10分
階段から降りてきた足音は三人分だった。革靴。制服の靴。そして——もう一つ、柔らかい靴底の足音。
B3のドアが開いた。公安の制服を着た二人が通路に入ってきた。その後ろに、スーツの男が一人。年配の、厚い眼鏡をかけた男。筧や藤原とは異なる——行政官の雰囲気を持った人物だった。
「筧主任」
先頭の制服が声を上げた。
「上層部からの指示です。霧島遼一および瀬川真帆を即時確保。B3の全サーバーに保全措置を行い、直近のアクセスログおよび送信記録を全消去」
全消去。
また同じ指示だ。データを消せ。証拠を消せ。記録に残さない形で記録を消す。
筧は動かなかった。
通路の真ん中に立ったまま、二十メートル先の俺たちと、背後の制服の間に挟まれていた。
藤原が一歩前に出た。「主任——」
「十分待て」
筧の声が響いた。サーバールームの冷気の中で、声だけが硬く通った。
「主任。上からの直接指示です。即時——」
「十分だ」
筧が振り返った。制服の二人と、行政官の男を見た。
「十分間、このフロアに誰も入れるな。私が状況を確認する。十分後に報告する」
「筧主任。それは命令違反に——」
「では命令違反として記録してください」
筧の声に感情はなかった。丁寧語。距離のある冷たさ。だがその奥に、何か別のものが混じっていた。
行政官の男が一歩前に出た。
「筧主任。運営委員会からの指示には、法的拘束力があります」
「承知しています。十分だけ時間をください」
「なぜ十分なのですか」
筧は答えなかった。
沈黙。冷却ファンの音。サーバーラックのLEDの点滅。
行政官は眼鏡の奥の目で筧を見ていた。何かを計算している目。この指示は文書化されていない。口頭のみ。主任捜査官が現場で拒否している状況で、自分が証拠消去を実行すれば——後日問題になった時、記録に残っているのは実行した人間だけだ。命じた人間の名前はどこにもない。
行政官は——退いた。
「十分です。それ以上は保証できません」
制服の二人と行政官がB3のドアの向こうに消えた。ドアが閉まった。
サーバールームに残ったのは、筧と藤原と、俺と瀬川の四人だった。
筧が踵を返した。
俺たちに背を向けた。
そして——歩き始めた。非公開セグメントの方向ではない。メインフロアの反対側。B3の奥にある緊急用通路の方向に、筧は歩いていった。
「藤原」
「はい」
「十分だ」
藤原は立っていた。筧の背中を見ていた。そして——俺たちを見た。若い捜査官の目。何かを理解し、何かを理解しないことを選んだ目。
藤原は筧の後を追った。二人の足音がサーバーラックの間に消えていった。革靴の音。二つ分。
十分。
筧の革靴の音が遠ざかっていく。一歩。また一歩。サーバーラックの列の間を、正確な足取りで。最後まで振り返らなかった。
筧が何を考えていたのか、俺には分からない。
筧が俺を見逃したのか、それとも十分後に確保するつもりで立ち去ったのか。サーバーのデータを自分で確認してから判断しようとしたのか。行政官の前で手を下せなかっただけなのか。それとも——記録されなかったことの方が大事だという言葉が、あの男の中の何かに触れたのか。
分からない。ログに記録されない判断だ。筧の端末は「B3フロアから移動」と記録するだろう。だがなぜ移動したかは記録されない。
分からないまま——十分がある。
この十分間が、筧が俺に与えたものなのか、それとも筧自身が必要としたものなのか。それも分からない。
「瀬川」
「……分かってる」
瀬川が立ち上がった。サーバーのコンソールに向かった。
「全端末への送信は完了してる。でもブランクの起動トリガーがまだ。さっきの中断で、トリガーのシグナルが送信されてない」
俺のブランク。さっき起動��かけた。だが筧が現れて——コマンドシーケンスの入力が完了する前に中断された。投影ディスプレイにノイズが走った時点で止まっている。
「ケーブルはまだ繋がってる」
左手首を見た。ケーブルが端末からサーバーに伸びている。接続は維持されていた。
「やり直す。ブランクを起動して、同時にトリガーシグナルを送信する」
瀬川が頷いた。目が真っ直ぐだった。
「ルーターの電源——藤原が差し直してた。ネットワークは復帰してる。直通パスが使える」
直通パス。行動誘導に使われていた経路。全端末に直接届く。
「十分のうち、何分使える」
「あと七分くらい。トリガーの送信自体は数秒。でもブランクの起動コマンドを再入力する時間がいる」
俺はデバッグメニューを開いた。五度目。三日間で五度目のブランク起動画面。緑色の文字が投影に浮かんだ。一度目は廃ビルの地下で巡回犬から逃げるため。二度目は真帆のクエリを守るため。三度目は公共端末にアクセスするため。四度目はこのサーバールームでトリガーを引くため——中断された。五度目。最後。
コマンドシーケンス。三つのコマンド。指先が覚えている。深爪の指先が、投影ディスプレイの青白い光の中で動く。爪の先がまだ赤い。三日間分の傷跡。
一つ目のコマンド。投影面にカーソルが動いた。
二つ目のコマンド。パラメータの入力。
「瀬川。トリガーの準備は」
「できてる。あなたのブランク起動シグナルを検知した瞬間に、全端末にブランクコードの実行命令を同時送信する。タイムラグは一秒以下」
一秒以下。
俺のブランクが起動した瞬間に、一億二千万の端末に信号が飛ぶ。五分間の全国民ブランク。全てのログ端末が停止する。全ての投影ディスプレイが消える。全ての未来ログが消える。
五分だけ。五分だけ、この国は「ログ以前」に戻る。
そして五分後にログが復帰した時、全員の端末にシビュラの行動誘導の証拠データが表示される。
「——行くよ」
三つ目のコマンド。
投影ディスプレイにノイズが走った。
起動。
ログ端末が沈黙した。投影が消えた。送信ランプが消えた。左手首の小さなカプセルが、静かになった。
同時に——瀬川がサーバーのコンソールを叩いた。トリガーシグナルの送信。直通パスを通って。全ログ端末に向けて。
「送信——完了」
瀬川の声がした。暗がりの中で。投影ディスプレイが消えたサーバールームは、天井の蛍光灯とサーバーラックの青いLEDだけが光源だった。
俺のブランクの持続時間は分からない。この前の三分八秒から更に短縮されているはずだ。二分か。一分半か。
だが——もう関係ない。
トリガーは引いた。全端末にブランクコードが配信された。各端末が独立して五分間動作する。俺の端末が何分で復帰しようと、全国民のブランクは五分間続く。
俺はケーブルを端末から引き抜いた。コネクタが外れた。左手首の診断ポートの蓋を指で押し込んだ。閉じた。
「行こう」
瀬川がサーバーの電源を落としていた。コンソールの画面が暗くなった。証拠データのオリジナルはもうサーバーにある。誰が消そうと、全国民の端末に送信されたコピーは消せない。
俺たちはB3のメインフロアに出た。階段室の方には行けない。筧がいるかもしれない。十分の時間が残っていても、制服が待ち構えている可能性がある。
「別の出口は」
「緊急用通路がある。B3の西端。非常階段で地上に出られる」
瀬川が先に歩いた。サーバーラックの間を抜ける。冷気。青いLEDの点滅。蛍光灯の白い光。
西端の緊急扉を開けた。非常階段。コンクリートの壁。足元に非常灯の緑の光。
階段を駆け上がった。B2。B1。地上一階。
裏手の通用口から夜の霞が関に出た。四月の夜風が頬に当たった。コンクリートと排気の匂い。三日ぶりの外気ではない——今日の夕方にもここに来た。だが今の空気は違う。何かが変わっている。
街路灯のナトリウム灯がオレンジ色の光を落としている。その根元の環境センサーノードの赤い点滅が——消えていた。
消えていた。
俺は立ち止まった。瀬川も立ち止まった。
環境センサーノードの光が消えている。ログ端末からの信号を受信する機能が停止している。全国民のログ端末が沈黙したことで、環境センサーネットワークの個人照合機能が無効化されている。
人がいることは検知できる。だが誰がいるかは分からない。
通りの向こうで、一台の自動運転タクシーがハザードランプを点滅させながら路肩に停まっていた。運行制御ネットワークのログ認証が途絶して、安全モードに入ったのだろう。頭上には配送ドローンが一機、低空で静止している。翼を広げたまま、同じ座標でホバリング。指示を待っている。指示は来ない。
五分間。
街が——静かだった。三日前の朝、品川駅のホームで殺人予測を見た時とは別の種類の静けさだった。あの時の静けさは孤立だった。今の静けさは——もっと大きい。一億二千万人が同時に沈黙している。




