第101話 御者の名前
東の谷の男は、粥を半分食べたところで、匙を置いた。
アガタが、男の足の豆に薬草を貼っていた。男は、痛いとも言わなかった。
ハルトは、男の前に座った。
「戻ったら、もう一度聞きますって、言いました」
男が顔を上げた。
「戻ったのは、俺のほうだがな」
「……はい」
ハルトは、少し笑った。
それから、聞いた。
「谷は、どうしたいですか」
男は、しばらく黙っていた。
「出たくねえ」
男は言った。
「畑を起こした。種麦をまいた。陣の外れの村の連中が、持ってきた種だ。……芽が出たんだよ。三日前に」
男は、自分の手を見た。土の色が、爪の間に残っていた。
「年寄りも、子供も、出たくねえって言ってる。……あそこで冬を越したんだ。炭焼き小屋で。今さら、どこへ行く」
「丘の上の柵は」
「見下ろされるだけなら、慣れてる」
男は言った。
「帝国には、ずっと見下ろされてきた。……水を運べと言われたら、その時に考える」
ハルトは、頷いた。
谷のことは、谷の人が決める。
それが答えだった。
ラースが立ち上がった。
鍋の列の端で、黙って聞いていたのだ。
「俺が戻る」
ラースは言った。
「谷に。……焼け跡は、来るなら、いつでも入れる。そう、伝える。それから、丘の上を見張る」
ハルトは、ラースを見た。
「言ってから、行ってください」
「今、言った」
ラースは、ぶっきらぼうに言った。
それから、少しだけ付け足した。
「婆さんが、いるからな」
その日の昼、鍋の列でハルトは全員に聞いた。
谷のこと。荷のこと。
ノエラが帳面を開いた。
「丘の上の柵は、谷を見下ろすためのものです」
ノエラは言った。
「取るためでは、まだありません。……四百の兵が入る砦は、建つまでに、夏の終わりまでかかります。井戸一つでは、その前に兵を入れられません」
ノエラは、頁をめくった。
「先に来るのは、荷です」
鍋の列が静かになった。
「ポルタの最初の荷が、届くかどうか。……帝国は、それを見ています。ポルタの商人も見ています。届かなければ、二度目の荷は、出ません」
ノエラの炭筆が、帳面の上で止まった。
「谷へ先に行けば、荷の守りが薄くなります。……そうなるように、杭を立てたのかもしれません」
ウルリクが鼻を鳴らした。
「順番を決めさせる気か」
「はい」
ノエラは言った。
「順番は、こちらで決めます」
迎えに出る者が決まった。
人の足なら、ポルタから四日。帰り道の二日目の崖の道は、焼け跡からも二日。麦を積んだ荷車は、それより遅い。
ハルト。ノエラ。リュネ。ユノ。サビナ。ヤン。ロブ。東の谷の男たち。陣の外れの村の男たち。帝国の靴の二人。戦える人の頁から、八十と少し。
セラは、ハルトの横に立った。
何も言わなかった。
木の棒は、持っていなかった。
「セラさん」
「数える者が要るだろう」
セラは言った。
「リュネの回数を」
ハルトは、頷いた。
残る者は、ウルリクがまた預かる。トマが門に立つ。ベックが稽古場を見る。ゴードンとマーサは、炉の前の樽のところにいる。
イゾルデは、窪地から来て、鍋の列の外で聞いていた。
「荷のことは、私のことじゃ、ない」
イゾルデは言った。
「でも、ここが空くなら。……横にいる者が見ておくわ」
ウルリクがイゾルデを見た。
「頼んじゃいねえぞ」
「頼まれてないわ」
イゾルデは、もう背を向けていた。
コレットは、その日から、焼け跡を測った。
焼け残った門柱から、冬に積んだ雪と土の壁まで。壁から、倉まで。倉から、窪地まで。
巻尺を引く役は、ニコだった。
「なんで、俺」
「手が長いから」
コレットは言った。
「端、持って。動かないで。……動いた。もう一回」
ニコは、文句を言いながら、端を持った。
三日目には、黙って持つようになった。
コレットは、地面に墨壺の糸を張って、線を引いた。
「壁の前に堀」
コレットは言った。
「深くなくていい。膝まで。……人が走って来て、足を取られる深さ。馬なら、止まる深さ」
「柵は」
ウルリクが杖をついて聞いた。
「古い柵の焼け残った杭を使う」
コレットは、黒く焦げた杭を一本、叩いた。
「焼けた杭は、中まで乾いてる。腐りにくいの。……新しい杭と互い違いに打つ」
ネリが、炉の前から顔を上げた。
「釘、要る?」
「要る。……でも、鉄は、百本ポルタに行くんでしょ」
「印のないのを端から使う」
ネリは言った。
「穂先の分は、あとで考える」
コレットは、窪地のほうを見た。
「水が出るなら、ここにも出る」
コレットは、倉の裏の地面に鉛筆で印をつけた。
「井戸。……二つ、掘る」
「二つ」
「一つだと、それが潰れたら、終わり」
コレットは、鉛筆を髪に挿し直した。
「東の陣の砦と同じことは、しない」
ポルタからの使いが来たのは、迎えの隊が出る前の晩だった。
サビナの団の一人だった。馬を潰す勢いで、一日で来たらしい。
「荷が出た」
男は言った。
「昨日の朝。麦の荷車、十二台。塩と布を積んだのが、二台。ポルタの御者が、十四人。……うちの、残りの二人がついてる」
ハルトは、ノエラを見た。
ノエラは、帳面を開いていた。
炭筆が動いていた。
荷車、十四。護衛、二。
「荷車なら、崖の道まで三日です」
ノエラは、帳面を見たまま言った。
「明日の朝、ここを出れば。……着くのは、同じ日です」
それから、炭筆が止まった。
ノエラは、顔を上げた。
「御者の方の名前を」
男が目をしばたいた。
「名前?」
「十四人の名前です」
ノエラは言った。
「わかる分だけでいいです。……出る前に聞いていませんか」
男は、少し困った顔をして、頭を掻いた。
「全部は、わからねえ。……半分くらいなら」
「半分でいいです」
ノエラは、帳面の新しい頁を開いた。
一番上に書いた。
御者。
その下に、男が思い出すまま、名前を一つずつ。
七つ。
残りの七つの横は、空けておいた。
ハルトは、その頁を見ていた。
夏の頁を思い出した。
御者。北の村の人。名前、まだ。
「……ノエラさん」
「計画の時に、数えておかないと」
ノエラは、ハルトを見ずに言った。
「荷車の数で」
それから、少しだけ言葉を足した。
「……数えて、しまうので」
ノエラの指は、白くなかった。
男は、もう一つ、伝えることがあると言った。
タデオからだった。
「帝国の方々が、昨日、ポルタをお発ちになりました」
男は、タデオの口調を真似て言った。
「東の門では、なく。……西の門から、と」
西の門。
焼け跡へ向かう、街道の門だった。
ハルトは、左手で盾の縁を握った。
四つのへこみが指に当たった。
ノエラが帳面を閉じた。
「……順番は、こちらで決めます」
もう一度、ノエラは、そう言った。
さっきより、小さな声で。




