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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第六章 鉄の値段

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102/106

第102話 車陣

崖の道の手前でヤンが戻ってきた。

息を切らしていた。片袖の外套が汗で背中に張りついていた。

「崖の上に、います」

ヤンは言った。

「右に、弩が、四十くらい。左にも、同じくらい。黒い外套です。……道の真ん中あたりを、狙える場所に」

ノエラが帳面を開いた。

「荷は」

「まだ、崖の道に、入っていません。向こうの出口の手前の開けたところで、止まっています。……護衛の二人が、何か、気づいたみたいで」

ヤンは、もう一つ、息を吸った。

「それから。荷の後ろのポルタ側の街道に、騎馬が、二十と少し。……先頭の男は、腕に、布を」

ハルトは、盾の縁を握った。

「前は」

ノエラが聞いた。

「荷の前。崖の道の向こうの出口を、槍の列が、塞いでいます。……五十か、六十」

ノエラの炭筆が動いた。

弩、八十。槍、六十。騎馬、二十と少し。

百五十と少し。

「荷が、崖の道に、入れば」

ノエラは言った。

「上から、撃たれます。入らなければ、前と後ろから、挟まれます」

誰も何も言わなかった。

崖の上を風が渡っていった。

「入らせません」

ノエラは言った。

「こちらが、出ます」


崖の道は、荷車一台がやっと通れる幅だった。

八十と少しがそこを走った。

「霧、いくわよ」

リュネが長杖を掲げた。

糸が伸びた。ハルトの胸の奥から、名前と顔の繋がった全員へ。八十と少しへ。

崖の道に白いものが湧いた。

上から、弩の音がした。

矢が霧の中に落ちてきた。狙いのない矢だった。岩に当たって、跳ねた。

「一つ」

セラが言った。

走りながら。

ハルトは、盾を頭の上に掲げて走った。矢が一本、盾に当たって、腕に響いた。

「二つ」

霧が薄くなりかけたところでまた濃くなった。

冷えが来た。糸の全部に分かれて。指先が少し、かじかんだ。

「三つ」

崖の道を抜けた。

開けた場所に出た。

荷車があった。

十四台。麦の袋を高く積んだ荷車と樽を積んだ荷車。牛が鼻を鳴らしていた。

御者たちが荷車の陰に固まっていた。

サビナの団の二人が荷の前に立っていた。

「遅いよ」

一人が言った。

サビナが斧槍を担いで前に出た。

「時間どおりだよ。……軍師の数えたとおり」


ノエラは、荷車の前に立った。

息が上がっていた。

それでも帳面を開いた。

「荷車を、並べます」

ノエラは言った。

「円く。……牛を、内側に。車輪を、外側に。荷車の陰から、戦います」

御者たちがノエラを見た。

十四人。年をとった者も若い者もいた。

誰も動かなかった。

ノエラは、帳面の頁を御者たちに向けた。

御者。その下に七つの名前。

「この中に、ご自分の名前が、ある方」

一人が目を見開いた。年をとった、髭の男だった。

ノエラは、その男の名前を呼んだ。

男が頷いた。

ノエラは、次の名前を呼んだ。

一人ずつ。

七つ。

それから、空けておいた、七つの欄を指で示した。

「残りの方の名前を」

ノエラは言った。

「教えて、ください。……ここに、書きます」

御者たちは、顔を見合わせた。

若い男が名前を言った。ノエラは、書いた。

次の男が言った。書いた。

七つ。

空いていた欄が埋まった。

最後に名前を言った若い御者が崖のほうを顎で示した。

「崖の裏に、牛を、上の草場へ上げる、細い道が、ある。……俺の親父の道だ」

ノエラの炭筆が止まった。

それから、帳面の端に何かを書いた。

ノエラは、知らせに来たサビナの団の男と、帝国の靴の一人と、陣の外れの村の男たちを、呼んだ。小さな声で、何か言った。

男たちは、若い御者と一緒に林のほうへ消えた。

ハルトは、全部、聞いていた。

十四の名前。十四の顔。

覚えた。

「荷車を、並べたら」

ノエラは言った。

「逃げても、いいです。崖の道ではなく、街道の脇の林へ。……ただ」

ノエラは、少しだけ、言葉を探した。

「逃げる時は、言ってから、行って、ください。……数え、直さないと、いけないので」

年をとった髭の御者が笑った。

短く。

「変な、軍師だ」

それから、自分の牛の鼻輪をつかんだ。

「並べるぞ。……円く、だな」


荷車が円く並んだ。

牛が内側で鳴いていた。

御者のうち、五人が、林へ走った。走る前に、ノエラに、自分の名前をもう一度、言っていった。

ノエラは、その五つの名前の横に小さく、印をつけた。

線は、引かなかった。

残ったのは、九人だった。

「あんたたちの荷だからな」

髭の御者が言った。

「ポルタの荷だ。……ポルタの者が、最後まで、見る」

糸が伸びた。

ハルトの胸の奥から、さっき覚えた九つの名前と顔へ。

細く。

御者たちが振り返った。

何かが繋がったのを感じたのだと思う。


角笛が鳴った。

崖の道の向こうの出口から、槍の列が出てきた。

六十。黒い外套ではなかった。継ぎのある、褪せた外套。徴発された、村の男たちの顔だった。

その後ろに黒い外套が何人か。

ポルタ側の街道から、蹄の音。

騎馬が来た。

二十と少し。

先頭の男が手綱を左手だけで握っていた。右の前腕に白い布。

「盟主どの!」

男が叫んだ。

薄く、笑っていた。

「荷を、お迎えに、上がりました!」


最初に来たのは、騎馬だった。

円のポルタ側。荷車と荷車の隙間に向かって。

ハルトは、その隙間に盾を出した。

馬が来た。

槍が来た。

受けた。

衝撃が腕に入った。肘まで。肩まで。ほどけきらなかった。

足が半歩、下がった。

崩せなかった。

止めた。

止めたところにロブの槍が横から来た。馬の胸当てを払った。

馬が棹立ちになった。

騎手が落ちた。

「次!」

サビナが叫んだ。

斧槍が隣の隙間で回った。

二頭目。三頭目。

隙間ごとに、誰かが、立っていた。サビナの団の二人。東の谷の男たち。帝国の靴の一人。

荷車の上から、御者が麦の袋を投げ落とした。

馬の脚の前に。

馬が袋に足を取られた。

「霧!」

ノエラが叫んだ。

「崖の側! 弩が、届く前に!」

「わかってる!」

リュネの霧が円の崖の側を覆った。

「四つ」

セラが数えた。


槍の列は、円の前で止まった。

突いてこなかった。

前の何人かが槍の先を震わせていた。

後ろの黒い外套が何か叫んでいた。進め、と。

ハルトは、荷車の上に跳び上がった。

盾を掲げて。

「突かないで、ください!」

叫んだ。

「あなたたちの谷にも、この塩が、行くんです!」

名前を知らなかった。

糸は、届かなかった。

声だけが届いた。

槍の列の真ん中で誰かが槍を下げかけた。

その時、弩が鳴った。

霧の切れ目から。崖の上から。

矢が円の中に落ちた。

牛が悲鳴を上げた。

麦の荷車に火がついていた。火矢だった。

「五つ!」

霧が濃くなった。

火は、消えなかった。

御者の一人が燃える荷車の牛の綱を切りに走った。

髭の御者だった。

牛が放たれた。円の内側へ逃げた。

髭の御者は、燃える荷車の前でもう一本、綱をつかんでいた。

隣の荷車の綱だった。燃え移らないように引き離そうとしていた。

ハルトは、荷車から、跳び降りた。

走った。

糸が跳ねた。

一本。

髭の御者の糸だった。

矢が背中に立っていた。


髭の御者は、倒れなかった。

綱を握ったまま、膝をついた。

隣の荷車が燃える荷車から、拳一つ分、離れていた。

ハルトが着いた時には、もう、綱は、緩んでいた。

「……並べ、たぞ」

御者は言った。

ハルトを見ていなかった。

荷車を見ていた。

「円く。……言われた、とおりに」

ハルトは、盾を御者の上に掲げた。

矢が一本、盾に当たった。

(……離すな)

ハルトは、自分に言った。

糸を。

一本、跳ねた、糸を。

離さなかった。

離さなくても、糸の向こうには、もう、何もなかった。


「六つ」

セラの声が遠くに聞こえた。

「七つ」

冷えが積もっていた。

全員に。九人の御者にも。

ハルトの指が動かなくなりかけていた。左手の。盾を握る、指が。

「八つ」

リュネの歯が鳴る音がした。

その時、崖の右の上で叫び声がした。

弩の音が止まった。

ハルトは、見上げた。

崖の上に人影があった。

黒い外套では、なかった。

知らせに来た、サビナの団の男だった。帝国の靴のもう一人。陣の外れの村の男たちが、何人か。先頭に、若い御者。

崖の裏から、登っていた。

ノエラが帳面の端に書いた、道だった。

ポルタの御者が、牛を、崖の上の草場へ、上げる道。若い御者が、名前を言った時に、一緒に、教えた道。

「九つ」

右の崖の弩が止まった。

左だけになった。


騎馬の先頭の男がまた、来た。

ハルトの盾に向かって。

「将軍の剣を、折った、盾!」

男は、叫んだ。

「今日は、お嬢様は、いない!」

剣が来た。

左手で振る剣だった。

重くなかった。

でも速かった。

受けた。

二度目。受けた。

三度目は、盾の縁を滑った。

首の横を風が通った。

崩せなかった。

止めるしか、できなかった。

止めた。

止めたところに。

斧槍が来た。

サビナだった。

斧槍の柄が男の右の前腕を打った。

布の上から。

男が声を上げた。

剣が落ちた。

男は、馬の首にしがみついた。

「……退け!」

男が叫んだ。

角笛が鳴った。

長い、退きの角笛だった。


騎馬がポルタ側の街道へ退いていった。

左の崖の上の弩も静かになった。

槍の列は、崖の道の向こうへ下がっていった。

追わなかった。

追う者は、いなかった。

全員の指が白くなっていた。

「……十」

セラが言った。

それから、リュネを抱えた。

リュネは、長杖にもたれて、立っていた。唇が青かった。

「数えたわよ。……今日は」

リュネは言った。

「一人なら。……三回で、倒れてた」

それから、セラの腕の中で目を閉じた。


燃えた荷車は、二台だった。

麦の荷車が一台。塩の樽を積んだ荷車が一台、倒れて、樽が二つ、割れていた。

十二台が残った。

旗団の死者は、一人だった。

帝国の靴の一人。崖の道を走った時に、霧の切れ目で、矢を受けていた。円に着いて、隙間に立って、そこで、倒れた。

鞴(ふいご)を引いた、男だった。

御者の死者は、一人だった。

髭の御者だった。

ハルトは、二人の名前を知っていた。

知っていた。

ノエラが帳面を開いた。

御者の頁。十四の名前。

ノエラは、一つの名前の横に小さく、日付を書いた。

線は、引かなかった。

それから、帳面のいちばん後ろの頁を開いた。

帝国の靴の四人の名前が書いてある頁だった。数には入れていない頁。

その一つの名前の横にも日付を。

炭筆が震えていた。

でも止まらなかった。

最後まで書いた。

「……名前は」

ノエラは、言った。

誰に言ったのでもなかった。

「名前は、あります。……今度は」

ハルトは、喉の奥が熱くなるのを感じた。

涙は、出なかった。

ノエラの帳面の上に。

一滴、落ちた。

ノエラのものだった。

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