ハルトは言った。

「谷の人に、聞きに行きます」

ノエラが、帳面に書いた。

「戦う数では、ありません。……聞く数です」

ヤンが、黙って一歩出た。

ラースが、腕の布に触れた。

「道は、俺が知ってる。……谷は、俺の谷だ」

ニコが、手を上げた。

「俺も。……顔を覚えるのは、得意なんだ」

ノエラは、四つの名前を書いた。

「四人です」

トマが、門の持ち場から言った。

「行く時は」

「言ってから、行きます」

ハルトは言った。


夜更け、ハルトはもう一度、北の斜面に上がった。

松明はもう消えていた。杭の布は、暗くて色がわからなかった。風が吹くと、端だけが小さく動いた。

ラースが、そこにいた。

膝を抱えて、土の前に座っていた。

ハルトは、隣に座った。

しばらく、二人とも何も言わなかった。

「……一つ、言ってなかった」

ラースが言った。

「門の前じゃ、言えなかった。……言ったら、本当のことになる気がして」

ハルトは、ラースを見た。

ラースは、東を見ていた。

「丘を登っていった連中の中に。……子供が、いた」

ハルトの背中が、冷たくなった。

「五つか、六つか。もっと大きいのも、いた」

ラースの声は、低かった。

「大人に、手を引かれて」

ラースは、腕の布を、もう片方の手で押さえた。

「笑ってたんだよ。……そいつらも」

東の空には、まだ何も見えなかった。

その向こうに、丘がある。

紋のない旗が立つ丘が。

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