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拓也

足音が二つあった。


 暗い地下通路を歩いている。天井から太いパイプが垂れ下がり、壁のコンクリートには水染みが広がっている。瀬川が手にした懐中電灯の光が、十メートル先の暗闇を丸く切り取っていた。俺の足音と、半歩後ろの瀬川の足音。二つの足音が反響して、四つにも五つにも聞こえる。


 一人で歩いていた時間が、もう遠い。品川駅から走り出して、たった十五時間。十五時間前の俺は一人だった。一人で走って、一人で隠れて、一人でデバッグメニューを開いた。今は二人だ。この事実が——足音が二つあるという、ただそれだけのことが、胸の奥のどこかを緩ませていた。


 攣っていた筋肉が解けるように、呼吸が深くなる。


 「矢印、また出た」


 瀬川が壁を照らした。白いペンキで描かれた矢印が、通路の奥を指している。さっきから断続的に見つかる。誰かがこの先に導こうとしている。


 「ここを住処にしている人間がいるんだろうな」


 「オフログ世代かもしれない。グレーゾーンに住み着いている高齢者の話は、エンジニアの間でも噂にはなっていた」


 瀬川の声は低く、落ち着いていた。この女は暗闇の中でも声のトーンが変わらない。技術的な話をしている時は早口になるが、それ以外は一定だ。俺のように考え込んで黙る時間がない。——いや、黙る時間はある。ただ、沈黙に耐えられるタイプなのだ。


 しばらく無言で歩いた。地下物流ロボットの古い軌道レールが足元に残っている。かつてはここを無人の輸送機が走っていたのだろう。今は錆びて、使われていない。グレーゾーンの中でも、特に放棄されたエリアだった。


 「霧島さん」


 瀬川が言った。懐中電灯は前方を照らしたまま、こちらを見ない。


 「あなたのログプロファイルを確認した時に、気づいたことがある」


 「何に」


 「家族構成。兄がいた。霧島拓也。四歳年上。2054年に予防拘束。釈放後、圏外で信号途絶。死亡推定」


 左手首が重くなった。


 比喩ではない。ログ端末の物理的な重量は変わっていないはずだ。だが腕が鉛を巻いたように重い。拓也の名前を他人の口から聞いたのは——いつ以来だろう。八年。八年間、誰もこの名前を俺に向かって言わなかった。職場の人間は知らない。友人はいない。親は三年前に他界した。母は最後まで拓也の話をしなかった。父は「あいつは自分で選んだ」とだけ言って、それ以上は口を閉じた。


 足が止まった。


 瀬川の足音も止まった。懐中電灯の光が壁を照らし、白い矢印の下で静止した。


 「知っていて、合流したのか」


 「エンジニアならプロファイルは見る。判断材料だから」


 「それが判断にどう影響した」


 瀬川は少し間を置いた。暗闇の中で、彼女が左手首の湿疹を掻く気配がした。


 「兄が予防拘束された人間は、ログ制度を信じていない可能性が高い。つまり、私の仮説に協力する動機がある。——そういう判断」


 合理的だった。嘘がない。嘘がないから、腹は立たなかった。


 「拓也のこと、どこまで知ってる」


 「ログに記録されている範囲だけ。データは読んだ。でもデータが全てじゃないことは知っている」


 俺は歩き出した。瀬川もついてきた。足音が二つ。暗闇の中で、言葉が漏れた。漏れた、という表現が正確だ。話そうと決めたのではない。暗闇と足音と、他人がすぐ後ろにいるという事実が、八年間締めていた蓋を緩めた。


 「兄貴は——穏やかな人間だった」


 声が通路に反響した。自分の声が奇妙に遠い。


 「大学院で情報倫理を研究していた。デモに参加していたが、過激派じゃない。学会で論文を発表していた程度だ。監視社会は人間の尊厳を損なう。そういう内容。学術的な批判。穏当で、正確で、だからこそ誰にも響かなかった」


 足元の錆びたレールを踏む音が、言葉の合間に入った。


 「2054年。プレクライム法が施行された年だ。兄貴の未来ログに、公共施設への破壊行為、確率91.3パーセントが出た。即座に予防拘束」


 91.3。閾値の90を超えている。法律上、令状は不要。拓也に抵抗の権利はなかった。


 「面会に行った。拘置所の面会室。アクリル板越しに、兄貴は落ち着いた顔をしていた。怒ってなかった。諦めてもいなかった。——ただ、明晰だった。壊れる前の、最後の明晰さだったんだと思う」


 兄の声が蘇る。八年前の声。面会室の空気の匂いまで。


 「『遼一、俺は何もしていない。でもな、ログがそう言っている以上、俺にはそれを否定する方法がないんだよ。面白いだろう? この社会では、お前が何をしたかじゃなくて、ログが何を記録したかが真実になる』」


 声に出して引用していた。拓也の口調を再現しようとしていた。八年間、一度も口にしなかった言葉が、形を保ったまま出てきた。記憶はログと違って劣化するはずなのに、この言葉だけは劣化しない。


 「三十日で釈放された。予測は外れた。兄貴は何もしなかった。でも——」


 言葉が詰まった。喉の奥に何かが引っかかる。嚥下した。


 「釈放後、兄貴は変わっていた。大学院を辞めた。職に就かなかった。ログスコアが落ちて、賃貸を更新できなくなった。親の家に戻って、部屋に引きこもった」


 懐中電灯の光が揺れた。瀬川の足音だけが一定のリズムで続いている。


 「兄貴の部屋を訪ねた。ドアを開けて——」


 あの光景。


 壁一面に、ログ記録が貼られていた。印刷された紙。起床時刻、食事内容、歩数、心拍数、行動分類、対人接触記録。全てが壁を覆っていた。天井に近い部分まで。紙と紙の間にマスキングテープ。日付順。一日も欠けていない。兄の人生が数字とテキストになって、壁紙のように部屋を包んでいた。


 「兄貴はその壁の前に立って、俺を見て言った」


 左手首のログ端末が重い。心因性の何かだろう。ログ端末はこの種の主観的な重さを記録しない。


 「『見ろよ遼一。これが俺だ。俺の人生は全部ここに書いてある。逆に言えば、ここに書いてないことは、俺の人生じゃないんだ』」


 通路に声が響いた。拓也の言葉が、コンクリートの壁に跳ね返って消えた。


 「三ヶ月後に、圏外に出た。ログの最後の記録は、青森県八甲田山麓、標高千二百メートル地点。それ以降、信号途絶。端末を外せば死ぬ。だから——死亡推定」


 足が止まった。二度目。


 暗闇の中で、自分の呼吸が荒いことに気づいた。走ってもいないのに、呼吸が浅く速くなっている。心拍数は——分からない。投影ディスプレイを見ればデータが出るだろう。見なかった。データで確認しなくても、胸の中で何かが暴れているのは分かる。


 「見捨てたんだ、俺は」


 声に出した。


 声に出して初めて、その言葉が事実だと認めた。


 八年間、一度も口にしなかった。考えたことはある。夜中に目が覚めて、天井を見ながら、拓也の壁の記録を思い出すたびに。だが口にはしなかった。口にしなければ、ログに記録されない限り、事実ではないと思えた。——いや、違う。ログは会話の内容を記録しない。だからこそ、口にさえしなければ、どこにも残らない。残らなければ、なかったことにできる。


 「兄貴が壊れていくのを見ていた。壁にログを貼る兄貴を見て、やばいと思った。だが何もしなかった。ログに従って生きていれば安全だと思ったからだ。兄貴みたいに逆らわなければ、ログに異常は出ない。異常が出なければ予防拘束もされない。——俺は兄貴を見捨てて、ログの内側に逃げた」


 言葉が止まらなかった。八年間の蓋が外れて、中身が溢れていた。制御できない。いつもなら自分の感情を解剖するように観察できる。心拍が上がっている、これは罪悪感だ、因果関係は明確だ——そういう分析ができるはずだった。今はできない。分析装置が追いつかない。言葉の方が速い。


 「拓也は正しかったのかもしれない。ログに書いてないことは人生じゃないと言った兄貴は、最後にログの外に出た。俺はログの中に残った。ログに書かれた通りの人間でいようとした。そしたらログが俺を殺人犯にした」


 乾いた笑いが出た。笑いというより、喉の奥から空気が漏れた音だった。


 「笑えるだろ」


 笑えなかった。


 沈黙が落ちた。地下通路の暗闇の中で、水滴が天井のパイプから落ちる音だけが響いた。瀬川は何も言わなかった。慰めも、分析も、質問もしなかった。ただ半歩後ろに立って、懐中電灯を前方に向けていた。


 どれくらい立ち止まっていただろう。三十秒か、一分か。足元の錆びたレールの上で、靴底が小さな音を立てた。


 「……歩こう」


 俺が言った。瀬川が「うん」と短く答えた。歩き出した。足音が二つ。さっきと同じ音。だが同じではなかった。胸の中の何かが、溢れた後の空洞になっていた。軽いのか重いのか、自分でも分からない。


 五十メートルほど歩いた時、瀬川が口を開いた。


 「私にも、ログに記録されない場所に消えた人がいる」


 声のトーンが変わっていた。いつもの一定したピッチではなく、少しだけ低い。技術の話でも、分析の話でもない声だった。


 それだけだった。それ以上は言わなかった。


 俺は振り返らなかった。暗闇の中で、瀬川の足音が一瞬だけ不規則になったのを聞いた。左手首の湿疹を掻いたのかもしれない。あるいは——ただの歩幅のずれかもしれない。分からない。ログには記録されない種類の情報だった。


 慰めではなかった。共感でもなかった。対等な傷の提示だった。お前だけじゃないと言いたいのではない。私にもある、とだけ言っている。それ以上でもそれ以下でもない。


 俺はその距離感に救われていた。


 通路が緩やかに曲がった。足元のレールが分岐している。矢印が右を指していた。


 右に曲がると、空気が変わった。湿度が下がり、かすかに——味噌汁の匂い。こんな地下で味噌汁の匂いがするはずがない。だが鼻が拾った。空腹が、匂いの感度を上げているのだろう。


 そして、光が見えた。


 通路の先、五十メートルほど向こうに、オレンジ色の明かりが漏れている。蛍光灯ではない。もっと温かい色。電球だろうか。明かりの中に、人影が動いた。


 人の声がした。低く、しわがれた声。何を言っているかは聞き取れない。だが確かに人の声だった。この地下に、人が住んでいる。


 瀬川が懐中電灯を消した。


 オレンジ色の光だけが、通路の先で揺れていた。

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