第102話 車陣
崖の道の手前でヤンが戻ってきた。
息を切らしていた。片袖の外套が汗で背中に張りついていた。
「崖の上に、います」
ヤンは言った。
「右に、弩が、四十くらい。左にも、同じくらい。黒い外套です。……道の真ん中あたりを、狙える場所に」
ノエラが帳面を開いた。
「荷は」
「まだ、崖の道に、入っていません。向こうの出口の手前の開けたところで、止まっています。……護衛の二人が、何か、気づいたみたいで」
ヤンは、もう一つ、息を吸った。
「それから。荷の後ろのポルタ側の街道に、騎馬が、二十と少し。……先頭の男は、腕に、布を」
ハルトは、盾の縁を握った。
「前は」
ノエラが聞いた。
「荷の前。崖の道の向こうの出口を、槍の列が、塞いでいます。……五十か、六十」
ノエラの炭筆が動いた。
弩、八十。槍、六十。騎馬、二十と少し。
百五十と少し。
「荷が、崖の道に、入れば」
ノエラは言った。
「上から、撃たれます。入らなければ、前と後ろから、挟まれます」
誰も何も言わなかった。
崖の上を風が渡っていった。
「入らせません」
ノエラは言った。
「こちらが、出ます」
崖の道は、荷車一台がやっと通れる幅だった。
八十と少しがそこを走った。
「霧、いくわよ」
リュネが長杖を掲げた。
糸が伸びた。ハルトの胸の奥から、名前と顔の繋がった全員へ。八十と少しへ。
崖の道に白いものが湧いた。
上から、弩の音がした。
矢が霧の中に落ちてきた。狙いのない矢だった。岩に当たって、跳ねた。
「一つ」
セラが言った。
走りながら。
ハルトは、盾を頭の上に掲げて走った。矢が一本、盾に当たって、腕に響いた。
「二つ」
霧が薄くなりかけたところでまた濃くなった。
冷えが来た。糸の全部に分かれて。指先が少し、かじかんだ。
「三つ」
崖の道を抜けた。
開けた場所に出た。
荷車があった。
十四台。麦の袋を高く積んだ荷車と樽を積んだ荷車。牛が鼻を鳴らしていた。
御者たちが荷車の陰に固まっていた。
サビナの団の二人が荷の前に立っていた。
「遅いよ」
一人が言った。
サビナが斧槍を担いで前に出た。
「時間どおりだよ。……軍師の数えたとおり」
ノエラは、荷車の前に立った。
息が上がっていた。
それでも帳面を開いた。
「荷車を、並べます」
ノエラは言った。
「円く。……牛を、内側に。車輪を、外側に。荷車の陰から、戦います」
御者たちがノエラを見た。
十四人。年をとった者も若い者もいた。
誰も動かなかった。
ノエラは、帳面の頁を御者たちに向けた。
御者。その下に七つの名前。
「この中に、ご自分の名前が、ある方」
一人が目を見開いた。年をとった、髭の男だった。
ノエラは、その男の名前を呼んだ。
男が頷いた。
ノエラは、次の名前を呼んだ。
一人ずつ。
七つ。
それから、空けておいた、七つの欄を指で示した。
「残りの方の名前を」
ノエラは言った。
「教えて、ください。……ここに、書きます」
御者たちは、顔を見合わせた。
若い男が名前を言った。ノエラは、書いた。
次の男が言った。書いた。
七つ。
空いていた欄が埋まった。
最後に名前を言った若い御者が崖のほうを顎で示した。
「崖の裏に、牛を、上の草場へ上げる、細い道が、ある。……俺の親父の道だ」
ノエラの炭筆が止まった。
それから、帳面の端に何かを書いた。
ノエラは、知らせに来たサビナの団の男と、帝国の靴の一人と、陣の外れの村の男たちを、呼んだ。小さな声で、何か言った。
男たちは、若い御者と一緒に林のほうへ消えた。
ハルトは、全部、聞いていた。
十四の名前。十四の顔。
覚えた。
「荷車を、並べたら」
ノエラは言った。
「逃げても、いいです。崖の道ではなく、街道の脇の林へ。……ただ」
ノエラは、少しだけ、言葉を探した。
「逃げる時は、言ってから、行って、ください。……数え、直さないと、いけないので」
年をとった髭の御者が笑った。
短く。
「変な、軍師だ」
それから、自分の牛の鼻輪をつかんだ。
「並べるぞ。……円く、だな」
荷車が円く並んだ。
牛が内側で鳴いていた。
御者のうち、五人が、林へ走った。走る前に、ノエラに、自分の名前をもう一度、言っていった。
ノエラは、その五つの名前の横に小さく、印をつけた。
線は、引かなかった。
残ったのは、九人だった。
「あんたたちの荷だからな」
髭の御者が言った。
「ポルタの荷だ。……ポルタの者が、最後まで、見る」
糸が伸びた。
ハルトの胸の奥から、さっき覚えた九つの名前と顔へ。
細く。
御者たちが振り返った。
何かが繋がったのを感じたのだと思う。
角笛が鳴った。
崖の道の向こうの出口から、槍の列が出てきた。
六十。黒い外套ではなかった。継ぎのある、褪せた外套。徴発された、村の男たちの顔だった。
その後ろに黒い外套が何人か。
ポルタ側の街道から、蹄の音。
騎馬が来た。
二十と少し。
先頭の男が手綱を左手だけで握っていた。右の前腕に白い布。
「盟主どの!」
男が叫んだ。
薄く、笑っていた。
「荷を、お迎えに、上がりました!」
最初に来たのは、騎馬だった。
円のポルタ側。荷車と荷車の隙間に向かって。
ハルトは、その隙間に盾を出した。
馬が来た。
槍が来た。
受けた。
衝撃が腕に入った。肘まで。肩まで。ほどけきらなかった。
足が半歩、下がった。
崩せなかった。
止めた。
止めたところにロブの槍が横から来た。馬の胸当てを払った。
馬が棹立ちになった。
騎手が落ちた。
「次!」
サビナが叫んだ。
斧槍が隣の隙間で回った。
二頭目。三頭目。
隙間ごとに、誰かが、立っていた。サビナの団の二人。東の谷の男たち。帝国の靴の一人。
荷車の上から、御者が麦の袋を投げ落とした。
馬の脚の前に。
馬が袋に足を取られた。
「霧!」
ノエラが叫んだ。
「崖の側! 弩が、届く前に!」
「わかってる!」
リュネの霧が円の崖の側を覆った。
「四つ」
セラが数えた。
槍の列は、円の前で止まった。
突いてこなかった。
前の何人かが槍の先を震わせていた。
後ろの黒い外套が何か叫んでいた。進め、と。
ハルトは、荷車の上に跳び上がった。
盾を掲げて。
「突かないで、ください!」
叫んだ。
「あなたたちの谷にも、この塩が、行くんです!」
名前を知らなかった。
糸は、届かなかった。
声だけが届いた。
槍の列の真ん中で誰かが槍を下げかけた。
その時、弩が鳴った。
霧の切れ目から。崖の上から。
矢が円の中に落ちた。
牛が悲鳴を上げた。
麦の荷車に火がついていた。火矢だった。
「五つ!」
霧が濃くなった。
火は、消えなかった。
御者の一人が燃える荷車の牛の綱を切りに走った。
髭の御者だった。
牛が放たれた。円の内側へ逃げた。
髭の御者は、燃える荷車の前でもう一本、綱をつかんでいた。
隣の荷車の綱だった。燃え移らないように引き離そうとしていた。
ハルトは、荷車から、跳び降りた。
走った。
糸が跳ねた。
一本。
髭の御者の糸だった。
矢が背中に立っていた。
髭の御者は、倒れなかった。
綱を握ったまま、膝をついた。
隣の荷車が燃える荷車から、拳一つ分、離れていた。
ハルトが着いた時には、もう、綱は、緩んでいた。
「……並べ、たぞ」
御者は言った。
ハルトを見ていなかった。
荷車を見ていた。
「円く。……言われた、とおりに」
ハルトは、盾を御者の上に掲げた。
矢が一本、盾に当たった。
(……離すな)
ハルトは、自分に言った。
糸を。
一本、跳ねた、糸を。
離さなかった。
離さなくても、糸の向こうには、もう、何もなかった。
「六つ」
セラの声が遠くに聞こえた。
「七つ」
冷えが積もっていた。
全員に。九人の御者にも。
ハルトの指が動かなくなりかけていた。左手の。盾を握る、指が。
「八つ」
リュネの歯が鳴る音がした。
その時、崖の右の上で叫び声がした。
弩の音が止まった。
ハルトは、見上げた。
崖の上に人影があった。
黒い外套では、なかった。
知らせに来た、サビナの団の男だった。帝国の靴のもう一人。陣の外れの村の男たちが、何人か。先頭に、若い御者。
崖の裏から、登っていた。
ノエラが帳面の端に書いた、道だった。
ポルタの御者が、牛を、崖の上の草場へ、上げる道。若い御者が、名前を言った時に、一緒に、教えた道。
「九つ」
右の崖の弩が止まった。
左だけになった。
騎馬の先頭の男がまた、来た。
ハルトの盾に向かって。
「将軍の剣を、折った、盾!」
男は、叫んだ。
「今日は、お嬢様は、いない!」
剣が来た。
左手で振る剣だった。
重くなかった。
でも速かった。
受けた。
二度目。受けた。
三度目は、盾の縁を滑った。
首の横を風が通った。
崩せなかった。
止めるしか、できなかった。
止めた。
止めたところに。
斧槍が来た。
サビナだった。
斧槍の柄が男の右の前腕を打った。
布の上から。
男が声を上げた。
剣が落ちた。
男は、馬の首にしがみついた。
「……退け!」
男が叫んだ。
角笛が鳴った。
長い、退きの角笛だった。
騎馬がポルタ側の街道へ退いていった。
左の崖の上の弩も静かになった。
槍の列は、崖の道の向こうへ下がっていった。
追わなかった。
追う者は、いなかった。
全員の指が白くなっていた。
「……十」
セラが言った。
それから、リュネを抱えた。
リュネは、長杖にもたれて、立っていた。唇が青かった。
「数えたわよ。……今日は」
リュネは言った。
「一人なら。……三回で、倒れてた」
それから、セラの腕の中で目を閉じた。
燃えた荷車は、二台だった。
麦の荷車が一台。塩の樽を積んだ荷車が一台、倒れて、樽が二つ、割れていた。
十二台が残った。
旗団の死者は、一人だった。
帝国の靴の一人。崖の道を走った時に、霧の切れ目で、矢を受けていた。円に着いて、隙間に立って、そこで、倒れた。
鞴を引いた、男だった。
御者の死者は、一人だった。
髭の御者だった。
ハルトは、二人の名前を知っていた。
知っていた。
ノエラが帳面を開いた。
御者の頁。十四の名前。
ノエラは、一つの名前の横に小さく、日付を書いた。
線は、引かなかった。
それから、帳面のいちばん後ろの頁を開いた。
帝国の靴の四人の名前が書いてある頁だった。数には入れていない頁。
その一つの名前の横にも日付を。
炭筆が震えていた。
でも止まらなかった。
最後まで書いた。
「……名前は」
ノエラは、言った。
誰に言ったのでもなかった。
「名前は、あります。……今度は」
ハルトは、喉の奥が熱くなるのを感じた。
涙は、出なかった。
ノエラの帳面の上に。
一滴、落ちた。
ノエラのものだった。




