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記録されない理由

瀬川真帆は、母のログを読んだ夜のことを忘れたことがない。


 目黒のマンション、5階。リビングのソファに座って、投影ディスプレイにニュースを流していた。午後六時のヘッドライン。「ログクラウド保守員・霧島遼一、予防拘束対象として逃走中。殺人予測99.97%。ログ公安が捜索を継続」。


 真帆の指が、左手首の湿疹を掻いた。ログ端末の周囲に広がる赤い発疹。心因性のアレルギーだと医師には言われている。治療は勧められたが、断った。この湿疹は私の体がシステムに出している抗議だから。冗談のように言ったが、冗談ではなかった。


 霧島遼一。名前に覚えがあった。ネクストシステムズの保守SE。ログクラウド第3層の定期メンテナンスで、真帆のチームと合同作業をしたことがある。二年前だ。地味で無口な男だった。休憩時間に20世紀の映画の話をした。「記録されない時代の物語が好きだ」と彼は言った。真帆はその言葉を覚えていた。ログの外側に興味がある人間の匂いがした。母と同じ匂い。


 ニュースを消した。投影を切り替え、エンジニアのアクセス権限でログクラウド第3層にログインした。真帆は上流設計エンジニアだ。第3層のデータ構造にアクセスする権限を持っている。


 霧島遼一のログを検索した。本来、他者のログへの直接アクセスは法的にグレーだが、エンジニアの保守権限で技術的には可能だ。母のログを読んだ夜と同じだった。不正アクセス。だが止められなかった。あの時も止められなかった。


 データが表示された。霧島遼一の行動ログ。24時間分。朝7:15の起床から、品川駅での逃走開始、渋谷方面への移動、廃ビルへの潜伏。全てが時系列で並んでいる。ログ公安が追跡に使っているのと同じデータだ。


 真帆はデータをスクロールした。午後2時03分に灰色の帯。空白。5分間のログ欠損。


 指が止まった。


 空白。ログに空白が出ることは、通常あり得ない。端末の物理故障か、意図的な送信停止以外では。真帆はバイタルデータの波形を確認した。空白の前後で、波形に不自然な断絶がない。端末は動作している。送信だけが止まっている。


 「ブランク」


 声に出した。自分の声がリビングに響いた。ログ端末のファームウェアにバグがある——上流設計の立場から、その可能性を以前から認識していた。第3層のデータ整合性チェックで、ごくまれに送信タイミングの不整合が報告される。末端のバグだ。深刻度は低いとされ、修正の優先順位は低い。だが——末端の保守SEがそのバグを知っていて、意図的に利用したとしたら。


 真帆は椅子から立ち上がった。キッチンに行って水を飲んだ。コップを置いた時、手が震えていることに気づいた。興奮だった。母のログを読んだ夜以来、五年ぶりの興奮。


 リビングに戻った。水を飲んだことで、頭の中のノイズが少し収まった。興奮を制御する。データを見る。仮説を立てる。検証する。エンジニアの手順。母のログを読んだ夜は、この手順を守れなかった。三年分のデータを読みながら泣いた。泣いても答えは出なかった。今度は泣かない。


 霧島のログをさらに深く掘った。行動ログの下層——通常のエンジニアが触らないメタデータ層。ログの生成タイムスタンプ、書き込みプロセスID、データソースの識別子。


 そこに、異常があった。


 真帆の背筋が伸びた。ソファに座っていた姿勢が変わった。画面に顔を近づけた。投影の青白い光が、鋭い目元を照らした。


 未来ログのデータ。通常のログは過去の行動を記録する。位置、バイタル、行動分類——全て「すでに起きたこと」の記録だ。未来ログだけが例外で、シビュラの予測エンジンが算出した「これから起きること」のデータが端末に送られる。


 だが、霧島の未来ログのメタデータに、説明のつかない値があった。


 生成タイムスタンプが、未来の時刻になっている。


 通常、未来ログの生成タイムスタンプは「予測が算出された時刻」——つまり過去の時刻だ。シビュラが今日の午前3時に予測を算出したなら、タイムスタンプは午前3時。だが霧島のデータの一部は、タイムスタンプが72時間先を指している。まだ来ていない時刻で生成されたデータ。


 ログは過去の記録。未来の時刻でデータが生成されるのは、仕様上あり得ない。


 あり得ないことが起きているなら——それは予測ではない。書き込みだ。誰かが、霧島のログに未来のデータを直接書き込んでいる。


 真帆の左手が右手首を握った。湿疹の上から。爪が皮膚に食い込んだ。痛みがあった。痛みがあると、思考が速くなる。悪い癖だった。


 予測ではなく書き込み。この仮説が正しいなら、霧島の殺人予測は「シビュラが未来を予測した結果」ではなく、「誰かが霧島のログに殺人というデータを書き込んだ結果」ということになる。予測と書き込みでは、意味が根本的に違う。予測は確率だ。書き込みは意図だ。誰かが、意図的に、霧島遼一を殺人犯に仕立てている。


 ——いや。まだ断定できない。メタデータの異常には別の説明がつく可能性もある。シビュラの予測エンジンが新しいアルゴリズムを導入し、タイムスタンプの生成ルールが変更された可能性。あるいは第3層のデータベースのバグ。上流設計エンジニアとして、仮説の早すぎる確定は避けるべきだった。


 だが、この異常を調査できる人間は限られている。ログ公安はデータの表面——行動ログ、位置情報、バイタル——を見る。メタデータ層の構造に踏み込めるのは、上流設計のエンジニアだけだ。


 母のことを思い出した。


 五年前の夜。葬儀の後、真帆はこの同じマンションのこの同じリビングで、母のログを三年分読んだ。8,760時間分の「母の人生」を数字とテキストで読んだ。毎朝六時に起床。七時に家を出る。十八時に帰宅。食事を作り、就寝する。バイタルデータは正常範囲内。ストレス値は介護士としては標準的。「自殺の兆候」はどこにもなかった。


 ログは全てを記録する。でも、母が死にたいと思っていたことは、一行も書かれていなかった。


 最後の記録は「屋上移動、17:42:08、行動分類:不明」。不明。三年分の完璧なデータが、最後の一行だけ「不明」で終わっていた。真帆はその一行を何百回も読み返した。屋上移動。不明。ここに何があったのか。風の音か、空の色か、最後に見た景色は何だったのか。ログはそのどれも記録しない。ログが記録するのは「移動した」という事実と「分類できなかった」という判定だけだ。


 笑えるでしょ——と、真帆は一度だけ同僚に言ったことがある。笑えなかった。今も笑えない。


 母のログは「正常なのに説明できない死」だった。


 霧島のログは「異常があるのに、まだ生きている」。


 逆のパターンだ。母のログには何も異常がなかった。だから誰も気づかなかった。霧島のログには明らかな異常がある——未来の時刻で生成されたデータ、五分間の空白。だが霧島はまだ生きている。走っている。ログの異常に気づいたのは、たぶん真帆だけだ。ログ公安は空白に気づいているだろうが、メタデータ層の異常には気づいていない。彼らはデータの表面を見る。構造は見ない。


 記録の向こう側に何があるのか。


 母のログの向こう側にあったものは、真帆には永遠に分からない。だが霧島のログの向こう側にあるものは——まだ分かる可能性がある。霧島が生きている限り。


 真帆は投影ディスプレイに向かい、匿名通信のプロトコルを組み立てた。エンジニアの権限を使えば、送信者情報を秘匿したメッセージをログ端末に送ることができる。公式には禁止されているが、技術的には可能だ。保守作業のテスト通信用に残されたバックドア。


 メッセージを打った。


> あなたの〈ブランク〉を検出しました。次回の使用を推奨します。


 送信ボタンを押す指先が冷たかった。


 匿名メッセージの送信はログに記録される。送信者情報は秘匿できても、「真帆の端末から匿名通信が発信された」という事実自体はログクラウドに残る。いずれログ公安が気づく可能性がある。それでも送った。母のログを不正アクセスした夜と同じだった。止められなかった。


 ブランク中にログ公安の追跡精度が落ちることは、環境ノードのデータ解析で確認した。人混みの中であれば、ブランクは有効な逃走手段になる。真帆はその事実を伝えた。助けているのか。たぶんそうだ。だが動機は友情ではない。


 真帆はコートを取った。暗い色のトレンチコート。四月の夜は肌寒い。左手首の湿疹が、コートの袖口に擦れてかゆかった。


 投影ディスプレイに霧島の最終位置が表示されていた。渋谷駅南口付近。そこから移動速度が極端に落ちている。体力の限界だろう。渋谷の地下——旧地下鉄の廃駅があるエリア。グレーゾーン。電波が不安定で、ログの送信精度が落ちる場所。逃走者が向かうとしたら、そこだ。


 靴を履いた。黒のスニーカー。走れる靴。母は最後の日、ヒールを履いていた。ログにはそれも記録されていた。「靴種別:パンプス、ヒール高7cm」。母がなぜその日にヒールを選んだのかは、記録されていなかった。


 玄関のドアを開けた。廊下の蛍光灯が白い。エレベーターに向かう途中、壁のセンサーノードの小さなレンズが光った。真帆はそれを見た。見て、通り過ぎた。


 霧島遼一は情報源だ。未来ログの異常データを調査するための一次情報源。人間かどうかは、もう少しデータが揃ってから判断する。そう自分に言い聞かせた。エンジニアとしての理性がそう結論づけた。


 ——嘘だ。


 真帆は自分の嘘を知っていた。情報源だから会いに行くのではない。母のログに記録されなかったものを、まだ探しているのだ。五年間ずっと。ログの外側に落ちたものを拾いに行く。それが真帆の病だった。治療する気はなかった。


 エレベーターのドアが開いた。真帆は中に入り、1階のボタンを押した。鏡に自分の顔が映った。鋭い目。左側だけ少し長い髪。母がいつも撫でていた側の髪。無意識に切れない。


 左手首の湿疹を、右手で掻いた。

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