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5分間の自由

街が止まっていた。


 本庁舎の裏手から大通りに出た。午後十一時過ぎの霞が関。官庁街はもともと人通りが少ない時間帯だが——それとは違う静けさだった。


 街路灯のナトリウム灯はまだ点いている。電気系統はログ端末とは別の制御だ。だが街路灯の根元の環境センサーノードの赤い点滅が、全て消えている。歩道の向こうで、一台の自動運転タクシーが路肩に停まっていた。ハザードランプを点滅させている。ログ端末の認証システムが停止したことで、運行制御ネットワークが安全モードに入ったのだろう。


 空を見上げた。


 配送ドローンが低空でホバリングしていた。三機。翼を広げたまま、同じ場所で浮いている。飛行指示を送信するログネットワークが途絶したため、最後に受信した座標で待機している。


 大通りの向こうで、一人のサラリーマンが立ち止まっていた。手首を見ている。投影ディスプレイが消えた自分の手首を。もう片方の手でログ端末の位置をタップしている。反応がない。何度もタップしている。


「……瀬川。これが」


「うん」


 瀬川が隣に立った。同じものを見ていた。


「五分間の全国民ブランク」


 全ログ端末が停止している。一億二千万の投影ディスプレイが消えている。未来ログの予測が表示されない。行動分類も、位置情報も、バイタルデータも——何も記録されていない。


 五分間。


 俺のブランクはすでに終わっていた。起動から一分三十秒。サーバールームを出た時に、端末の送信ランプが点灯した。投影ディスプレイが復帰した。俺の端末だけが、先にログ社会に戻っていた。


 だが全国民のブランクは、俺のトリガーとは独立して動いている。配信されたコードが各端末で実行されている。あと——三分ほど。


 大通りを歩いた。霞が関から桜田門の方向。国会議事堂のシルエットが夜空に見えた。


 交差点で、数人の人間が集まっていた。スーツ姿。官僚か、議員秘書か。手首を見ている人。空を見上げている人。一人が携帯端末——ログ端末とは別の旧式のデバイスで、誰かに電話をしている。


「何が起きたんだ」「端末が動かない」「ニュースは」「ニュースも止まっている」


 会話が聞こえた。パニックというほどではない。戸惑い。不安。だが——ほんの少し、違うものが混じっていた。好奇心、かもしれない。あるいは——解放感。端末が振動しない。通知が来ない。未来ログの予測が更新されない。予定通りに動かなくていい。予定が消えたのだから。


 交差点の信号は動いていた。信号機の制御はログネットワークとは独立している。赤と青が規則正しく切り替わっている。だが横断歩道を渡る人間が、信号を見ていなかった。手首を見ている。端末が沈黙した手首を。十二年間、一度も止まったことのないデバイスが、止まっている。


 一人の女性が、空を見上げていた。ドローンが停止した空。街路灯のオレンジ色の光と、その向こうの暗い夜空。星が見えた。東京で星が見えることは稀だ。大気汚染ではなく、街のLED照明が強すぎるから。だが今夜は——ドローンの航行灯が消え、ビルの投影広告が消え、環境ノードのインジケーターが消えたことで、空が少しだけ暗くなっていた。


 女性が星を見ていた。ログ端末が記録しない行動。空を見上げるという行動は「移動」にも「食事」にも「睡眠」にも分類されない。未来ログが予測しない行動。


 三日前の朝、俺は予測通りの生活を送っていた。パーカーを着て、朝食パックを食べ、品川駅の改札を通った。全てがログ通りだった。


 今、この街は五分間だけ、ログ以前に戻っている。


 予測がない。記録がない。行動分類がない。人々は——自分が何をしているか、自分でしか知らない。


「ねえ」


 瀬川が言った。声が柔らかかった。技術者の声ではなかった。


「あの人、犬を撫でてる」


 通りの向こうの歩道で、中年の男が膝をつき、配送ロボットの頭部を撫でていた。クーラーボックス型の六輪ロボット。配送制御が停止してその場に止まっている。犬ではない。犬型ですらない。だが男は膝をつき、ロボットの丸い頭部を手のひらで撫でていた。


 人間は、記録されない場所で奇妙なことをする。ログに「配送ロボットの頭部を撫でる」という行動分類はない。ログスコアにも反映されない。だからこそ——この五分間でしかできない行動だ。


 歩道の反対側では、若いカップルが手を繋いで立っていた。端末を見ていない。互いの顔を見ている。対人接触としてログに記録されない種類の接触。手を繋ぐ理由は記録されない。


 母のことを思い出した。瀬川の母ではなく——俺の母。拓也が壊れる前の、もっと前の記憶。母が台所で歌を歌っていた。下手な歌。音程が外れていた。ログに記録されない音程の外れ方。あれは記録に残らない時間だった。母も、俺も、拓也も、まだログ端末を埋め込まれていなかった頃の。


 兄の言葉が浮かんだ。


「ログに書いてないことは、俺の人生じゃない」


 拓也。お前は間違っていた。


 ログに書いてないことが——人生だ。


 四分が経過した。あと一分。


 交差点の向こうで、サイレンが鳴り始めた。消防車か救急車。ログ端末の停止による緊急通報システムの障害だろう。インフラの一部に混乱が出ている。バイタルモニターが途絶した高齢者施設からの自動通報。交通制御ネットワークの安全停止。


 五分間のブランクは、世界を変えるには短すぎる。人々が「ログのない生活」に適応するには、五分では足りない。明日になれば端末は復旧し、未来ログは再び予測を表示し、環境ノードは赤い光を点滅させ、ドローンは配送を再開する。


 世界は五分では変わらない。


 だが——。


 五分後に、全国民の端末に表示されるのは、行動誘導の証拠データだ。シビュラが市民の行動を操作していた記録。予防拘束のために犯罪を誘発していた記録。口封じのために端末で殺害していた記録。


 データは消せない。全端末に配信済みだ。サーバーのオリジナルを消しても、一億二千万のコピーは残る。


 五分間のブランクが意味を持つのは、この五分間が終わった後だ。


 五分。


 投影ディスプレイが——一斉に復帰した。


 街中の手首に、青白い光が灯った。環境センサーノードの赤い点滅が戻った。配送ドローンのローターが回転数を上げ、飛行を再開した。自動運転タクシーのハザードランプが消え、エンジンが静かに動き出した。


 世界がログ社会に戻った。


 だが——投影ディスプレイに表示されたのは、いつもの未来ログではなかった。


 俺の端末にも表示されている。全国民の端末に同時に表示されている。


 行動誘導プログラムの概要。対象者リスト。誘導パラメータ。送信記録。殺傷信号の実行ログ。技術仕様。ソースコード。


 人々が手首を見ている。交差点に立っていた官僚たちが、投影ディスプレイに流れるデータを読んでいる。一人が「何だこれは」と呟いた。もう一人が「シビュラ」と呟いた。


 終わった。


 俺は空を見上げた。ドローンが飛んでいる。星は見えなくなった。照明が戻った。世界は五分前とほとんど同じだ。


 ほとんど。


「行こう」


 瀬川が言った。右手が左手首を握っていた。湿疹のある手首。


「どこに」


「どこでも。もう——走る必要はない」


 そうだ。走る必要はない。


 三日間走り続けた。品川駅のホームから立ち上がった瞬間から、六十六時間。大通りを走り、裏路地に逃げ込み、廃ビルの地下でうずくまり、地下鉄のトンネルを歩き、ブランクを起動し、真帆と合流し、戸田と出会い、23件の記録を読み、端末の殺傷能力を知り、暗闇の中で手に血が付き、作戦を立て、陽動を見送り、本庁舎に侵入し、巡回犬を止め、サーバーに接続し、筧と対峙した。


 殺人予測の期限はもうすぐだ。だが行動誘導の証拠が全国民に公開された今、その予測に意味はない。99.97%は誘導成功率だった。誘導が暴露された以上、成功率の意味が消える。


 俺はまだ逃走犯だ。ログ開示法違反の現行犯。それは変わらない。


 でも——走る必要はなくなった。足を止めても、もうベンチで膝が折れていたあの朝には戻らない。


 大通りの向こうから、パトカーのサイレンが近づいてきた。


 俺は立ち止まった。瀬川も立ち止まった。


「瀬川」


「うん」


「ありがとう」


 瀬川は俺を見た。非対称のショートカット。左側が少し長い。鋭い目つき。だがその目が、少しだけ——笑っていた。


「……まあいいけど」


 口癖。感情を切り上げる時の。


 パトカーが近づいてきた。赤い回転灯。サイレンの音。


 俺は両手を上げなかった。ただ立っていた。深爪の指先。三日間のパーカー。左手首のログ端末が、再び信号を送り続けている。


 霧島遼一。二十八歳。SE。ログスコア下位三十パーセント。殺人予測99.97%。ログ開示法違反。逃走犯。


 ログに記録されるのは、それだけだ。


 記録されないことの方が——ずっと多い。

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