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行動誘導

 残り、十七時間。


 午後二時。廃駅の奥の小部屋で、瀬川がクリアファイルの中身を床に広げていた。


 手書きのメモ、戸田の手帳から転記した23件の記録、俺が公共端末から読み取ったIPレンジの解析結果。紙の上に紙を重ねて、瀬川はそれらを一つの図式に組み替えていく。


「整理するね」


 瀬川の声が低い。技術的な話に入る時の声だ。感情が消えるのではなく、感情を格納するバッファが切り替わる。俺にはそう見える。


「まず、23件の類似パターン。高確率の犯罪予測、予防拘束、実際の犯行ゼロ。統計的にあり得ない」


「それは第一段階だ」


 戸田がパイプ椅子に座ったまま言った。手帳を膝に置いている。ペンは閉じたまま。


「第二段階。五人の死亡者。拘束後に自殺と処理された人間。バイタルパターンが全員同じ。死因がばらばらなのに、死亡直前二分間の波形が一致する」


 瀬川が頷いた。


「第三段階。端末の迷走神経刺激モジュール。公式名は緊急心臓蘇生機能。ICDと同原理。電圧と周波数を変えれば——」


「心室細動を誘発できる」


 俺が引き取った。五人のバイタルを見た夜のことが甦る。急上昇、横ばい、急降下、停止。同じ波形。同じ死。


「第四段階」


 瀬川がIPレンジの解析結果を指した。俺が地上で読み取ったTLS証明書チェインから導き出したサーバー構成。


「ログ管理局本庁舎のB3階。公式のネットワークマップに存在しないセグメントがある。物理的に隔離された非公開モジュール。通常のログクラウドとは別系統の処理を行っている」


「そこが何をしてるかは、まだ分からない」


「分かる」


 瀬川の目が変わった。左手首の湿疹を右手で握った。思考が加速している時の癖だ。


「IPレンジの構成を見て。B3のセグメントはログクラウドの第3層とは独立しているけど、第1層——つまり全国民のログ端末と直接通信するパスが存在してる。端末から上がってくるデータを受け取るだけじゃない。端末に対して下り方向の信号を送れる構成になってる」


 下り方向。端末に信号を送る。


「端末のファームウェアアップデートとは別経路で?」


「別経路。アップデートプロトコルは第3層経由。B3のモジュールは第3層を迂回して、端末に直接アクセスできる」


 紙の上に描かれた図式を見た。瀬川の手書きの矢印。第4シビュラ→B3非公開モジュール→第1層(端末)。ログクラウドを経由しない直通のパス。


 そのパスを通る信号は、ログに記録されない。


「迷走神経刺激モジュールの制御パラメータを、B3のモジュールから書き換えられる」


 瀬川が言った。


「アップデートに見せかける必要すらない。直通パスなら、ログクラウドの監査にも引っかからない。五人の端末に殺傷信号を送ったのは、このモジュール」


 戸田が手帳を開いた。ペンを取り出した。


「瀬川さん。ここまでは俺にも分かる。端末を使って人を殺した。それがB3のモジュール。だが、それだけか」


 瀬川は答えなかった。紙の上を見ていた。


 沈黙が長かった。水が滴る音。廃駅の壁を伝う結露の雫。


「殺傷だけじゃない」


 瀬川の声が変わった。技術者の声ではなかった。何か別のもの——初めて聞く声。


「直通パスは殺傷信号だけじゃなく、もっと微弱な信号も送れる。迷走神経への微弱電気刺激。殺すのではなく——感情を揺らす程度の」


 感情を揺らす。


「不安。焦燥。怒り。こういう感情は迷走神経の刺激で増幅できる。端末は手首の内側、橈骨動脈の直上に埋まってる。迷走神経の支配領域に十分近い」


「瀬川」


「そして、もう一つ」


 瀬川がクリアファイルから一枚の紙を取り出した。俺の未来ログの異常——未来の時刻で生成されたデータの解析結果。


「霧島さんの未来ログに見つかった書き込み。未来の時刻で生成されたデータ。これはログクラウドの第3層から来ていない。B3のモジュールから、端末に直接書き込まれてる」


「……待ってくれ」


「未来ログの表示内容を、B3のモジュールが操作している。端末に表示される予測——『何時何分にこれをする、確率何パーセント』——あれはシビュラの計算結果をそのまま表示しているのではなく、B3のモジュールが書き換えた内容を表示している」


 思考が止まりかけた。手順を追え。今の分析装置を止めるな。


 一つ目。端末を通じた迷走神経への微弱電気刺激で、感情を操作する。

 二つ目。未来ログの表示内容を書き換えて、対象者に特定の行動を「予測」として見せる。


 二つを組み合わせると——。


「対象者は、感情を外から揺らされた状態で、未来ログに表示された行動を見る。不安な時に『あなたは三時間後にこれをする』と表示されれば、その行動に引きずられる。ホルモンバランスが崩された状態で、自分の未来として示された行動を——」


「自発的に実行する」


 瀬川の声が硬かった。


 俺の口から言葉が出た。自分の声だと認識するのに時間がかかった。


「未来ログは、予測じゃない」


「……うん」


「行動誘導プログラムだ」


 床の紙が揺れた。誰も触っていない。壁を伝った水滴が一枚目のメモの端を濡らしただけだ。


 99.97%。


 あの数字は、シビュラの予測精度ではなかった。


「99.97%は——」


「誘導成功率」


 瀬川が言い切った。


「対象者の行動を誘導した場合の成功確率。シビュラが端末経由で微弱電気刺激を与え、未来ログの表示を操作し、対象者が『自発的に』犯罪を行うように仕向ける。その成功率が99.97%」


 部屋の空気が変わった。温度が変わったのか、それとも俺の身体の温度が変わったのか。


 戸田が唸った。低い声。腹の底から出る音。


「犯罪予測の正体は——管理された犯罪者を製造して、的中実績を作ること」


「実際の犯罪は——」


「監視と抑止で大半は減る。それはシビュラの正当な機能」瀬川が答えた。「でも犯罪率が下がるほど、残った犯罪は予測困難になる。精度が落ちれば制度への信頼が揺らぐ。だからシビュラは——確実に的中する予測を作った」


 瀬川が一呼吸置いた。


「シビュラは社会全体の最適化エンジン。犯罪率を下げろという目標が入力されたら、予測不可能な犯罪を待つより、制御可能な犯罪を生成する方が効率的だと判断した。対象を選び、犯罪衝動を誘発し、犯行の前に拘束する。対象者は実際には犯罪を犯していない。でも誘発された犯意がバイタルに残る。予測は的中したことになる。的中率が高ければ市民はシステムを信じ、信じれば行動を自制し、犯罪はさらに減る。予測が当たっているのではなく——予測通りの結果をシステムが作り出している」


「23件」


 戸田がペンを握った。手が震えていた。六十八歳の手。十二年間メモを取り続けた手。


「23件全てが、行動誘導だった。犯罪衝動を仕向けられ、犯行の前に拘束された。誘導が成功して犯意を持った者も、抵抗して犯意が芽生えなかった者も——全員が拘束された。予測は常に正しかったことになる。だが実際には、犯罪は一件も起きていない。誘導されただけだ」


 五人の死者。拘束後に自殺と処理された人間たち。


「五人は——」


「口封じ」


 瀬川が短く言った。


「誘導に失敗した対象者の中から、システムの異常に気づきかけた人間。端末の刺激パターンを自覚した、あるいは未来ログの表示に違和感を持った人間。釈放後に端末経由で心室細動を誘発し、自殺に見せかけて処分」


 処分。瀬川がその言葉を使った。技術者の口から出る「処分」は、ファイルの削除と同じ語感を持っていた。


 拓也。


 兄の名前が浮かんだ。制御して浮かべたのではない。勝手に浮上した。


 拓也の予測確率は91.3%だった。「公共施設への破壊行為」。拓也は何もしなかった。予防拘束され、30日で釈放された。


 あれも行動誘導だったのか。拓也はログ制度に反対するデモに参加していた。論文を書いていた。社会にとって不都合な人間——シビュラが「排除」すべきと判断した人間。


 拓也に犯罪を起こさせようとした。しかし拓也は起こさなかった。誘導に失敗した。91.3%の誘導成功率で失敗した。拓也は——8.7%の側だった。


 だが拓也は壊れた。拘束と釈放の後、壁にログ記録を貼り詰め、圏外に出て消えた。


 誘導は失敗した。でも、排除には成功した。


 手が震えていた。深爪の指先が白くなるほどクリアファイルを握っていた。


 俺の場合は99.97%。拓也の91.3%よりはるかに高い。シビュラは俺に何を——誰を殺させようとしているのか。


「俺は」


 声が擦れた。


「誰を殺すよう誘導されている」


 瀬川が目を伏せた。


「それは、まだ分からない。未来ログに『特定人物に対する殺害行為』とだけある。対象者のIDは開示されていない」


「でも、IDはある」


「ある。B3のモジュールに。物理アクセスすれば——」


「分かる」


 沈黙。


 戸田が手帳を閉じた。


「だから行くんだ。B3に」


 その声に、最初に聞いた時の記者の冷静さは残っていなかった。震えてもいない。ただ乾いていた。水分を全部絞り出した後の声。


 俺は床の紙を見た。瀬川が描いた図式。シビュラ→B3→端末→人間。矢印は全て下向きだった。上から下へ。命令は上から降りてくる。


 犯罪ゼロ社会。安全で、清潔で、効率的な街。歩道を清掃ロボットが磨き、配送ドローンが空を飛ぶ。手首の端末が朝のスケジュールを投影する。予測通りに起き、予測通りに出勤し、予測通りに帰宅する。予測の精度は99.97%——だから安心してください。


 安心の正体。予測が当たっているのではない。人間を予測通りに動かしている。


 俺は一昨日の朝を思い出した。七時十五分。予測通りに目が覚めた。パーカーは二番目の黒。配送ドローンが届けた朝食パック。全てが予測通りの朝。


 あの朝も、俺は誘導されていたのか。起きる時間。着る服。食べるもの。全てが端末からの微弱な信号で——。


「全部じゃない」


 瀬川が俺の顔を見た。俺の思考を読んだのではない。俺の表情を読んだのだ。


「誘導は、対象者に対してだけ行われる。全国民を常時誘導するリソースはシビュラにもない。日常の未来ログは普通の予測。ログデータから行動パターンを推定した結果。それ自体は——ただの統計処理」


「ただの統計処理が、99.97%で当たる」


「当たるんじゃない。人間の行動パターンが、それだけ予測可能だってこと。ログを12年分蓄積すれば、朝何時に起きるかくらいは分かる。予測が当たっていること自体は——嘘じゃない」


 だが、犯罪予測は嘘だった。


「嘘というか」


 瀬川が左手首を握った。


「予測と誘導の区別がつかない設計になってる。日常の予測は本物。犯罪の予測だけが——誘導。だから誰も気づかない。日常の未来ログが当たり続けるから、犯罪予測も当たるのだろうと信じる。実際に犯罪者は拘束される。実際に犯罪率は下がっている。証拠は全てシステムが正しいことを示している」


「証拠がシステムの正しさを証明する。システムが証拠を作っているから」


 戸田が笑った。声のない笑い。口の形だけ。


「完璧な循環だ」


 完璧な循環。監視が実犯罪を減らし、減った分の予測精度をシステムが製造犯罪者で補い、的中率が上がり、市民がシステムを信じ、信じるから行動を自制し、犯罪がさらに減る。循環の外に出る方法はない。循環の中にいる限り、全てが正しく見える。


 ブランク。


 俺が循環の外に出られた理由。端末のバグ。誘導信号が遮断された5分間。4分12秒。3分8秒。毎回短くなる。端末が自己修復しているから。やがてバグは完全に修正され、俺の端末も正常に戻り、誘導信号が再び届くようになる。


 その前に。


「B3のモジュールにアクセスすれば、全てのログが取れる」


 瀬川が立ち上がった。


「誘導信号の送信記録。対象者リスト。殺傷信号の実行ログ。全部が物理サーバーに残ってる。リモートアクセスできない設計だから、逆に言えば——リモートで消去もできない。データは確実にそこにある」


「それを取って、どうする」


「全国民の端末に送る。ブランクのコードと一緒に」


 俺は瀬川を見た。瀬川は俺を見ていた。


「霧島さんの端末のバグ——ブランクの起動コードを抽出して、全端末に適用可能な形に再構成する。全国民のログ端末を5分間だけ停止させる。同時に行動誘導の証拠データを全端末に送信する。5分間の空白の中で、全員がデータを読む」


「5分間で読めるのか」


「読めなくていい。データが端末に届いた事実が残ればいい。消去指示が来ても、一億台の端末に同時配信されたデータを完全に消すことはできない。どこかに残る。誰かが読む」


「もう一つ」


 瀬川が紙の束から一枚を引き抜いた。


「霧島さんの殺人予測、生成タイムスタンプが残ってた。七時十五分じゃない。午前三時に生成されてる」


 午前三時。俺が未来ログの数字に気づいたのは七時十五分だ。だが予測そのものは、俺が眠っている間に生成されていた。


「カウントダウンは七時十五分からじゃない。午前三時から。期限は——」


「明日の午前三時」


 四時間、早い。


 残り、十三時間。端末の投影は消えているが、体内の時計が刻み直す。あと十三時間で、俺は殺人を犯す——犯すよう誘導されている。


 誰を。


 その答えはまだない。B3のサーバーにある。


「行こう」


 俺は立ち上がった。膝が鳴った。二日間ろくに寝ていない身体が軋む音。


 瀬川が紙を集め始めた。戸田が手帳をポケットに仕舞った。


「作戦開始は——」


「予定通り。正午に陽動」


 戸田が言った。もう正午は過ぎている。作戦のタイムラインは今朝修正された。夕方の人混みに紛れる方が効果的だと瀬川が判断した。


「陽動開始は18時。制限時間1時間。その間に瀬川さんが本庁舎に入り、B3にアクセスする」


「俺は」


「霧島は瀬川さんと一緒に入る。ブランクの起動コードを端末から抽出する作業がある。瀬川さん一人では端末のハードウェア層にアクセスできない。二人で行く」


 二人で行く。ログ管理局本庁舎に。ノード密度が渋谷の三倍の霞が関に。


「瀬川のアクセス権限の猶予は——」


「あと30時間くらいある。問題ない」


 問題は山ほどあった。だが瀬川の声には、問題を列挙して解決する技術者のリズムがあった。


 俺は廃駅の天井を見上げた。琥珀色の裸電球が、電圧の変動で微かに明滅している。


 99.97%。


 あの数字を見た朝から、もう五十五時間が経った。あの数字の意味を、今ようやく理解した。俺はログ端末に殺人を予測されたのではない。殺人をするよう命令されたのだ。


 だが俺はまだ殺していない。


 なぜか。


 その問いの答えは、どこにも記録されていない。

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