ログの外側
窓の外に配送ドローンが飛んでいた。
拘置所の面会室。白い壁。蛍光灯。机を挟んで椅子が二つ。窓は小さく、すりガラスの向こうに空が見えるだけだった。だがドローンの影だけは分かる。弁当箱大の四ローターが、規則正しい間隔で通り過ぎていく。世界は動いている。
逮捕から三日が経っていた。
ログ開示法違反。懲役十年以下。殺人の予防拘束は取り下げられた。行動誘導の証拠データが全国民に公開された後、予防拘束の法的根拠が崩壊した。国会が緊急招集されている。シビュラ運営委員会は調査委員会に格上げされ、委員長が辞任した。閣僚の記者会見が連日行われているらしい。
らしい。拘置所の中では、情報は断片的にしか入ってこない。端末の投影ディスプレイは拘置所内では機能制限されていて、外部の情報にはアクセスできない。弁護士——ログ弁護士の広告は、もう端末に表示されなかった——から聞いた話と、面会に来た人間から聞いた話だけが外の世界だった。
瀬川は別の施設にいる。ログ開示法違反の幇助。技術的証拠の不正取得。瀬川も逮捕されたが、行動誘導の内部告発者として、弁護団が既に動いているらしい。
戸田は渋谷で身柄を確保された後、年齢と健康状態を理由に取り調べが短縮されたと聞いた。弁護士が言うには、戸田の「ログ義務化反対キャンペーン」が十二年ぶりにニュースに取り上げられたらしい。それが戸田にとって良い知らせなのか悪い知らせなのかは、分からない。
俺は面会室の椅子に座って、窓の外を見ていた。
深爪は治りかけていた。爪が少しだけ伸びている。三日間の逃走で赤く剥がれた指先に、薄い皮膚が張り始めていた。左手首のログ端末は変わらずに信号を送り続けている。長さ三センチ、厚さ二ミリ。埋め込まれたまま。外すことはできない。
面会室のドアが開いた。
看守が入ってきて、椅子の横に立った。その後ろから——瀬川が入ってきた。
黒いタートルネック。ショートカットの左側が少し長い。右手で左手首を握っている。湿疹のある手首。
拘留中なのに面会が許可されたのか。弁護士の調整か。あるいは——別の理由か。
瀬川は椅子に座った。机を挟んで、俺を見た。
「ログ上は、私は面会に来たことになっている」
瀬川の声は静かだった。技術者の声でも、感情を切り上げる声でもなかった。
「ああ」
「でも、私がなぜ来たかは、記録されない」
「……分かってる」
「じゃあ聞かないでね」
俺は少し笑った。三日前にも、同じようなやりとりをした気がする。合流した夜。暗い地下通路で。「俺は情報源か。人間じゃなくて」——あの夜の瀬川は「今は情報源。人間かどうかはもう少しデータが揃ってから判断する」と答えた。
データは揃ったのだろうか。
聞かなかった。聞かないでね、と言われたから。
「外の様子は」
「混乱してる。でも——いい混乱」
「いい混乱」
「シビュラの行動誘導がニュースのトップ。国会で特別調査委員会が設置された。運営委員会は機能停止。プレクライム法の運用停止を求めるデモが——霞が関で」
「デモ」
「デモ。四千人くらい。端末を掲げて歩いてる。自分の端末に行動誘導の証拠データが入ってるから——全員が証拠を持ってる。消せない。一億二千万の証拠」
そうだ。それが狙いだった。サーバーの証拠を握るのではない。全国民の端末にコピーする。誰一人の端末を消しても、残りの一億一千九百九十九万九千九百九十九の端末にデータが残る。
「シビュラは」
「稼働中。ログの記録機能は動いてる。でも行動誘導モジュールは——」
瀬川が少し笑った。苦い笑い。
「B3の非公開セグメントが封鎖されたまま、調査委員会の管轄になったらしい。行動誘導モジュールは証拠保全の対象で、誰も触れない。三日間、誘導信号は一本も送信されていない」
あのサーバーラック。青いLEDが点滅していた箱。今は誰にも動かせない証拠品になっている。
「世の中は変わるのか」
「分からない。変わらないかもしれない。シビュラの行動誘導がなくなっても、ログ端末はまだ埋め込まれてる。ログの記録は続いてる。未来ログの日常予測は——犯罪予測じゃない部分は、普通の統計処理だから、動いてる。人々はまだ予測通りに朝起きて、予測通りに出勤してる」
「じゃあ何が変わった」
瀬川は考えた。右手が左手首の湿疹に触れかけて、止まった。
「人々が——知った。自分の端末に、嘘が混じっていた可能性があるということを。未来ログの予測を見た時に、『これは本当に予測なのか、それとも誘導なのか』と考える人が出てきた。少しだけ」
「少しだけ」
「少しだけで十分だよ。全員が疑わなくていい。千人に一人が、未来ログの表示を見て『本当か?』と思えば——それはシビュラにとって致命的なエラーになる。誘導は、対象者が『自分の意思で行動している』と信じている時にしか機能しない。疑った瞬間に、誘導は壊れる」
そうだ。0.03%。あの日、俺が予測を見て走り出したのは——走らされたのではなく、走ったのだ。走ることを選んだのだ。選択。ログに記録されない選択。
「戸田さんは」
「取り調べが終わって、身柄は保釈された。地下コミュニティの老人たちも。住居不定で保釈条件の設定が困難だとか——要は、もう追う意味がないと判断されたみたい」
「息子には会えたのか」
瀬川は少し間を置いた。
「分からない。戸田さんのログには——面会の記録はない」
面会の記録がない。ログに記録されない場所で、戸田と健一が会ったのか。それとも、まだ会えていないのか。
それは——分からなくていい。
「筧は」
「ログ公安主任捜査官は——職務中。調査委員会からの聴取に応じている、とだけ。それ以上は分からない」
筧俊哉。十分間。あの十分間の意味を、俺はまだ考えている。見逃したのか。見逃していないのか。判断を保留したのか。データを確認する時間が欲しかっただけか。
筧の答えは——筧の中にしかない。ログには記録されない。
「瀬川」
「うん」
「お前の湿疹——まだ治ってないな」
瀬川は左手首を見た。ログ端末の周囲の赤い湿疹。心因性のアレルギー。端末への無意識の拒絶反応。
「治らないよ。治す気もない」
「だろうな」
「これは私の体がシステムに出している抗議だから。——冗談だけど」
目は笑っていなかった。
面会時間が終わりに近づいていた。看守が壁の時計を確認した。
「もう一つだけ」
俺は言った。
「お前の母さんのこと」
瀬川の手が止まった。
「ログを全部読んだんだろう。三年分。二千万件」
「……読んだ」
「答えは見つかったか。なぜ死んだか」
長い沈黙。面会室の蛍光灯が微かにちらついた。
「見つかってない」
「そうか」
「見つからない。ログに記録されてないから。——でも」
瀬川は目を伏せた。左側の長い髪が頬にかかった。母がいつも撫でていた側。
「母が小石川植物園で紙の本を読んでいたこと。手帳に担当の高齢者の好きな花を書いていたこと。あの頃のログには記録されてない行動が——たくさんあったこと。それだけは覚えてる。答えじゃないけど」
「それで十分だ」
瀬川は俺を見た。目が——少しだけ、柔らかかった。
「……まあいいけど」
看守が促した。面会時間の終了。
瀬川が立ち上がった。椅子を引く音がした。
「霧島さん」
「ああ」
「また来る。ログに記録される」
「ああ」
「なぜ来るかは、記録されない」
「分かってる」
瀬川がドアに向かった。ドアの前で一瞬だけ振り返った。何かを言いかけて——言わなかった。ドアが閉まった。
俺は一人になった。
面会室。白い壁。蛍光灯。小さな窓。すりガラスの向こうに、配送ドローンの影が通り過ぎた。
左手首のログ端末が、俺の心拍数を記録している。バイタルデータ。位置情報。行動分類。この瞬間も、ログクラウドにデータが送信され続けている。俺が面会室で座っていたこと。心拍数が平均値だったこと。体温が三十六度四分だったこと。
それだけだ。
瀬川がなぜ来たか。俺がなぜ笑ったか。面会室の蛍光灯がちらついた時に何を思ったか。窓の外のドローンを見て何を感じたか。
記録されない。
拓也。
お前は言った。八年前に。部屋の壁にログ記録を貼り詰めた部屋で。起床時刻、歩数、心拍数、食事の記録。あの壁の前で、お前は言った。
「ログに書いてないことは、俺の人生じゃない」
八年かかった。八年と、七十二時間。
返事をする。
逆だよ、拓也。ログに書いてないことだけが、俺の人生だ。
窓の外で、配送ドローンが通り過ぎた。世界は回り続けている。ログ端末は埋め込まれたまま。シビュラはまだ稼働している。プレクライム法がどうなるかは分からない。俺がいつ出られるかも分からない。
でも——五分間だけ、この国はログのない空を見た。
それで十分だ。
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