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最初のブランク

巡回犬のモーター音が、階段を一段ずつ降りてくる。


 四つの足。正確で均一で、疲れを知らない歩行。人間の追手の方がまだましだ。人間は疲れるし、判断を間違える。こいつは間違えない。


 デバッグメニューを開いたまま、パラメータの調整を続けていた。タイムアウト値の変更。送信制御モジュールのフリーズ持続時間を五秒から五分に延長するコマンド。指先が震えている。深爪の人差し指が投影面に触れるたびに、爪の先から血が滲んだ。コマンドラインの緑色の文字の上に、赤い点が散った。


 ログ端末の投影にノイズが走った。コマンドの入力を受け付けた合図。パラメータが書き換わった。推定停止可能時間:5:00。


 起動すべきか。


 指が投影面の上で止まった。起動した瞬間、ログ開示法違反が成立する。ログの意図的な停止。最高懲役十年の重罪。殺人の冤罪に加えて、実際の犯罪が乗る。まだ何もしていない俺が、自分の手で犯罪者になる。殺人予測は冤罪かもしれない。だがログ開示法違反は事実になる。取り消せない。


 ——だが、起動しなければどうなる。


 巡回犬に確保される。予防拘束。拓也と同じだ。三十日間の拘束。そのあと何が残るか。拓也の末路がそのまま答えだ。社会から切断され、部屋に閉じこもり、壁に自分のログを貼り詰めて——最後に圏外に消えた。あるいはそれ以前に、72時間後の殺人予測が「的中」するよう仕向けられるのか。分からない。分からないが、ここで止まれば終わることだけは分かる。


 巡回犬のカメラが、踊り場を覗き込んだ。


 黒い筐体。犬型四足歩行、約60cm。暗闇の中で四つの足が金属的な音を立てて踊り場に降り立った。カメラアイが赤く光った。赤外線。暗闇でも顔を認識できる仕様だ。保守SEとして資料で読んだスペックが、今は脅威としてそこにある。


 カメラが俺を捉えた。犬の動きが止まった。顔認識処理中。ログ端末の信号と照合中。一秒もかからない。


 体が先に動いた。


 ——起動。


 コマンドシーケンスを実行した。考えたのではない。指が勝手に動いた。三つのコマンドを連続で入力する。最後のコマンドの確認プロンプトを、人差し指の先が叩いた。爪の先の血が投影面についた。


 投影ディスプレイが消えた。


 送信ランプが消えた。


 手首のログ端末が、初めて沈黙した。


 ——あ。


 静かだった。


 左手首に常にあった微かな振動が止まった。通知を伝える細かい震え。生まれてから二十八年間、一度も途切れたことのなかった振動だ。呼吸のように当たり前で、心臓の鼓動よりも意識の上では先にあったもの。生後72時間で埋め込まれるログ端末の振動は、俺が知っている最も古い「体の一部」だった。それが消えた。


 犯罪者になった。


 その事実が、奇妙な静けさの中に沈んだ。恐怖が来るかと思った。後悔が来るかと思った。だが来たのは——何もなかった。投影が消え、送信ランプが消え、振動が止まった手首を見つめている。暗闇の中で、自分の手首がただの皮膚に戻っていた。何のデータも流れていない。何の数字も浮かんでいない。


 もう戻れない。ログ開示法違反。懲役十年。殺人予測の冤罪ではなく、自分が選んだ犯罪。


 自分が選んだ。


 その言葉が、ふいに軽かった。6時間、何一つ自分で選べなかった。走ることも隠れることもバスに乗ることも、全てログに記録されて追手に差し出される強制的なデータ生成でしかなかった。だが今——これは俺が選んだ。取り消せない。取り消せないことが、不思議と嫌ではなかった。


 巡回犬が反応した。ログ端末の信号がロストした。犬の頭部が左右に振れた。暗い踊り場でカメラの顔認識の精度が落ちている。ログ端末信号なしでは、眼前の人影が「霧島遼一」であることを確定できない。不明人物として上位システムに報告を送っているだろう。だが確定情報ではない。確定情報が得られるまでの処理時間。そのわずかな遅延が、俺の五分間になる。


 非常階段を蹴って上に駆け上がった。


 巡回犬が追いかけてくる。四足歩行の足音が背後から追ってくる。最高速度は時速15km。人間が全力で走れば、階段の上では一時的に引き離せる。体力が残っていれば。


 11時間の絶食と脱水が足に来ていた。太ももの筋肉が攣りかけた。膝が笑っている。足が上がらない。階段の一段一段が高い。こんなに階段は高かったか。二階。脚が重い。一階。非常口のドアが目の前にあった。肩で体当たりした。腕の力が足りない。もう一度。ドアが軋んで開いた。


 光。


 渋谷の裏路地。午後の日差しが目を刺した。三時間暗闇にいた目が眩んだ。視界が白くなり、二秒ほど何も見えなかった。白い視界の中で、膝が折れかけた。脚の筋肉が限界を超えたのか、それとも太陽の光を浴びたこと自体が体に衝撃だったのか。


 走った。見えないまま走った。壁に手をつきながら路地を抜けた。右手のひらにコンクリートの粒子がざらついた。指先の血が壁に筋をつけた。視界が戻った時、大通りが開けていた。


 渋谷のスクランブル交差点。人。人。人。昼下がりの渋谷は人で溢れていた。頭上には配送ドローンが三機、四機。足元を配送ロボットが通り過ぎていく。信号待ちの群衆が歩道を埋めている。全員が手首にログ端末を埋め込まれた人間の群れ。全員のログが送信されている。全員がシステムの中にいる。


 俺はその群れに飛び込んだ。


 この数百人の中で、ログ端末の信号を出していない人間は俺だけだ。環境ノードは「人がいる」ことを検知しているが、ログ端末信号と紐づかない人影が一つ混じっている。だが「誰か」は分からない。人混みの中の幽霊。


 信号が変わった。群衆が動いた。俺も動いた。流れに乗って交差点を渡り、反対側の歩道に出た。群衆の一部になること。それがブランク中の生存戦略だ。走ってはいけない。目立ってはいけない。周りの人間と同じ速度で歩く。


 すれ違う人がいた。スーツの男性。投影ディスプレイを確認しながら歩いている。


 彼は避けなかった。


 半歩もずれなかった。朝、品川の大通りですれ違った人々は全員が俺を避けた。「予防拘束対象者接近」の通知を受け取り、半歩ずれ、目を逸らし、足早に離れた。三メートル四方の透明な檻が俺を囲んでいた。


 だが今、誰も避けない。ブランク中は接近通知が出ない。俺は「普通の人間」として歩道を歩いている。すれ違う人の肩が近い。体温を感じるほど近い。この距離を、朝はずっと拒絶されていた。


 目頭が熱くなった。泣いているわけではない。走った後の風で目が乾いただけだ。たぶんそうだ。


 心臓が脈打っていた。心拍数は——分からない。投影ディスプレイが消えているから、数値を確認できない。自分のバイタルを知らずに動いたのは、たぶん初めてだった。胸が痛い。それは心拍が速いということだろう。足が重い。疲労しているということだろう。当たり前だ。数値がなくても体は答えを出している。


 だが体の答えは曖昧だった。心拍数が何bpmか分からない。ストレス値が何ポイントか分からない。「俺は今どれくらい怖いのか」をデータで確認できない。データがないと自分の感情が分からない。二十八年間の刷り込みはそれだけ深い。拓也が壁にログを貼り詰めた理由が、少しだけ分かった。記録がなければ自分が自分であることを確認できない。それが怖い。


 左に曲がり、商業ビルの間の狭い通路に入った。また別の通りに出た。渋谷駅の南口方面。廃ビルからは直線距離で六百メートルほど。路地を回って八百メートル。


 足が限界だった。太ももの筋肉が痙攣している。空腹の体に全力疾走の代価がまとめて請求されていた。壁際に寄って、通行人の流れから外れた。肩で息をしている。


 五分が過ぎたはずだった。体内時計で計るしかない。もう少し。あと少し——


 ログが復帰した。


 投影ディスプレイが点灯した。手の甲に青白いホログラムが戻ってきた。送信ランプが光った。五分分のデータがログクラウドに一括送信された。位置情報の空白が埋まる。渋谷区の廃ビル地下一階が最後の送信地点で、次の送信地点は渋谷駅南口付近。八百メートルの跳躍。五分間のログが存在しない。


 左手首の振動が戻ってきた。通知の震え。データの脈動。二十八年間の日常が、五分間の空白を挟んで再開した。


 振動が戻った瞬間、体が緩んだ。安堵だった。二十八年間の習慣が、振動の復帰を「正常な状態への復帰」として処理した。体が勝手にほっとしている。——だが同時に、喉の奥に苦いものが込み上げた。ほっとしている自分が情けなかった。五分間の自由から日常の監視に戻されて、安堵している。鎖が外れたのに、鎖が戻ってきて安心している。拓也が壁にログを貼ったのと、何が違う。


 投影に通知が二つ並んだ。


> [ログ開示法第7条違反の疑い]

> ログ空白を検出しました。

> 発生時刻:14:03:22

> 持続時間:5分00秒

> 公安ログ管理局に自動通報されました。


 一つ目。予想通りだった。ログの意図的停止。懲役十年の犯罪が成立した。殺人予測は冤罪かもしれない。だがログ開示法違反は——俺が自分の手で選んだ犯罪だ。自分で選んだ。二度目のその言葉は、一度目よりも重かった。


> [送信者:?]

> あなたの〈ブランク〉を検出しました。

> 次回の使用を推奨します。


 二つ目。


 読み返した。送信者不明。「?」の一文字だけ。誰だ。「ブランク」——俺が今やったことに名前をつけている。俺は「バグ」としか思っていなかった。この送信者はそれを「ブランク」と呼んでいる。検出した、と書いてある。どうやって。五分間のログの空白を、リアルタイムで検出できる人間がいる。ログクラウドにアクセスできる人間。しかもログ公安ではない。


 ログ公安なら送信者名が表示される。システムの自動通知でもない。書式が違う。個人が、匿名で、俺のログ端末にメッセージを送っている。しかも「次回の使用を推奨する」と。敵ではない——たぶん。敵なら「推奨」などしない。


 6時間、一人だった。誰にも助けられなかった。誰にも助けを求められなかった。廃ビルの地下で膝を抱えて、孤独の中でバグを掘り起こして、巡回犬から走って逃げて——その全部を、誰かが見ていた。見ていて、メッセージを送ってきた。「次回の使用を推奨します」。事務的な文面だ。温かくも冷たくもない。だがこのメッセージを送った人間は、俺が走り続けることを想定している。走り続ける俺に、手段を使えと言っている。


 投影を閉じた。手が震えていた。空腹と疲労と、もう一つ別の何か。名前がつけられない。恐怖ではない。恐怖はもう何時間も前からそこにある。安堵でもない。安堵は鎖の振動と一緒に消えた。


 五分間。たった五分間だけ、俺はログの外にいた。


 ログの外にいる間、世界は変わらなかった。配送ドローンは飛んでいたし、通行人は手首の端末を確認しながら歩いていた。何も変わらない。変わったのは俺だけだ。五分間だけ、俺のデータがこの世界に存在しなかった。誰が見ても「誰か」としか分からない、名前のない人影。


 それがどういう意味を持つのか、まだ分からない。


 分かっているのは——これが俺の、たぶん唯一の武器だということだけだ。


 投影ディスプレイに未来ログの更新通知が届いた。カウントダウンは止まっていない。殺人予測はまだそこにある。ブランクで逃走できても、予測は消えない。


 残り、64時間。

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