空白を追う者
筧俊哉のモニターに、異常が表示された。
午後三時三十二分。指揮室のメインスクリーンに霧島遼一の行動ログがリアルタイムで流れている。位置情報、心拍数、ストレス値。四時間前に渋谷の廃ビル地下にログ信号が沈んで以来、移動速度はゼロに近かった。追い詰められた獲物が穴に籠もっている——と、筧は判断していた。巡回犬を二体投入し、ビル内の捜索を開始させた矢先だった。
ログが途切れた。
画面上のデータストリームに、四角い穴が開いた。位置情報が消え、バイタルが消え、行動分類が消えた。灰色の帯。「空白——5:00」。
五分間。
筧の指がマウスの上で止まった。空白の前後のデータを拡大した。空白直前の最終データ——心拍数103、位置は渋谷区廃ビル地下一階、送信状態アクティブ。空白直後の復帰データ——心拍数148、位置は渋谷駅南口付近。
八百メートルの跳躍。五分間のログが存在しない。その五分間で、霧島遼一は廃ビルの地下から渋谷駅南口まで移動した。
ログに空白が出る原因は二つしかない。端末の物理故障か、意図的な送信停止か。
筧は空白の前後のバイタルデータを重ねた。空白前の心拍103。空白後の心拍148。空白を挟んで心拍が上昇している。端末が物理故障していたなら、バイタルセンサーも機能停止しているはずで、復帰直後に正常なデータが出ることは説明しにくい。さらに、空白前の送信状態が「アクティブ」——端末は正常に動作していた。
意図的な停止。
「藤原」
隣の席で巡回犬の配置図を確認していた藤原が顔を上げた。
「はい」
「霧島遼一のログに五分間の空白が出ました。表示してください」
藤原がモニターを覗き込んだ。灰色の帯を見て、目が少し広がった。「えっ。空白って——ログが途切れたってことですか?」
「データを見ましょう」
筧は空白の発生地点を地図上にプロットした。渋谷区の廃ビル。巡回犬を投入した建物。タイムスタンプは14:03:22。巡回犬が地下一階の踊り場に到達したのが14:03:15。七秒後にログが途切れた。
「巡回犬のログを出してください。14:03の記録」
藤原がコマンドを打った。巡回犬のカメラ映像とセンサーログが表示された。14:03:15、踊り場に人影を検知。顔認識処理を開始——0.8秒後にログ端末信号をロスト。顔認識は完了せず、「不明人物」として記録。その後、人影は非常階段を上昇し、地上階の非常口から建物外に移動。巡回犬は追跡を試みたが、地上で対象をロスト。
「信号ロスト。巡回犬がログ端末の信号を捕捉できなくなってます」藤原が首を傾げた。「故障ですかね。地下にいたから、何か壊れた?」
「故障なら復帰しません」
筧はバイタルデータのグラフを指でなぞった。空白の直前と直後で、データの波形に不自然な切断がない。端末の再起動やリセットの痕跡がない。記録は継続しているが、送信だけが止まっている。
「これは端末の物理故障ではありません。送信機能だけが選択的に停止している。記録は端末内部に蓄積され、五分後に一括送信されています。つまり——」
筧は椅子の背に体を預けた。
「意図的なログ停止です」
藤原の表情が変わった。「意図的って……ログ開示法違反じゃないですか」
「そうです。端末のファームウェアに何らかの脆弱性があり、霧島がそれを利用した可能性が高い。彼は末端とはいえログクラウドの保守SEです。端末のデバッグメニューにアクセスする知識がある」
筧の声は平坦だった。分析している時の筧は正確で、温度がない。データを読み上げる機械のように淡々と仮説を組み立てる。藤原はその声を聞くたびに、どこか居心地が悪くなる。人間を追いかけているはずなのに、数式を解いているような口調だ。
「ログ開示法違反は最高懲役十年です。殺人予測に加えて、実際の犯罪が成立しました。立件は容易です」
「じゃあ、余計に追い詰められたってことですよね。逃げ場がなくなった」
「逆です」
筧はモニターに手を伸ばし、空白の五分間に対応する環境ノードのデータを呼び出した。渋谷の主要エリアに埋め込まれた数千のセンサーノードが、空白の五分間にも稼働していた。赤外線による人数カウント、音響データ、空気質の変動。
「環境ノードのデータです。空白の五分間、廃ビル周辺から渋谷スクランブル交差点にかけて、ログ端末信号と紐づかない人影が一つ、移動しています」
藤原が画面を凝視した。環境ノードのヒートマップ上に、赤い点が一つ。ログ端末の信号を持たない「誰か」が、ビルの裏口から路地を通り、スクランブル交差点の群衆に紛れ、南口方面へ抜けていく。
「ブランク中でも環境ノードからは消えていない」藤原が言った。
「消えません。ログ端末が沈黙しても、人間の体は赤外線を放射し、足音を立て、空気を動かす。第一層を止めても第二層は機能し続けます。ただし——」
筧は群衆のヒートマップを拡大した。渋谷スクランブル交差点。数百の人影が重なり合っている。その中の一つだけがログ端末信号を持たない。
「人混みの中では、特定できません。数百人の赤外線反応の中からログ端末信号のない一人を抽出する処理は、リアルタイムでは間に合わない。事後的にデータを解析すれば、移動ベクトルと体格データから絞り込める可能性はありますが、確定には至らない」
藤原は黙って聞いていた。それから口を開いた。
「つまり——この空白の五分間は、逃走手段として機能したってことですか」
「機能しました。不完全ですが、有効です」
筧の親指が、左手の薬指の指輪に触れた。無意識の動き。
「霧島遼一はパニックで逃走しているだけの男ではありません。末端の保守SEですが、ログ端末のファームウェアの脆弱性を知っており、それを実戦で使う判断力がある。撹乱ではなく、ログの構造的弱点を突いている」
筧は新しいプロトコルの設定画面を開いた。指がキーボードの上で一瞬止まり、それから正確に打ち始めた。
「プロトコルを追加します。次に空白が発生した場合——発生地点の半径五百メートルを即時封鎖。環境ノードのリアルタイム解析を起動し、ログ端末信号のない人影を優先追跡。公安ドローンを空白発生地点に五機集中配置。巡回犬は周辺ビル全棟に展開」
藤原がメモを取りながら頷いた。「それで次は逃がさない、と」
「逃がしません。同じ手は二度通じない。空白の五分間に移動できる距離は限られています。半径五百メートルを封鎖すれば、空白が終了した時点で包囲の中にいる」
プロトコルの入力を終え、筧はモニターに向き直った。霧島遼一のリアルタイム位置情報。渋谷駅南口付近。空白の後、移動速度が極端に落ちている。体力の限界が近いだろう。10時間近い逃走と絶食。バイタルデータも消耗を示している。血糖値低下、脱水傾向。
「藤原。一つ確認します」
「はい」
「霧島のファームウェアバージョンは」
藤原が端末情報を呼び出した。「v7.4.2です。最新はv7.5.1ですが……更新されてないですね。委託企業の端末管理がずさんだったんでしょう」
v7.4.2。最新版ではないファームウェア。未修正の脆弱性が残っている可能性。筧はその情報を頭の中に収めた。
「ファームウェアの脆弱性データベースに、v7.4.2で未修正のバグがないか確認してください。特に送信制御モジュール関連」
「了解です」
藤原が立ち上がりかけて、また振り返った。最近の癖だ。退室する前に、何か一言聞きたがる。
「主任。さっきのログの空白——なんて呼びます? 報告書に書く時の名称」
筧は一瞬考えた。
「〈ブランク〉。ログの空白期間。そう記載してください」
藤原が頷いて退室した。扉が閉まり、廊下の足音が遠ざかった。
指揮室に筧だけが残った。
モニターの光が顔を照らしていた。霧島遼一の行動ログ。灰色の帯。五分間の空白。〈ブランク〉。
筧は空白の直前のデータをもう一度拡大した。心拍数103。この数値は、三時間潜伏して体が安静に戻った状態の心拍だ。空白の直後は148。走っている。恐怖と興奮の混合。
だが筧が見ているのは心拍数ではなかった。空白の直前——14:03:15——巡回犬が踊り場に到達した瞬間のデータ。巡回犬が人影を検知してから、ログが途切れるまでの七秒間。
七秒。巡回犬に見つかってから、ブランクを起動するまで七秒。
パニック状態の人間なら、巡回犬を見た瞬間に走って逃げる。ログの停止など思いつかない。だがこの男は七秒間で——巡回犬を認識し、逃走不可能と判断し、ブランクの起動を選択し、コマンドを実行した。
七秒間の判断。末端SEの知識に基づく、冷静な判断。パニックの中の冷静。恐怖の中の知性。
筧の左手が指輪に触れた。親指が金属の輪を回した。品川駅ホームの映像。164bpm。恐怖の数値。殺人を計画している人間の心拍ではない。あの時そう感じた。感じて、打ち消した。「心拍数164は、心拍数164です」。
だが今、もう一つのデータが加わった。ブランク。ログの意図的な停止。末端SEが持つ、末端のバグの知識。この男は——逃げているだけではない。考えている。
それが何を意味するか、筧にはまだ分からなかった。分からないことが、筧の胃の底に小さな石のように沈んだ。データから答えが出ないことへの不快感。データを見ればいい。データを見れば分かる。いつもそうだった。
——本当に、いつもそうだったか。
87.2%のデータは、あの夜の沙織と結を救わなかった。
筧は目を閉じた。二秒。目を開けた。モニターの光が戻った。
端末に指示を入力した。渋谷エリアの全環境ノードを最大感度で稼働。公安ドローンを三機追加。巡回犬を渋谷駅周辺の主要ビルに配置。ファームウェアv7.4.2の脆弱性調査を技術班に依頼。
入力を終え、筧は椅子から立ち上がった。窓の外を見た。四月の夕暮れ。霞が関のビル群の向こうに渋谷方面の空が広がっていた。空が赤い。ドローンの飛行に支障のない天候。
「この男は」
誰もいない指揮室で、筧は声に出した。
「ただの逃走犯ではないかもしれない」
左手の指輪が、夕焼けの光を鈍く反射した。




