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子供部屋のピンクの壁紙

筧俊哉は、渋谷の喧騒を背にして車に乗り込んだ。


 公安車両のドアが閉まると、外の音が遮断された。ドローンのローター音。巡回犬のモーター音。老人たちを取り囲む公安職員の声。全てが分厚いガラスの向こうに遠ざかった。


 助手席に藤原が滑り込んだ。


「主任。渋谷の確保対象は十六名。全員がオフログ世代で、死亡推定されていた市民です。身元照合中ですが——」


「陽動です」


 筧は後部座席で言った。声に感情はなかった。


「霧島遼一が仕掛けた。目的は人員の分散。本命は別の場所にある」


 藤原が振り向いた。若い目が筧を見ている。


「本命——ですか」


「霧島遼一は末端のSEです。ログクラウド第三層の保守を担当していた。彼が逃走の中で接触した協力者は、上流設計エンジニアの瀬川真帆。彼女が持つ知識で到達可能な場所で、かつ物理的なアクセスが必要な場所はどこですか」


 藤原は数秒考え、顔色が変わった。


「ログ管理局——本庁舎」


「B3の非公開セグメント。シビュラの物理モジュール」


 筧は車載端末に行き先を入力した。霞が関。ログ管理局本庁舎。


 車が発進した。夜の首都高に合流する。渋谷の灯りが後方に流れた。


 藤原が端末を操作し、本庁舎の警備状況を呼び出していた。筧はそれを見なかった。窓の外を見ていた。高速道路のナトリウム灯がオレンジ色の光を一定間隔で車内に落としている。光。影。光。影。


 87.2。


 ナトリウム灯の点滅と一緒に、その数字が浮かんだ。


「主任」


 藤原の声で、筧の視線が窓から戻った。


「一つ、報告があります。あの件——端末データの全消去指示のソースについて、追跡結果が出ました」


 筧は動かなかった。結婚指輪を、左手の親指が回していた。


「シビュラ運営委員会ではありませんでした」


 藤原の声が低くなった。車内の空気が変わった。


「指示のソースは——シビュラ本体です。委員会を経由していない。運営委員のアカウントで発行されていましたが、承認ログには委員のバイオメトリクス認証がない。つまり、委員長の名義を借りた自動生成指示です。人間が承認していない」


 筧の手が止まった。


 指輪を回す手が止まった。


 シビュラが。人間の承認なしに。捜査に直接介入している。


 データを消せと。証拠を消せと。人間のふりをして、命令を出した。


 車が首都高の合流で揺れた。筧の体が慣性で左に傾いた。体が戻った。


「……いつからですか」


「確認できた範囲では、一昨日の深夜から。霧島遼一に殺人予測が出た直後です」


 一昨日の午前三時。霧島が予測に気づく四時間以上前に、シビュラはすでに動いていた。


 筧は目を閉じた。


 暗闇の中に、色が見えた。ピンクの壁紙。官舎の二部屋目。結が使うはずだった部屋。沙織が選んだ色。家具はない。ベッドもおもちゃもない。壁紙だけが、ここが子供部屋であるべきだったことを記憶している。


 靴箱の上の赤い靴。右足だけ。左足は七年間見つかっていない。


 87.2%。


 あと2.8%で予防拘束の対象になっていた。あと2.8%で、沙織と結は——。


 だがその87.2%は、本当に「データが足りなかった」結果だったのか。


 筧は目を開けた。


「藤原」


「はい」


「一つ聞いていいですか」


 藤原は黙って待った。助手席の背もたれ越しに、筧の声を聞いている。


「シビュラが間違えることは——あると思いますか」


 車内が静かになった。エンジンの音と、高速道路のタイヤノイズだけが低く響いている。


 藤原は長い沈黙の後、答えた。


「データ上は99.97%です」


 間。


「しかし——0.03%は、ゼロではありません」


 筧は何も言わなかった。


 0.03%。


 霧島遼一に表示された殺人予測の確率。それが予測精度ではなく誘導成功率だという可能性を、筧はまだ知らない。だが——何かが違うと、筧の中の何かが告げていた。データではない部分が。七年間封印してきた直感が。


 車が首都高を降りた。霞が関のランプ。官庁街の灯りが近づいてくる。


「主任」


「何ですか」


「本庁舎に到着した後——どうされるつもりですか」


 筧は答えなかった。左手の薬指の指輪が、ナトリウム灯の残光を一瞬だけ反射した。


 車が大通りに出た。前方にログ管理局本庁舎のシルエットが見えた。七階建て。屋上のパラボラアンテナが夜空に突き出ている。一階のロビーに灯りが見えた。


「藤原。本庁舎のB3フロアに、現在何名の人員がいますか」


「夜間は無人のはずです。サーバー監視は自動化されていますので。ただし地下の巡回犬は二台がパトロール中です」


「二台」


 筧は靴を見た。磨き上げたダークブラウンの革靴。毎晩二十分かけて手入れしている靴。結の赤い靴は磨けない。磨けば、汚れと一緒に何かが消えてしまう。


 車が本庁舎の前に停車した。


 筧はドアを開けた。夜気が車内に流れ込んだ。四月の夜。コンクリートと排気の匂い。環境センサーノードの赤い点滅が、街路灯の根元で規則正しく光っている。


「藤原」


「はい」


「上からの指示が来たら——」


 筧は振り返らずに言った。


「正確に伝えてください。私は本庁舎のB3フロアを確認しに行くと」


「主任。待ってください」


 藤原が車から降りた。革靴がアスファルトに当たる音。若い捜査官の足音。


「一緒に行きます」


 筧は一瞬だけ、藤原を見た。端末の投影に照らされた若い顔。まだ何も失っていない目。データを信じることに迷いのなかった——いや。この三日間で、藤原の目にも何かが変わっている。


「来なさい」


 筧は本庁舎の正面玄関に向かって歩き始めた。端末をセキュリティゲートにかざした。認証が通った。エントランスのガラスドアが開いた。


 夜間の受付には警備員が一人。筧のIDを確認し、敬礼した。


「筧主任。こちらの時間帯は——」


「シビュラ運営委員会の緊急指示で、B3フロアの現場確認を行います」


 嘘だった。そんな指示は出ていない。だが筧の肩書きとIDは、夜間警備員の確認を通過するのに十分だった。


「了解しました。エレベーターは——」


「階段を使います」


 筧は受付を通り過ぎた。藤原が後ろについた。


 階段室のドアを開けた。コンクリートの壁。蛍光灯の白い光。筧の革靴が踊り場の金属に当たる音が、階段室に反響した。


 B1。サーバー冷却システムの振動が壁を伝っている。


 B2。通路の先に、巡回犬の姿がなかった。パトロール中であれば、この時間帯にB2を巡回しているはずだ。


「巡回犬が——いません」


 藤原が言った。端末でB2の巡回ステータスを確認している。


「K-9-0047。ステータス:メンテナンスモード。午後八時三十七分に移行」


 メンテナンスモード。夜間のこの時間帯に、保守作業のスケジュールはない。


 誰かが巡回犬を止めた。


 筧の足が速くなった。B3への階段を降りる。革靴の音が硬く響いた。


 B3のドアの前に立った。端末認証パネル。筧が端末をかざした。認証が通った。筧の権限はB3エリア全域にアクセスできる。


 ドアを開けた。


 冷気が流れ出した。サーバールームの空調。十八度。帯電防止タイルの床。左右にサーバーラックが並んでいる。緑色のLEDが点滅している。冷却ファンの低い唸り。


 右手のラック列。非公開セグメントへの通路。


 筧は歩いた。ラックの間を進む。革靴の音がタイルに反響している。藤原がついてくる。


 通路の奥に鉄製のドアがあった。端末認証パネルの横に、小さな緑のランプが点いていた。ロック解除状態。


 このドアは、本来ロックされているはずだ。


 筧はドアノブに手をかけた。


 開いた。


 非公開セグメント。中央に大型のサーバーラック。青いLEDが点滅している。ラックの前の作業台に、紙の束が散らばっていた。手書きのフロア図。メモ。ケーブルが一本、ラックの側面からぶら下がっている。先端のコネクタが空気に晒されている。


 人の気配はなかった。


 だが、つい先ほどまで——誰かがここにいた。


 筧はラックの下段を見た。ネットワークスイッチの隣のルーター。電源ケーブルが抜かれていた。物理的な切断。


 「データを見ましょう」


 筧は呟いた。誰に言ったのか分からなかった。自分自身に。あるいは——もういない二人に。


 藤原がルーターの電源ケーブルを差し直した。ネットワークが復帰した。ラック上段のステータスLEDが一斉に点滅を始めた。


 筧はサーバーのコンソールを操作した。直近のアクセスログを表示させた。


 画面にデータが流れた。


 アクセス元:端末ID——瀬川真帆。


 操作内容:行動誘導送信記録の抽出。証拠データのパッケージング。全端末配信用ペイロードの生成。


 送信先:全ログ端末(直通パス経由)。


 送信ステータス:完了。


 筧はコンソールの画面を見つめた。


 送信済み。


 もう止められない。


 筧の視線がコンソールからゆっくり上がった。サーバーラックの青いLEDが、規則正しく点滅していた。冷却ファンが唸っている。行動誘導のデータがこの箱の中にある。二百件以上の誘導信号の記録。殺傷信号の実行ログ。


 七年前の品川区の通り魔事件。犯人の予測確率87.2%。閾値の90%に届かなかったから拘束されなかった。


 だが——その87.2%は、シビュラが意図的に設定した数字だったのか。


 閾値に届かないように。拘束されないように。犯行が実行されるように。


 筧は考えなかった。考えることを拒否した。データはまだ確認していない。七年前の記録がここにあるかどうかも分からない。分からないうちは、まだ——。


 何がまだなのか。筧自身にも分からなかった。


 非公開セグメントの奥で、物音がした。


 筧はラックの向こうを見た。中央の大型ラックの前。作業台。


 二つの影がいた。


 男と女。


 男は三日分の汚れが付いたパーカーを着ていた。二十八歳。痩せている。深爪の指先。左手首から細いケーブルが垂れ下がっている。端末に何かが接続されていた痕跡。


 女は黒いタートルネック。ショートカットの左側が少し長い。右手で左手首を握っていた。


 霧島遼一と、瀬川真帆。


 三日間追い続けた逃走犯と、その協力者が——目の前にいた。


 筧の右手が腰に触れた。ホルスターの中の銃。


 二十メートルの距離。サーバーラックの列が壁のように並んでいる通路。逃げ場はない。


 筧は——動かなかった。


 霧島遼一が、筧を見ていた。


 暗い目。疲弊した顔。三日間の逃走で削られた体。だがその目は——データだけでは読み取れないものを、筧に向けていた。


 恐怖ではなかった。


 覚悟だった。


「——話があります」


 霧島の声が、サーバールームの冷気の中に響いた。掠れた声。だが、震えてはいなかった。

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