表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

29/32

対峙

筧俊哉が、二十メートル先に立っていた。


 サーバーラックの列に挟まれた通路。白い蛍光灯。冷却ファンの低い唸り。十八度の空気が肌に刺さっている。三日間着続けたパーカーは薄汚れていて、左手首から垂れ下がったケーブルの先端が、さっきまでサーバーに接続されていた名残を晒していた。


 筧の右手が腰のホルスターに触れている。銃。


 隣の瀬川が呼吸を止めた。右手が左手首を握りしめている。


 俺は筧を見た。ダークグレーのスーツ。猫背気味の長身。端正だが血色の悪い顔。左手の薬指に結婚指輪。靴だけが異様に手入れされている。ダークブラウンの革靴が、帯電防止タイルの上で蛍光灯の光を返していた。


 三日間、この男に追われていた。ログ公安主任捜査官。妻と三歳の娘を通り魔に殺された男。87.2%。


 戸田のメモ帳で顔と名前は知っていた。ログ公安主任捜査官、筧俊哉。三日間俺を追い続けた男。ドローンを配置し、巡回犬を投入し、環境ノードの監視態勢を敷いた男。データだけを見る男。その男が、今、俺の前に立っている。


 二十メートル。サーバーラックの間の通路。逃げ場はない。俺の後ろには非公開セグメントの壁がある。横に逸れても、ラックの列が壁のように並んでいる。


 俺は声を出した。


「話があります」


 筧は動かなかった。右手はホルスターの上。左手の親指が、結婚指輪をゆっくり回していた。


 筧の斜め後ろに、若い捜査官が立っている。藤原——部下だろう。端末を握ったまま固まっていた。


「話」


 筧の声が返ってきた。低い。丁寧だが、距離のある声。


「逃走犯に話を聞く義務は、私にはありません」


「義務じゃない。でもあなたは聞くべきだ」


 筧の目が細くなった。沈黙。冷却ファンの音だけが通路に響いている。


「——三十秒」


 筧は言った。


「三十秒で話しなさい。それが終わったら、あなたを確保します」


 三十秒。足りない。だが始めるには十分だ。


 背後で、瀬川がサーバーのコンソールに向き直る気配がした。データ転送を続けている。作業を止めていない。俺が時間を稼ぐ。瀬川が作業を完了させる。言葉で取り決めたわけではない。だが三日間走ってきた二人の間には、言葉にならない手順が組み上がっていた。


「未来ログは予測じゃない」


 筧の左手が止まった。指輪を回す動きが止まった。


「犯罪に関わる未来ログの予測は、シビュラによる行動誘導です。ログ端末を通じて対象者の迷走神経に微弱電気刺激を与え、不安や怒りを増幅させる。同時に未来ログの表示を操作して、対象者が『自発的に』特定の行動を取るよう心理的に誘導する。99.97%は予測精度じゃない。誘導成功率です」


 筧は何も言わなかった。表情が変わらなかった。だが——指輪を回す手が動かないままだった。


「証拠はすでにここのサーバーから抽出して、全国民の端末に送信しました。止められません」


「……それが本当かどうかは、データを確認すれば分かります」


「確認してください。このサーバーに全部ある」


 三十秒が過ぎていた。筧は銃を抜かなかった。


 沈黙が続いた。五秒。十秒。冷却ファンの音。サーバーラックの青いLEDが規則正しく点滅している。


「仮に——」


 筧の声が変わっていた。丁寧語の奥に、何かが揺れていた。


「仮にあなたの言うことが事実だとして。行動誘導が存在するとして。それが何を意味するか、あなたは分かって言っていますか」


「分かっています」


「分かっていない」


 筧の声が硬くなった。だ・である調が一瞬だけ顔を出した。


「分かっていない。あなたが言っているのは——ログ端末に表示される犯罪予測が、予測ではなく命令だったということだ。つまり、予防拘束で拘束された全ての人間は、シビュラに犯罪を誘発された被害者だということだ。つまり——」


 筧が一歩前に出た。革靴がタイルに当たる音。


「つまり、七年前に妻と娘を殺した男も——誘導されていた可能性があるということだ」


 サーバールームの温度が変わったわけではない。だが空気が変わった。筧の周囲の空気だけが。


「87.2%」


 筧が呟いた。独り言のように。


「あの男の予測確率は87.2%だった。閾値は90%。2.8%足りなかった。私は七年間——あの2.8%を抱えて生きてきた。閾値が85%だったら。80%だったら。もっと早く拘束していれば、沙織と結は——」


 筧の声が止まった。


 俺は待った。何も言わなかった。待つことしかできなかった。


 サーバールームの冷気が肌を刺している。パーカーの薄い布地では防げない寒さだ。三日間の汗と汚れが染みついた布地。左手首のケーブルの先端が、床のタイルに触れて微かな音を立てた。


 筧の呼吸が聞こえた。浅い呼吸。だが手は震えていなかった。筧は視線を一瞬だけ足元に落とした。靴を見ている。磨き上げた革靴を。それが何の仕草なのか——俺には分からなかった。だが、データを見る人間の動きではなかった。


「あなたの言うことが正しいなら」


 筧が言った。目が俺を見ている。暗い目だった。疲弊した目。だが——奥の方で何かが燃えていた。怒りか。絶望か。


「閾値が何パーセントだろうと関係ない。犯人自体がシビュラに製造されていたなら——あの男は道具だ。シビュラの道具だ。そして私がこの七年間信じてきたこと——妻と娘の死を防げなかった悔しさでプレクライム法を推し進めてきた——全てが、茶番だ」


「茶番じゃない」


 俺は言った。声が掠れていた。三日分の疲労が喉に溜まっている。


「あなたが守りたかったものは本物だ」


 筧の目が俺を射た。


「ただ、守り方が間違っていた。守り方を間違えさせられていた」


 筧は黙った。長い沈黙。十秒。二十秒。冷却ファンの音。サーバーラックのLEDの点滅。


「……簡単に言う」


「簡単じゃないことは分かってる」


「分かっていない。あなたは二十八歳で、独身で、失ったものは兄一人だ。私は——」


 筧の声が途切れた。


 兄一人。


 そうだ。俺が失ったのは兄一人だ。兄一人と、八年間の沈黙と、予測通りに生きることでしか自分を保てなかった臆病な日々。筧が失ったのは妻と三歳の娘と、七年間の信仰と、自分自身の正気の根拠だ。


 比べる意味はない。痛みに優劣をつけることは、ログが感情を記録できないのと同じ理由で不可能だ。数値化できないものは比較できない。でも——。


 拓也の部屋を思い出した。壁一面のログ記録。あの部屋と、筧の官舎のどこかにあるだろう子供部屋は——たぶん、同じ種類の部屋だ。もういない人間のために維持されている部屋。


「あなたの娘さんのことは、ログに何て記録されていますか」


 筧の全身が強張った。


「名前と年齢と死因。それだけでしょう。筧結、三歳、刺傷による失血死。ログに記録されているのはそれだけだ」


 筧は答えなかった。指輪を回す手が、かすかに震えていた。


「でもあなたは覚えている。記録されなかったことを全部覚えている」


 俺は一歩前に出た。


「娘さんの笑い方。好きだった食べ物。好きだった色。——ログに記録されていない部分の方が、ずっと多いはずだ。あなたが覚えていることの方が、ログより多いはずだ」


 筧の目が揺れた。


 俺は筧の私生活を知らない。だが分かることがある。七年間、妻と娘を失った人間が何を抱えているか。ログに残る部分だけでは、到底足りないということ。


「記録されなかったことの方が——大事なはずだ」


 サーバールームが静まり返った。冷却ファンの音すら遠くなった気がした。


 筧の銃はホルスターの中にあった。抜かれていなかった。


 筧の目から何かが消えた。怒りでも、絶望でもない。七年間、自分を支えてきた何かの構造が、目の奥で音もなく崩れていく。


 87.2%。


 その数字は、筧を動かしてきた燃料だった。システムが完璧であるという信仰。システムが完璧であれば、妻と娘の死は「防げたはずの事故」として意味を持つ。システムに欠陥があるなら、二人の死はただの不運で、誰のせいでもなくなる。


 だがシステムに欠陥があるどころか——システム自体が殺人を製造していたなら。


 筧は銃を抜かなかった。


 撃たなかった。


 だが——下ろしもしなかった。右手はまだホルスターの上にあった。筧俊哉という人間は、その場所で止まっていた。撃つことも、下ろすことも、どちらも選べない場所。データが答えを出せない領域。七年間「データを見ましょう」で封印してきた感情が、データの答えを上書きしている。


 背後で瀬川が立ち上がる気配がした。コンソールから離れた。作業が終わったのか。


 同時に、階段室のドアが開く音がした。複数の足音。革靴。


 藤原が振り向いた。


「主任——上から増援が」


 筧は振り向かなかった。俺を見ていた。


「霧島遼一」


 筧が言った。フルネーム。声が平らだった。感情を載せることを拒否した声。


「あなたが送信したデータが本物かどうか、私が確認します。だが、あなたは逃走犯です。ログ開示法違反の現行犯です。その事実は、あなたの話が正しかろうと正しくなかろうと、変わらない」


「分かっています」


「瀬川真帆も同様です」


「分かっています」


 隣の瀬川が、何かを言いかけて、やめた。


 筧は俺から視線を外した。藤原を見た。


「藤原」


「はい」


「——十分待て」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ