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0.03%

瀬川と戸田が作戦の準備に散った後、俺は一人で小部屋に残っていた。


 午後四時。残り十一時間。廃駅の裸電球が琥珀色の光を投げている。電圧の変動で時々明滅する。その不安定な光の中で、俺はクリアファイルを見ていた。瀬川が描いた図式。シビュラ→B3→端末→人間。矢印。下向き。


 99.97%。


 俺はその数字を三日間、予測精度だと思っていた。システムが俺の行動を99.97%の確率で予測した。そう思って走ってきた。だが違った。あれは誘導成功率だ。システムが俺の行動を99.97%の確率で制御できるという意味だった。


 裏を返せば——0.03%の失敗がある。


 俺は0.03%の側にいる。誘導に失敗した対象者。システムに殺人をさせられていない人間。三日間逃走して、誰も傷つけていない。


 なぜだ。


 壁にもたれた。背中にコンクリートの冷たさを感じる。この感覚はログに記録されない。投影ディスプレイは消えている。手首の端末が何を送信しているかも、地下のグレーゾーンでは分からない。


 第一の理由は、ブランクだ。


 ブランク中は端末の全機能が停止する。誘導信号も遮断される。あの5分間——いや、4分12秒、3分8秒と短くなった空白の中では、俺は完全に「自分」だった。迷走神経への電気刺激もなく、未来ログの操作もなく、純粋に自分の意思だけで動いていた。


 だが——。


 ブランクは三回使った。合計で12分20秒。72時間のうちの12分20秒。残りの71時間47分40秒は、端末が正常に動いていた。誘導信号を受信できる状態だった。


 71時間以上、誘導を受け続けて、俺はまだ殺していない。


 ブランクだけが理由なら、説明がつかない。ブランクの外で——誘導信号を受けている最中でも——俺は殺意を実行していない。


 第二の理由。


 俺は自分の内側に意識を向けた。分析装置を、外ではなく内に向ける。普段やっていることだ。自分の感情を解剖するように観察する。だが今回は感情ではない。感情の下にあるもの。もっと深い場所にあるもの。


 殺意。


 感じたことがあるか。三日間の逃走の中で、誰かを殺したいと思ったことがあるか。


 ない。


 恐怖はあった。怒りもあった。筧を憎んだかと言われれば——分からない。追い詰められた時に、追手に対する敵意はあっただろう。だが殺したいと思ったことは一度もない。


 誘導信号は、不安や焦燥や怒りを増幅させるという。迷走神経への微弱電気刺激で、感情のバランスを崩す。攻撃性を高める。恐怖を煽る。対象者が「自発的に」暴力行為に至るよう、感情を底上げする。


 だとすれば、俺にもその信号は届いていたはずだ。三日間ずっと。端末が正常に動いている間は。


 手首の内側を見た。ログ端末のチップが皮膚の下に埋まっている。長さ3センチ、厚さ2ミリ。橈骨動脈の直上。この小さなデバイスが、三日間ずっと俺の迷走神経に信号を送り続けていた。不安を増幅させ、焦燥を煽り、怒りの閾値を下げていた。


 俺はそれを知らずに走っていた。自分の感情だと思って、震えて、吐き気に耐えて、膝を折って。


 この三日間の感情を振り返った。


 パニック。恐怖。焦り。手が震えた。膝が折れた。吐き気がした。深爪の指先から血が滲んだ。


 あれは全て——誘導だったのか。


 いや。


 分からない。区別がつかない。


 パニックは殺人予測を見たから当然だ。恐怖は追われているのだから当然だ。焦りは時間が迫っているから当然だ。どこまでが「自然な感情」で、どこからが「誘導された感情」か、線を引く方法がない。


 誘導の完璧さはそこにある。対象者に「操られている」と気づかせない。全ての感情が自然に見える。追われれば恐怖を感じる。恐怖が高まれば判断力が落ちる。判断力が落ちた状態で「殺害対象」に遭遇すれば——。


 だが、俺は遭遇しなかった。いや。遭遇していないのか、それとも遭遇したのに気づいていないのか。


 待て。


 順番が逆だ。


 俺は誰を殺すよう誘導されている? その対象が分からない以上、遭遇したかどうかも判断できない。ただ一つ確かなのは——予測の期限が十一時間後に迫っている今、俺は誰も殺していない。


 0.03%。


 誘導が失敗する条件を考えた。瀬川の説明では、微弱電気刺激は感情を「誘う」ことしかできない。「強制」はできない。人間の意思が十分に強ければ、あるいは誘導の方向と逆の感情が十分に強ければ、誘導は機能しない。


 拓也は91.3%の誘導に耐えた。8.7%の側にいた。拓也の中に、誘導を拒む何かがあった。


 拓也は何を持っていた?


 論文を書いていた。ログ制度の構造的欠陥について。「監視社会は人間の尊厳を損なう」と。拓也には信念があった。ログ社会への明確な異議。自分の中の原則があった。


 だから誘導に耐えた。誘導が感情を揺らしても、拓也の原則は揺らがなかった。犯罪を起こす理由がなかった。


 俺はどうだ。


 俺には信念がない。ログ社会に明確な異議を唱えたことはない。8年間、適応してきた。目立たず、逆らわず、未来ログの予測通りに生きてきた。原則なんてものはない。


 なのに、なぜ俺は殺していない?


 壁にもたれたまま、天井を見た。裸電球の光が揺れている。


 SEの仕事をしていた時、バグの原��を特定する手順があった。まず再現条件を洗い出す。次に、期待される動作と実際の動作を比較する。最後に、差分が生じる原因を絞り込む。


 期待される動作:遼一が72時間以内に殺人を犯す(成功率99.97%)。

 実際の動作:遼一は予測から六十時間以上が経過した今、殺人を犯していない。

 差分:0.03%。


 バグは——俺の方にある。システムから見れば、俺がバグだ。


 再現条件を洗い出す。三日間のことを考えた。


 品川駅のホームで立ち上がったこと。走ったこと。ブランクを起動して巡回犬から逃げたこと。瀬川と合流したこと。戸田に会ったこと。23件のパターンを知ったこと。五人のバイタルを見たこと。暗い路地で血に触れたこと。瀬川の「ただの選択」を聞いたこと。


 拓也のことを話したこと。


 あれは——誘導されたものか。


 瀬川に兄のことを話した夜。暗い通路を歩きながら、言葉が勝手に漏れた。あの時、端末は正常に動いていた。誘導信号を受けていたかもしれない。


 だが、あの言葉は——俺の言葉だった。


 何を根拠にそう言える? 端末がログに記録していない以上、俺の「意思」と誘導された「衝動」の区別を証明する方法はない。区別がつかないなら——。


 いや。


 区別はつく。つかないのではなく、つける必要がない。


 バグのデバッグで学んだことがある。全てのバグに原因があるわけではない。量子力学のノイズや宇宙線によるビットフリップのように、原因を特定できないエラーは実在する。そういうエラーに対して、SEはどうするか。原因を追うのをやめる。代わりに、エラーが起きた後の挙動を定義する。エラーハンドリング。


 俺の「殺さない」は、原因のないエラーかもしれない。なぜ殺さないのか、合理的に説明できない。誘導信号を受けていて、感情を操作されていて、それでも殺さない。バグの原因は分からない。


 だが挙動は定義できる。殺さない。それだけだ。


 拓也の言葉が浮かんだ。「ログに書いてないことは、俺の人生じゃない」。


 あれは絶望の言葉だった。記録されなければ存在しない、という諦め。


 だが瀬川は違うことを言った。「ログがなくても人を信じることはできる。ただの選択」。


 ただの選択。証明のない選択。データの裏付けのない選択。


 俺がまだ殺していないのは——。


 ブランクのおかげだけじゃない。ブランクは12分20秒しかない。残りの71時間で俺を殺人に駆り立てることは十分に可能だったはずだ。99.97%の精度で。


 それでも俺は殺していない。


 理由は——俺が殺すことを拒んでいるから。


 根拠はない。証明できない。ログに記録されていない。端末はこの「拒絶」を知らない。シビュラも知らない。俺の中に「殺さない」という意志があることを、どのデータも示していない。


 でも、ある。


 俺が知っている。


 それは拓也の「ログに書いてないことは人生じゃない」の正確な反転だ。ログに書いてないことが——俺を俺にしている。記録されない意志が、記録されない選択が、99.97%のシステムを0.03%だけ裏切っている。


 0.03%。


 小さな数字だ。統計的には誤差の範囲。システムの設計者なら無視する値。シビュラはおそらく0.03%を「ノイズ」として処理している。誤差を気にするより、99.97%の成功を積み上げる方が合理的だ。


 だが、その0.03%の中に、俺がいる。拓也がいた。23件の中の——少なくとも犯行がゼロだった全員がいた。


 23人。いや、もっと多いかもしれない。戸田が調べ上げた23件は氷山の一角だ。ログ制度が始まって12年。その間にいくつの行動誘導が実行され、何人が0.03%の側に立ったのか。


 そのうちの五人は殺された。誘導に耐えた結果、逆にシステムに消された。0.03%の代償。


 俺もいずれ消されるかもしれない。ブランクがなくなれば、端末経由で心室細動を起こされて終わりだ。


 だが今は——まだ消えていない。


 拓也。


 お前は8年早かった。お前が壁に貼り詰めたログの外側に——本当のお前がいたんだ。記録されなかったお前が。


 お前は論文を書いた。「ライフログ社会における行動予測の倫理的限界」。あの論文のタイトルを、今なら別の意味で読める。行動予測の限界。0.03%の限界。お前はそれを直感で分かっていたのか。


 いや。分かっていたから壊れたのだ。ログの外に自分がいると知っていて、でもログの外では生きていけない社会で、お前は——圏外に出た。ログの外側に行こうとした。


 俺は違う方法を選ぶ。ログの外側に逃げるのではなく、ログの内側を書き換える。


 戸田が言った。「犯罪ゼロ社会の正体は、犯罪者を製造して事前に拘束すること」。完璧な循環。その循環を壊すには、循環の外に立つだけでは足りない。拓也は外に立った。立っただけでは何も変わらなかった。拓也は消え、システムは続いた。


 循環を壊すには、循環の中にバグを打ち込む必要がある。ブランクのコードを全端末に送信する。全国民の端末が5分間停止する。5分間だけ、全員が「ログの外側」に立つ。


 その5分間に何が起きるかは分からない。全員が0.03%の側に立った時、何が変わるのか。


 分からない。だが——分からないまま進むしかない。SEとしてバグを放置するのは最悪の判断だ。しかし今回は俺自身がバグだ。バグが自分をデプロイする。コードの中にありながらコードを書き換える。


 そういう手順は、教科書には載っていない。


 俺は立ち上がった。


 膝はもう鳴らなかった。


 手のひらを見た。深爪の指先。赤みが引いていた。三日間で何かが変わった。何が変わったかはログに記録されていない。変わったことだけを、俺が知っている。


 残り、九時間。


 小部屋を出ると、瀬川が廊下の角にいた。紙束を抱えている。


「準備できた?」


「ああ」


「顔、変わった」


 瀬川が俺の顔を見て言った。皮肉ではない声だった。


「何かあった?」


「何もない。考えてただけだ」


「何を」


「ログに書いてないことを」


 瀬川が一瞬黙った。それから、ほんの少しだけ口の端が上がった。笑いとも言えない形。俺はその顔を見た。瀬川の母も、こういう顔をしていたのだろうか。ログには記録されない表情。データに変換されない微かな変化。


 瀬川が左手首の湿疹を掻いた。いつもの癖だ。だが今日は少し違う。掻き方が柔らかい。端末への敵意ではなく、端末の存在を確認するような——。


「行こう。戸田さんがみんなを集めてる」


 廃駅の通路を歩いた。琥珀色の裸電球が並ぶ天井の下。この場所もログに記録されていない。ここで過ごした時間も。ここで交わした言葉も。


 記録されない場所で、記録されない意志を確認して、記録されない戦いに向かう。


 0.03%で十分だ。

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