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合流

足音が聞こえた。


 通路の奥。暗闇の中から、不規則なリズム。二本の足。人間の歩行。


 俺は壁に背をつけた。旧渋谷地下鉄の通路は、天井の配管がむき出しになっていて、結露した水滴が一定の間隔で床に落ちている。その水音の中に、靴底が地面を踏む音が混じっていた。巡回犬のモーター音ではない。巡回犬は四足で、均一で、正確だ。この足音は不規則で、ためらいがある。人間のためらいだ。


 それが救いになるのか脅威になるのかは、まだ分からなかった。


 午後九時。逃走を始めてから十三時間以上が経っている。廃ビルから地下に潜ったのは夕方だった。旧渋谷地下鉄の廃駅エリアは電波が不安定で、ログ端末の送信精度が落ちる。グレーゾーン。地上にいるよりはましだ——端末はオフラインでも記録を続けているが、送信のタイミングにばらつきが出る。位置情報の精度が下がる。それだけが、今の俺のアドバンテージだった。


 足音が近づいてくる。


 俺は通路の壁のくぼみに身を寄せた。暗い。天井の非常灯は半分以上が死んでいて、残りもオレンジ色の弱い光を落としているだけだ。視界は三メートル先で闇に溶ける。


 膝が痛んだ。十四時間の逃走で、体のあちこちが軋んでいる。指先は深爪が悪化して、右手の人差し指と中指の先が赤く腫れていた。投影ディスプレイの操作のたびに痛む。痛みがあると集中できる——そんな強がりは、もう通用しない時間帯に入っていた。


 光。


 通路の先に、白い光が揺れた。懐中電灯。手持ちの、古い型の。ログ端末の投影ではない。投影は青白い。これは白色LEDの光で、壁を舐めるように動いている。


 足音が止まった。光もとまった。十メートル先。暗闇の中で、光源の向こう側に人間のシルエットが浮かんでいる。


 呼吸を殺した。体を壁に押しつける。ログ端末の送信ランプが微かに点滅している。グレーゾーンでも端末は生きている。こいつが俺の位置を報告しているかどうかは、送信精度次第だった。


 光がこちらに向いた。


 「——霧島さん」


 女の声だった。低くて、平坦で、感情の色が薄い。「動かないで。私は武器を持っていない」


 懐中電灯が下がった。光が地面を照らした。互いの顔は影の中だった。足元だけが白く浮かぶ。黒いスニーカー。細い足首。暗い色のトレンチコートの裾。


 「……誰だ」


 声が掠れていた。十四時間、ほとんど声を出していない。自分の声が他人のもののように聞こえた。


 「瀬川真帆。ネクストシステムズで合同保守をしたことがある。二年前」


 名前に、記憶が引っかかった。ログクラウド第3層の定期メンテナンス。上流設計のチームから来たエンジニア。鋭い目をした女。休憩時間に映画の話をした。俺が20世紀のフィルム・ノワールが好きだと言った時、彼女は少し間を置いてから「記録されない時代、か」と呟いた。それだけのことだ。それだけの接点。


 「なぜここが分かった」


 「あなたのログの最終位置から推測した。渋谷駅南口で移動速度が落ちて、地下方向にバイタルの高度データが変化している。地下に潜ったのは明白。旧渋谷地下鉄のグレーゾーンはエンジニアなら誰でも知っている」


 声は早かった。技術的な説明をする時の、加速する話し方。データを列挙するリズム。


 「じゃあログ公安にも同じことができるだろう」


 「できる。ただし彼らはまだ地上を重点的に探している。地下のグレーゾーンに、ログ端末の信号なしで入る人間がいるとは、まだ想定していない。あなたのブランクの存在に気づいているのはログ公安の一部だけで、その一部もブランク中の行動を追うことに集中している。グレーゾーンに身を隠す発想は、ログを前提にした捜索アルゴリズムの盲点になっている——今のところは」


 「今のところは」


 「時間の問題でしょうけど」


 懐中電灯の光が少しだけ上がった。彼女の顔の下半分が見えた。唇は薄い。表情は読めない。左手が右手首を握っている——湿疹のある左手首を、右手で。暗闇の中でもその仕草が見えた。


 体の緊張が、わずかに変わった。肩の力が、ほんの少しだけ抜けた。ログ公安の人間なら、懐中電灯で来たりしない。端末の位置情報で俺を特定して、巡回犬を先行させる。投影ディスプレイで逮捕令状を表示する。懐中電灯を片手に、暗い地下通路を一人で歩いてくる人間は——追手ではない。


 だが味方とも限らない。


 「送信者不明のメッセージ。あれはあなたか」


 間があった。水滴が落ちる音が二回。


 「ええ」


 「なぜ」


 「あなたのログに異常がある。送信停止の5分間——ブランク。それ自体も異常だけど、もっと気になるものがある」


 「気になるもの」


 「あなたの未来ログに、説明のつかない処理がある」


 瀬川の声が変わった。早口のまま、だが一段低くなった。技術者が重要なバグの報告をする時のトーンだ。俺にも覚えがある。保守レポートで深刻度「高」の不具合を記述する時、無意識に声が下がる。


 「未来の時刻で生成されたデータ。通常のログは過去の記録。タイムスタンプは常に過去を指す。でもあなたの未来ログのメタデータの一部は、72時間先の時刻で生成されている。まだ来ていない時刻のタイムスタンプ」


 「……それがどうした」


 「それが何なのか知りたい。あなたは当事者。つまり、一次情報源」


 情報源。


 俺は少し笑った。唇の端が動いた程度の、笑いとも言えない形。腹筋が攣りかけた。十四時間走り続けて、笑う筋肉まで消耗している。


 「俺は情報源か。人間じゃなくて」


 瀬川は間を置いた。暗闇の中で、左手首の湿疹を右手で掻く気配がした。爪が肌を擦る、かすかな音。


 「今は、情報源。人間かどうかは、もう少しデータが揃ってから判断する」


 正直な言葉だった。嘘よりも信用できた。


 助けに来たのではない。友情でもない。「あなたのログに異常がある。それを調べたい。あなたはデータを持っている」。動機が明快で、利己的で、だから信頼できる。善意で近づいてくる人間は、善意の裏に何を持っているか分からない。利己的な人間は、利己的であることが既に情報だ。変数がひとつ少ない。


 ——いや、待て。それだけじゃない。


 「なぜ助ける。ログスコアが落ちるぞ。逃走中の予防拘束対象者に接触したら」


 「もう落ちてる。あなたに匿名メッセージを送った時点で、私のログにはそのトランザクションが残っている。送信者情報は秘匿できても、発信の事実はログクラウドに記録される。いずれ気づかれる」


 「分かっていて送ったのか」


 「母のログを不正アクセスした時と同じ。止められなかった」


 母のログ。その言葉が引っかかったが、瀬川はそれ以上説明しなかった。声のトーンが一瞬だけ変わった——技術的な平坦さが消えて、短い。感情的な話は短くなる。さっきまでの早口と対照的だった。


 「……まあいいけど」


 瀬川がそう言って、話を切り上げた。


 沈黙が落ちた。地下通路の天井から水滴が落ちる音。配管の中を何かが流れる低い音。遠くで地下物流ロボットのキャタピラが地面を噛む振動が、壁を伝ってきた。


 俺は壁のくぼみから体を出した。膝が軋んだ。立ち上がる動作ひとつに、全身が抗議している。


 「未来の時刻のデータ。もう少し詳しく聞かせてくれ」


 瀬川の懐中電灯が少し上がった。光が壁を照らし、俺たちの間の距離が分かった。五メートル。近くも遠くもない距離。


 「ログの仕組みを知ってるでしょう。あなたは第3層の保守SE」


 「末端の保守だ。上流の設計は知らない」


 「十分。メタデータ層は分かる?」


 「データの生成タイムスタンプ、書き込みプロセスID、データソースの識別子。保守レポートで触ることはある」


 「そう。そのメタデータ層に異常がある」瀬川は一歩前に出た。四メートル。光が彼女の顔を横から照らした。鋭い目。黒のショートカットの左側が、少し長い。「通常のログのタイムスタンプは過去の時刻。行動が記録された時刻か、シビュラが予測を算出した時刻。全て『すでに起きた』時刻を指している」


 「そうだ」


 「あなたの未来ログのメタデータの一部に、72時間先を指すタイムスタンプがある。まだ起きていない時刻。未来の時刻で生成されたデータ」


 俺はその意味を処理しようとした。思考が追いつかない。十四時間の疲労が脳に膜を張っている。


 「予測エンジンのアルゴリズムが更新されて、タイムスタンプの仕様が変わった可能性は」


 「調べた。シビュラの予測エンジンのバージョン履歴に、タイムスタンプ仕様の変更はない。少なくとも、上流設計エンジニアがアクセスできるドキュメントには」


 「じゃあ第3層のデータベースのバグ」


 「可能性はゼロじゃない。でも、バグなら他のユーザーのログにも同じ異常が出るはず。確認した限り、異常があるのはあなたのログだけ」


 俺のログだけ。


 「つまり」


 「つまり」瀬川の声が、さらに一段低くなった。「通常のログは、過去に起きたことを記録する。未来ログも、過去に算出された予測を端末に送る。全てのデータの生成は、過去に行われる。でもあなたのログの一部は、未来の時刻で生成されている。未来の時刻でデータが生成されるということは——」


 「予測じゃない」


 俺の口が、瀬川より先に答えていた。


 「予測じゃない。書き込みだ」


 沈黙。


 水滴が落ちた。一滴。二滴。三滴。


 世界が裏返った感覚があった。天井と床が入れ替わるような。いや、違う。天井も床も変わっていない。変わったのは、俺がこの十四時間ずっと前提にしていたものだ。


 未来ログは予測だと思っていた。〈シビュラ〉が俺の過去のデータを分析して、72時間後に俺が人を殺す確率を算出した。99.97%。その予測が正しいかどうかが問題だと思っていた。冤罪か、それとも俺は本当に殺人を犯すのか。


 だが予測ではなく書き込みだとしたら。


 誰かが、俺のログに「殺人」というデータを直接書き込んでいる。予測ではなく、意図。確率ではなく、設計。俺は「殺人犯になると予測された人間」ではなく、「殺人犯に仕立てられている人間」ということになる。


 膝から力が抜けかけた。壁に手をついた。指先の深爪が壁のコンクリートに触れて痛んだ。その痛みが、思考を繋ぎ止めた。


 「……誰が書き込んでいる」


 「分からない。メタデータの書き込みプロセスIDは、シビュラの内部プロセスを示している。だがシビュラの内部構造は上流設計エンジニアにも非公開の部分が多い。書き込みがシビュラ自体によるものか、シビュラのプロセスを偽装した外部からのアクセスかは、今の私のアクセス権限では判別できない」


 「つまり、シビュラか、シビュラのふりをした誰か」


 「そう。どちらにしても、あなたの殺人予測は『予測された未来』じゃなくて『書き込まれた未来』の可能性がある。それ、ログにある?」


 最後の一言で、瀬川の口調が少し軽くなった。口癖なのだろう。事実確認の癖。暗い地下通路で、暗い話をしている最中に、エンジニアの習性が顔を出す。


 「ログにはない」俺は答えた。「俺が今感じていることは、ログには記録されない」


 瀬川は何も言わなかった。


 しばらくの間、二人とも黙っていた。地下通路の暗闇の中で、結露の水滴が落ちる音だけが続いた。


 俺は瀬川の顔を見ようとした。懐中電灯は下を向いていて、互いの顔は見えない。声と、気配と、湿疹を掻く音だけの相手。ログのない空間で、ログのない会話をしている。


 「協力してほしい、ということか」


 「あなたが協力するなら。私はログの異常を調査する。あなたは当事者としてのデータを提供する。対等な取引」


 「対等か。俺は逃走中の犯罪者で、お前はまだログスコアが残っているエンジニアだ。対等じゃないだろう」


 「スコアの話をするなら、私が今ここにいること自体がすでにスコアの崩壊よ。逃走中の予防拘束対象者と接触して、しかもログ公安に通報していない。これだけで共犯が成立する」


 「分かっていて来たのか」


 「さっきも言った。止められなかった」


 瀬川の声は平坦だった。だがその平坦さの下に、何かが沈んでいた。母のログ。不正アクセス。止められなかった。同じフレーズが二度出た。繰り返される言葉には、重さがある。


 俺は深爪の指先を見た。暗くて見えなかったが、指先が腫れている感覚はあった。十四時間前、品川駅のホームで殺人予測を見た時、この指は今ほど傷んでいなかった。ログ端末のデバッグメニューを操作し、ブランクを起動し、走り、壁に手をつき、また走った。指先の損傷は、逃走の履歴そのものだった。ログには記録されない履歴。


 「いいだろう」


 声に出した。同意の言葉は、口に出してみると思ったより軽かった。もっと重い判断をしているはずだった。見知らぬ——いや、ほとんど見知らぬ相手を信じるという判断。だが信じているわけではない。瀬川の動機が利己的であることを、俺は信じている。それだけだ。


 「まず確認したいことがある」瀬川が言った。「あなたの端末のデバッグメニュー。ブランクのコマンドシーケンス。それを見せてもらえる?」


 「ここで?」


 「ここで。電波が不安定だから、デバッグメニューにアクセスしても送信がリアルタイムで飛ぶ可能性は低い。やるなら今」


 エンジニアの判断だった。グレーゾーンの電波不安定性を利用する。理にかなっている。


 俺はログ端末のデバッグメニューを開いた。投影ディスプレイに緑色の文字が浮かぶ。通路の暗闇に、淡い緑の光が広がった。瀬川が近づいてきた。三メートル。二メートル。懐中電灯を消した。投影の光だけになった。


 瀬川の顔が、緑色の光の中にあった。鋭い目が、投影の文字を追っている。左手が右手首を握っていた。爪の跡がついている左手首。視線はコードに固定されている。指先が動いている——投影の文字列を読みながら、頭の中で構造を組み立てているのだろう。上流設計エンジニアの目だった。末端の保守SEとは、同じデータを見ても見えるものが違う。


 「……なるほど」瀬川が呟いた。「ファームウェアのタイミング制御のバグか。末端保守のドキュメントに記載がある?」


 「ない。半年前に気づいて、報告しようとした。だが深刻度が低いと判断されて、修正キューの末尾に回された」


 「末尾に回されたバグを、あなたは覚えていた」


 「保守SEの職業病だ。直されないバグは気になる」


 瀬川の唇が、わずかに動いた。笑ったのかもしれない。暗くてよく分からなかった。


 「それが命を繋いだわけだ」


 投影を閉じた。緑の光が消えた。暗闇が戻った。目が慣れるまでの数秒間、完全な闇の中に二人でいた。


 瀬川が懐中電灯をつけた。光が通路の奥を照らした。


 「このまま通路を進んだ方がいい。ログ公安が地下に捜索範囲を広げるまで、まだ数時間はあると思うけど、同じ場所に留まるのは——」


 瀬川の声が止まった。


 懐中電灯の光が、壁のある一点で止まっていた。


 矢印。


 通路の壁に、白いペンキで矢印が描かれていた。小さい。30センチ程度。通路の奥を指している。矢印の隣に、何か記号のようなものが書き添えてある。古い。ペンキの表面がひび割れて、ところどころ剥がれている。少なくとも数年は経っている。


 「これ」瀬川が懐中電灯を矢印に当てた。「ログ管理局の設備記号じゃない。私が見たことのないマーキング」


 「物流ロボットのルート標識でもない」俺は言った。保守SEとして地下インフラのドキュメントは読んでいる。「公式のマーキングは全てデジタルコードが併記される。これは手描きだ」


 手描きの矢印。地下通路に。ログ社会のインフラ記号ではない何かが、壁に直接ペンキで書かれている。デジタルではなく、アナログ。記録ではなく、痕跡。


 俺は矢印の先を見た。通路は暗闇の中に続いている。


 その時、空気が変わった。通路の奥から、微かな——本当に微かな気配。物流ロボットの振動ではない。空調の音でもない。人間の気配だった。一人ではない。複数の、生きている人間が、この通路の先にいる。


 瀬川が俺を見た。懐中電灯の光の縁で、彼女の鋭い目が光った。


 「……この先に、誰かいる」


 俺は矢印を見た。壁のペンキ。古い。だが消されていない。誰かがここに道標を残し、誰かがそれを消さずにおいた。ログに記録されない道標。


 足が動いた。判断より先に。膝が痛んだが、通路の奥に向かって歩き始めていた。瀬川の足音が、半歩遅れて続いた。


 残り、56時間。

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