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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第六章 鉄の値段

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第101話 御者の名前

東の谷の男は、粥を半分食べたところで、匙を置いた。

アガタが、男の足の豆に薬草を貼っていた。男は、痛いとも言わなかった。

ハルトは、男の前に座った。

「戻ったら、もう一度聞きますって、言いました」

男が顔を上げた。

「戻ったのは、俺のほうだがな」

「……はい」

ハルトは、少し笑った。

それから、聞いた。

「谷は、どうしたいですか」

男は、しばらく黙っていた。

「出たくねえ」

男は言った。

「畑を起こした。種麦をまいた。陣の外れの村の連中が、持ってきた種だ。……芽が出たんだよ。三日前に」

男は、自分の手を見た。土の色が、爪の間に残っていた。

「年寄りも、子供も、出たくねえって言ってる。……あそこで冬を越したんだ。炭焼き小屋で。今さら、どこへ行く」

「丘の上の柵は」

「見下ろされるだけなら、慣れてる」

男は言った。

「帝国には、ずっと見下ろされてきた。……水を運べと言われたら、その時に考える」

ハルトは、頷いた。

谷のことは、谷の人が決める。

それが答えだった。


ラースが立ち上がった。

鍋の列の端で、黙って聞いていたのだ。

「俺が戻る」

ラースは言った。

「谷に。……焼け跡は、来るなら、いつでも入れる。そう、伝える。それから、丘の上を見張る」

ハルトは、ラースを見た。

「言ってから、行ってください」

「今、言った」

ラースは、ぶっきらぼうに言った。

それから、少しだけ付け足した。

「婆さんが、いるからな」


その日の昼、鍋の列でハルトは全員に聞いた。

谷のこと。荷のこと。

ノエラが帳面を開いた。

「丘の上の柵は、谷を見下ろすためのものです」

ノエラは言った。

「取るためでは、まだありません。……四百の兵が入る砦は、建つまでに、夏の終わりまでかかります。井戸一つでは、その前に兵を入れられません」

ノエラは、頁をめくった。

「先に来るのは、荷です」

鍋の列が静かになった。

「ポルタの最初の荷が、届くかどうか。……帝国は、それを見ています。ポルタの商人も見ています。届かなければ、二度目の荷は、出ません」

ノエラの炭筆が、帳面の上で止まった。

「谷へ先に行けば、荷の守りが薄くなります。……そうなるように、杭を立てたのかもしれません」

ウルリクが鼻を鳴らした。

「順番を決めさせる気か」

「はい」

ノエラは言った。

「順番は、こちらで決めます」


迎えに出る者が決まった。

人の足なら、ポルタから四日。帰り道の二日目の崖の道は、焼け跡からも二日。麦を積んだ荷車は、それより遅い。

ハルト。ノエラ。リュネ。ユノ。サビナ。ヤン。ロブ。東の谷の男たち。陣の外れの村の男たち。帝国の靴の二人。戦える人の頁から、八十と少し。

セラは、ハルトの横に立った。

何も言わなかった。

木の棒は、持っていなかった。

「セラさん」

「数える者が要るだろう」

セラは言った。

「リュネの回数を」

ハルトは、頷いた。

残る者は、ウルリクがまた預かる。トマが門に立つ。ベックが稽古場を見る。ゴードンとマーサは、炉の前の樽のところにいる。

イゾルデは、窪地から来て、鍋の列の外で聞いていた。

「荷のことは、私のことじゃ、ない」

イゾルデは言った。

「でも、ここが空くなら。……横にいる者が見ておくわ」

ウルリクがイゾルデを見た。

「頼んじゃいねえぞ」

「頼まれてないわ」

イゾルデは、もう背を向けていた。


コレットは、その日から、焼け跡を測った。

焼け残った門柱から、冬に積んだ雪と土の壁まで。壁から、倉まで。倉から、窪地まで。

巻尺を引く役は、ニコだった。

「なんで、俺」

「手が長いから」

コレットは言った。

「端、持って。動かないで。……動いた。もう一回」

ニコは、文句を言いながら、端を持った。

三日目には、黙って持つようになった。

コレットは、地面に墨壺の糸を張って、線を引いた。

「壁の前に堀」

コレットは言った。

「深くなくていい。膝まで。……人が走って来て、足を取られる深さ。馬なら、止まる深さ」

「柵は」

ウルリクが杖をついて聞いた。

「古い柵の焼け残った杭を使う」

コレットは、黒く焦げた杭を一本、叩いた。

「焼けた杭は、中まで乾いてる。腐りにくいの。……新しい杭と互い違いに打つ」

ネリが、炉の前から顔を上げた。

「釘、要る?」

「要る。……でも、鉄は、百本ポルタに行くんでしょ」

「印のないのを端から使う」

ネリは言った。

「穂先の分は、あとで考える」

コレットは、窪地のほうを見た。

「水が出るなら、ここにも出る」

コレットは、倉の裏の地面に鉛筆で印をつけた。

「井戸。……二つ、掘る」

「二つ」

「一つだと、それが潰れたら、終わり」

コレットは、鉛筆を髪に挿し直した。

「東の陣の砦と同じことは、しない」


ポルタからの使いが来たのは、迎えの隊が出る前の晩だった。

サビナの団の一人だった。馬を潰す勢いで、一日で来たらしい。

「荷が出た」

男は言った。

「昨日の朝。麦の荷車、十二台。塩と布を積んだのが、二台。ポルタの御者が、十四人。……うちの、残りの二人がついてる」

ハルトは、ノエラを見た。

ノエラは、帳面を開いていた。

炭筆が動いていた。

荷車、十四。護衛、二。

「荷車なら、崖の道まで三日です」

ノエラは、帳面を見たまま言った。

「明日の朝、ここを出れば。……着くのは、同じ日です」

それから、炭筆が止まった。

ノエラは、顔を上げた。

「御者の方の名前を」

男が目をしばたいた。

「名前?」

「十四人の名前です」

ノエラは言った。

「わかる分だけでいいです。……出る前に聞いていませんか」

男は、少し困った顔をして、頭を掻いた。

「全部は、わからねえ。……半分くらいなら」

「半分でいいです」

ノエラは、帳面の新しい頁を開いた。

一番上に書いた。

御者。

その下に、男が思い出すまま、名前を一つずつ。

七つ。

残りの七つの横は、空けておいた。

ハルトは、その頁を見ていた。

夏の頁を思い出した。

御者。北の村の人。名前、まだ。

「……ノエラさん」

「計画の時に、数えておかないと」

ノエラは、ハルトを見ずに言った。

「荷車の数で」

それから、少しだけ言葉を足した。

「……数えて、しまうので」

ノエラの指は、白くなかった。


男は、もう一つ、伝えることがあると言った。

タデオからだった。

「帝国の方々が、昨日、ポルタをお発ちになりました」

男は、タデオの口調を真似て言った。

「東の門では、なく。……西の門から、と」

西の門。

焼け跡へ向かう、街道の門だった。

ハルトは、左手で盾の縁を握った。

四つのへこみが指に当たった。

ノエラが帳面を閉じた。

「……順番は、こちらで決めます」

もう一度、ノエラは、そう言った。

さっきより、小さな声で。

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