第100話 一度
--- セラ視点 ---
夜の見張りは、見ることが務めだ。
考えることではない。
セラは、焼けた門柱の横に立っていた。トマは寝ている。夜の半分は、セラが持つ。冬からそう決めていた。誰に言われたのでもない。
焚き火の跡に、まだ赤いものが残っていた。
糸は、もう消えていた。
それでも、胸の奥に、細い何かが残っている気がした。濡れた外套を一枚、肩にかけられたような重さ。
あの老人の分だ。
それは、構わない。
構わないのは、それではなかった。
左手が、震えていた。
外套の脇で。いつもより、強く。
ハルトたちがポルタへ行っていた十二日のあいだ、セラは門を預かった。
朝は、倉の裏の稽古場に出た。
ベックが上を見る。槍を四十年振ったという年寄りの兵が、突きを見せる。樽に座った男が、足を見る。三人で一人分の師匠だと、ベックは言っていた。
セラは、四人目になった。
槍ではなかった。剣の型だった。若い男たちの何人かは、剣を持つことになる。ネリの炉が穂先を打ちきれない分、帝国の陣から拾った古い剣が、倉に残っていた。
セラは、木の棒を持った。
右手で。
右手は、ぶれなかった。構えも、振りも、引きも。十年かけて体に入れたものは、棒でも同じだった。
若い男たちは、黙って見ていた。
一人が言った。
「……騎士様の剣、見てみてえな」
サビナの真似だった。悪気はなかった。
セラは、答えなかった。
棒を、左手に持ち替えることも、しなかった。
外套の内側に、紙が一枚ある。
セラは、焚き火の跡のそばに膝をついた。赤いものの明かりで、紙を広げた。
折り目が、すり切れかけていた。
増援の要請。住民の避難勧告。日付は、ベルナが落ちる六日前。差出人の欄に、自分の名前。受け取った者の欄に、評議会の印。
原本は、市庁舎と一緒に燃えた。
写しは、これ一枚しかない。
これを出せば、評議会が知っていたことの証になる。知っていて、何もしなかったことの。
セラは、何度もそう考えた。
ベルナにいた頃も。扉を掘っていた半年のあいだも。百八十六を数えた日も。
出せば、証になる。
だが、証は、裁く者がいて、初めて証になる。
今のベルナに、裁く者はいない。帝国の町の評議会を、帝国が裁くことはない。
それに。
証が立っても、扉の内側の百八十六は、戻らない。
三十八人の行き先も、わからない。
セラは、紙を折った。
折り目の、とおりに。
外套の内側に戻した。
誰にも、見せなかった。
今夜も。
足音がした。
セラは、立ち上がった。
ハルトだった。
天幕から出てきたらしかった。外套を肩に引っかけただけで、髪に寝癖がついていた。十五歳の顔だった。盟主の顔では、なかった。
「眠れなくて」
ハルトは言った。
「……指が」
右手を、少し持ち上げた。
灰色の手。握れない手。
「寝てる間に、また、動くかもしれないって。……思ったら、眠れなくて」
セラは、その手を見た。
さっき、焚き火の前で、ユノの手の中で、一度だけ曲がった指。
セラは、見ていた。門柱の陰から。
見たことに、まだ、名前をつけられずにいた。
「動いたか」
「動かないです」
ハルトは、少し笑った。
「一度、だけ」
セラは、しばらく黙っていた。
規律の言葉を探した。
見つからなかった。
「一度は、数ではない」
セラは言った。
ハルトが、顔を上げた。
「一度で、何かを決めるな。……二度目が来るまで、待て。それが、来なくても」
ハルトは、セラを見ていた。
「待つのも、務めだ」
ハルトは、頷いた。
「はい」
それから、ハルトは、何か言いかけた。
「セラさん。……もし、いつか」
そこで、止まった。
背中の剣の柄に、左手が触れていた。レオニスの、右の剣。結び目に、右の手で、と書いてあると、セラは聞いていた。
ハルトは、続きを言わなかった。
言わずに、頭を下げた。
「おやすみなさい」
天幕へ、戻っていった。
もし、いつか。
その先は、セラにもわかった。
右手で、剣を持てるようになったら。
それを教える者が、要る。
ゴードンは、もう二十歩で息が上がる。座って話す年寄りになった。冬に、セラに言った。稽古を、つけてやってくれ、と。
盾の持ち方なら、冬のあいだに教えた。
剣は、まだだった。
剣を教える者は、剣を持たなければならない。棒では、教えられないことがある。刃の重さ。抜く時の、鞘との擦れ。振り下ろした後に、刃が自分の手首に返してくるもの。
セラの剣は、ベルナの西門の詰所にある。
布に包んで、置いてきた。
セラは、門柱に立てかけてあった木の棒を取った。
左手で。
握った。
震えた。
棒は軽い。刃もない。それでも、柄を握る形を、手が覚えていた。覚えているから、震えた。
一つ。
セラは、数えた。
谷の出口で、リュネの霧を数えた時と同じように。
二つ。三つ。
震えは、止まらなかった。
十まで数えて、セラは、棒を下ろした。
止まらなかった。
それは、わかっていた。
それでも、十まで、握っていた。
冬には、三つで離した。
それが、数かどうかは、わからなかった。
一度なのかも、しれなかった。
東の空が、白みはじめた。
門の外の道に、影が一つ見えた。
走っていた。よろけながら。
セラは、棒を持ったまま、門の前に出た。
男だった。泥だらけの外套。息が上がりきっていた。
顔に、見覚えがあった。
東の谷の男だった。春に、谷に残って畑を起こすと言った四人の一人。
物音で、トマが起きてきた。
「どこから、来た」
男は、門柱にすがって、膝をついた。
「……東の、谷から」
「なら、入れ」
男は、入らなかった。
その場で、顔を上げた。
「丘の、上に」
男は言った。
「杭が、立った。……谷を、見下ろす、丘の上に。黒い、外套の、連中が、何十人も」
セラの左手が、棒を握り直した。
震えたまま。
「柵だ。……でかい、柵を、建てる、気だ」




