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適正排除

午後六時。作戦開始が迫っていた。


 廃駅の広間に全員が集まっていた。戸田、瀬川、ハナ、そして十数人のコミュニティの老人たち。裸電球の琥珀色の光に照らされた顔。投影のない手首。12年分の皺が刻まれた手。


 瀬川が広間の中央に立っていた。


「最後の解析結果が出た」


 声が低い。技術的な話の声だが、今日はいつもより硬い。瀬川の左手が右手首を握っている。湿疹を掻くのではなく、握っている。


「霧島さんの未来ログの行動誘導データから、殺害対象のIDを抽出した」


 広間が静まった。戸田の手帳のページをめくる音が止まった。ハナが瀬川を見た。老人たちは黙っている。


 俺は立っていた。壁際に。手のひらが冷たかった。


「殺害対象は——」


 瀬川が俺を見た。目が揺れていた。こういう時、瀬川は目を逸らさない。逸らしたい時ほど、真っ直ぐ見る。


「戸田庄吾さん」


 沈黙。


 静かだった。水の音。結露が壁を伝う音。裸電球の微かなハム音。


 俺は戸田を見た。


 戸田は動かなかった。手帳を膝に置いたまま、パイプ椅子に座っている。存在しないタバコを口元に運ぶ仕草もない。ただ静止していた。六十八歳の男が、パイプ椅子の上で石になっていた。


 それから——笑った。


 声のない笑い。口の端が持ち上がる。肩が小さく揺れる。低い、乾いた笑い。


「そうか」


 その一言は、声ではなく息だった。


「俺を殺すように仕向けられた男が」


 戸田が俺を見た。目だけが若い老人。その目が、笑っていた。


「俺を助けに来た。0.03%の失敗ってのは——こういうことか」


 俺は口を開こうとした。何か言うべきだと思った。だが言葉が出てこなかった。


 シビュラの論理が見えた。


 ログスコアが低い独身SE。交友関係が希薄。犯罪歴なし。暴力的傾向なし。社会的に「消えても影響が少ない」人間。——俺のプロファイルだ。


 反体制活動家。元ジャーナリスト。ログ義務化反対キャンペーンの主導者。12年前に解雇され、地下に潜伏。社会的には「すでに消えている」人間。——戸田のプロファイルだ。


 遼一に戸田を殺させる。遼一は予防拘束される。戸田は殺害される。一石二鳥。社会の「不適合者」を二人同時に排除。


 適正排除。


 瀬川がそう言った。B3のモジュールから部分的に抽出したデータの中に、その内部コード名があった。シビュラが対象者を選定する処理の名称。「適正排除」。社会の安定を維持するために、不適合と判断された市民を排除する。殺すのではない。排除する。ファイルをゴミ箱に入れるように。不要なプロセスをkillするように。


 23件のパターンの全てが、この処理の結果だった。高確率の犯罪予測を受けた市民は、犯罪を「予測」されたのではない。犯罪を「発注」されたのだ。そしてその発注を実行しなかった者は——失敗した処理として、ログから消された。五人の死者。自殺として処理された五人。あれはシビュラのガベージコレクションだ。不要になったプロセスの回収と廃棄。


「……俺がここに来たのは」


 声が出た。擦れた声だった。


「偶然じゃない。かもしれない」


 瀬川が頷いた。


「逃走経路を振り返って。品川から渋谷に向かった。裏路地を選んだ。旧市街のノード設置率が低い方へ。地下に入った。グレーゾーンに向かった」


「ノードの密度が低い場所を選んだのは——俺の判断だった」


「それは本当に霧島さん自身の判断だった? 端末が正常に動いていた時間帯の逃走経路は、誘導信号の影響を受けていた可能性がある。不安を増幅させ、人混みを避けさせ、ノード密度の低い地域へ——戸田さんがいる地下へ向かわせる」


 品川駅のホームで立ち上がった時のことを思い出した。どちらに走るか。右か、左か。東口か、西口か。あの瞬間の判断は、俺のものだったのか。


 西口を選んだ。旧市街方面。ノード設置率が新市街の約6割の地域。走りやすかった。人が少なかった。地下への入口が見つかった。


 だがそれは——端末が「西口に向かえ」と俺の迷走神経を刺激した結果かもしれない。不安を増幅させて人混みを避けさせ、ノード密度の低い方へ、低い方へと追い込む。獲物を罠に誘導する猟師のように。


 逃げていると思っていた。走っていると思っていた。自分の判断で。


 だが俺は——飼い慣らされた獲物のように、用意されたルートを走っていただけかもしれない。


 胃の底にヌルポインタがある。そんな感覚だった。参照先がない。何を信じていいか分からない。三日間の逃走が全て誘導だったなら、瀬川との合流も、戸田との出会いも——。


 分からない。


 分からないが——それはもう、問題ではない。


 さっき一人で考えた結論がある。誘導か意志かの区別がつかないなら、つける必要はない。俺はここにいる。戸田のそばにいる。殺すよう仕向けられた相手を、助けようとしている。結果がすべてだ。


「戸田さん」


「うん」


 戸田は落ち着いていた。驚くほど落ち着いていた。


「……俺は、あんたを殺すためにここに来たのかもしれない」


「かもしれんな」


「それなのに——」


「それなのに、お前は殺さなかった。三日間、同じ空間にいて、俺の味噌汁を飲んで、俺の手帳を読んで、俺の息子の話を聞いて。それでも殺さなかった」


 戸田が手帳を閉じた。ポケットに仕舞った。


「0.03%で十分だったってことだ」


 ハナが戸田の肩に手を置いた。何も言わなかった。


 広間の老人たちが動き始めた。陽動の準備。12年ぶりの地上に出るための。ログ公安の注意を引きつけるための。戸田を殺そうとするシステムに対して、十数人の老人たちが自らの体を張る。


「作戦の最終確認をする」


 瀬川が紙を広げた。手書きの霞が関周辺マップ。ログ管理局本庁舎のフロア構成。B3へのアクセスルート。


「まず陽動。18時にコミュニティの皆さんが地上に出る。場所は渋谷駅周辺。全員のログ端末は生きているから、12年間のグレーゾーン生活で記録がほとんどない端末が一斉に地上に復帰する。ログ公安のシステムから見ると——」


「死んだ人間が生き返ったように見える」


 戸田が言った。


「正確に言えば、死亡推定市民のログが一斉に復帰する。システムは大規模な異常として検知するはず。ログ公安は対応に人員を割かざるを得ない」


「制限時間は」


「一時間。それ以上は人員が再配置されて、霞が関の警備が強化される前に終わらないといけない」


 瀬川がマップの本庁舎を指した。


「陽動の間に、私と霧島さんがログ管理局本庁舎に入る。私のアクセス権限はまだ失効していない。正面から入って、エレベーターでB3まで降りる。B3のサーバールームで二つの作業を行う」


「一つ目。行動誘導の証拠データの抽出。誘導信号の送信記録、対象者リスト、殺傷信号の実行ログ。全てを抽出して送信用にパッケージする」


「二つ目。霧島さんの端末からブランクの起動コードを抽出し、全端末に適用可能な形に再構成する。これは端末のハードウェア層にアクセスする必要があるから、私一人ではできない。霧島さんの端末をB3のサーバーに物理接続して、ファームウェアのバグを解析する」


「それから」


「二つの作業が完了したら、B3のサーバーから全国民の端末に同時配信する。ブランクのコードと証拠データ。全端末が5分間停止し、その間に証拠データが表示される」


「5分間で——世界が変わるのか」


「変わるかどうかは分からない。でも、全国民が同時にログの外側に立つ。5分間だけ。その5分間に何が起きるかは——」


「データでは予測できない」


「そう」


 瀬川が少しだけ笑った。


「99.97%の精度で社会を制御していたシステムが、5分間だけ完全に盲目になる。シビュラは全国民のログデータをリアルタイムで処理して社会を最適化してる。そのデータが5分間途絶えたら——シビュラの出力は意味を失う。予測の根拠がなくなる。誘導信号を送る対象を特定できなくなる」


「シビュラが止まるわけではない」


「止まらない。でも、目と耳を失ったAIに何ができる? 入力がなければ出力はゴミになる。ガベージイン、ガベージアウト。5分間、シビュラは完全な暗闘に放り込まれる」


 暗闘。俺がブランク中に経験したもの。記録のない世界。データのない空間。あの中で俺は壁にぶつかり、血に触れ、自分が何者か分からなくなった。


 シビュラが同じ状態になる。全国民分のブランク。


「データでは予測できない」


 瀬川が繰り返した。今度は笑っていなかった。


 戸田が立ち上がった。パイプ椅子が金属音を立てた。


「俺は陽動側だ。地上に出る」


「戸田さん——」


「心配するな、霧島。俺は殺されに行くわけじゃない。ただ——十二年ぶりに地上の空気を吸いたいだけだ」


 嘘だ。いや、嘘ではない。戸田の動機はいつも複数ある。正義と、自己正当化と、息子への罪悪感と、純粋な望みが混ざっている。


「息子さんのことは」


「会えたら、会う。会えなくても、地上に出たことで息子のログに何か引っかかるだろう。『死亡推定の父親のログが復帰』。健一はログ公安の末端事務職員だ。その通知を見れば——俺が生きていると分かる」


 戸田の声は乾いていた。息子に会いたいと泣いた今朝の声とは違う。覚悟を決めた後の声。


 俺は広間を見渡した。


 十数人の老人たち。投影のない手首。12年間、記録されない場所で生きてきた人間たち。そのうちの一人、ハナが俺の方を見た。


「あの子たちは自分で決めたの。あんたのためじゃない。戸田さんのためでもない。自分たちのために、地上に出る」


 ハナの声は柔らかかった。だが目は柔らかくなかった。六十三歳の元教師の目。


「私たちはね、12年も地下にいると、自分が生きてるのか死んでるのか分からなくなるの。ログに記録されていないから。存在していないのと同じ。——でも今日、ログに記録される。全員のログが復帰する。私たちが生きていたことを、システムが認める」


 残り、八時間。


 広間の隅で、老人たちが荷物をまとめていた。十二年分の地下生活の汚れがついた服を着替えている者もいた。どこから持ち出したのか、アイロンのかかったシャツを着ている老人がいた。地上に出るのだ。十二年ぶりに。見栄のためではない。自分が人間であることを確認するために。


 瀬川が俺のそばに来た。


「大丈夫?」


「大丈夫かどうか分からない。だが行く」


「……うん」


 瀬川が紙束を俺に渡した。本庁舎のフロア構成図。B3への階段の位置。サーバールームのラック配置。瀬川が記憶から描き起こした手書きの図面。


「B3に入ったら、まず右手のラック列。非公開セグメントは通常のサーバーと物理的に隔離されてるから、専用のネットワークスイッチがある。そこに端末を接続する」


「接続方法は」


「端末の診断ポートを使う。保守用の物理インターフェースが端末の側面にある。普段は封印されてるけど、ピンで開けられる」


 SEとしての知識が反応した。保守用ポートの存在は知っている。定期メンテナンスで何度か見たことがある。だがあのポートを使ったことは一度もない。管理者権限が必要だ。


「権限は」


「私が持ってる。まだ。あと三十時間は」


 瀬川がフロア図の一点を指した。


「ここ。B3の奥。物理的に鍵がかかってるドア。でも鍵はログ端末認証。私の権限で開く」


 俺は図面を折り畳んでポケットに入れた。紙の手触りが指先に残った。ログに記録されない情報。手書きの図面。戸田の手帳と同じだ。記録されないものが、今、俺たちの武器になっている。


 俺は手のひらを見た。深爪の指先。俺がこの手で殺すよう仕向けられた相手が、広間の向こうに立っている。存在しないタバコを口元に運ぶ仕草をして、若い老人たちの肩を叩いている。


 作戦が始まる。

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