藤原の選択
筧俊哉は瀬川真帆のマンションの前に立っていた。
午前十時。目黒区の中層住宅街。七階建てのマンションの正面玄関に、ログ公安の巡回犬が二体配置されている。黒い四足歩行ロボット。モーター音が低く響いている。
玄関のオートロックは管理会社経由で解除済みだった。筧は藤原と共にエレベーターで五階に上がった。505号室。表札はない。ログ管理局の職員は表札を出さない者が多い。
藤原がドアの前で端末を操作した。令状に基づく遠隔解錠。ドアのロックが外れた。
中に入った。
空だった。
ワンルーム。整理された部屋。キッチンに食器が一つもない。ベッドは整えられている。しかし寝室のクローゼットだけが——半分開いていた。衣類がいくつか抜き取られている。急いで持ち出した痕跡。
「逃走後、戻っていますね」
藤原が言った。投影ディスプレイに瀬川のログ端末の軌跡を表示している。
「ログ端末の軌跡を遡ると、一昨日の深夜に一度このマンションに戻っています。四十七分間滞在し、その後渋谷方面に移動。以降、地下に入って信号が不安定になっている」
「霧島と合流した」
筧は部屋の中を歩いた。靴音がフローリングに響く。整えられた部屋。整えすぎた部屋。この部屋の主は、見られることを前提に生活している。ログ管理局のエンジニア。システムの設計に関わる人間。自分のログが誰かに見られることを知っている人間の部屋。
だが、寝室だけが散らかっていた。
ベッドの横に、枕カバーの交換用が二枚重なっている。布団のシーツにしわが寄っている。クローゼットの扉が半開き。瀬川の部屋の中で、寝室だけが「記録される空間」としての体裁を失っている。
筧は寝室の窓辺に立った。窓の外に官庁街のビル群が見える。遠く、霞が関のログ管理局本庁舎の屋上が薄く光っている。
筧の左手の薬指で、結婚指輪が微かに動いた。親指が無意識に回している。
「主任」
藤原の声が後ろから聞こえた。
「上層部から直接指示が入りました」
筧は振り向かなかった。窓の外を見ていた。
「内容は」
「『霧島遼一が保持するログ端末のデバッグデータは、国家安全保障上の機密に該当する。確保と同時に端末データの全消去を実施せよ』」
筧の手が止まった。指輪を回す動きが止まった。
「端末データの全消去」
「はい。確保後、速やかにデバッグログ、ファームウェア操作履歴、ブランク関連データの全てを消去せよ、と」
筧は振り向いた。藤原の顔を見た。藤原の目が揺れていた。二十六歳。オンログ世代。ログのない世界を知らない世代。だがこの若者は、指示の意味を理解していた。
「指示のソースは」
「シビュラ運営委員会です。委員長名義の直接指示。通常の指揮系統を経由していません」
通常の逮捕であれば、端末データは証拠として保全する。弁護側の開示請求に備えて、データは一バイトも消さない。それが手続きだ。
データを消去する理由があるとすれば——そのデータに「見られてはいけないもの」が記録されているから。
「藤原」
「はい」
「この指示を、文書で出し直してもらえますか」
「文書、ですか」
「口頭指示では記録に残らない。文書で、委員長の電子署名付きで」
藤原が数秒間黙った。
「……了解しました。確認します」
藤原が端末を操作し始めた。筧は窓辺に立ったまま、外を見ていた。
文書を要求した理由は二つある。一つは手続きの正当性。口頭指示による証拠消去は、後に問題になりうる。もう一つは——文書にすれば、指示を出した側の責任が明確になる。責任を明確にしたいのは、筧自身の防御のためか。それとも、指示の出所を確認したいからか。
筧にも区別がつかなかった。
「主任」
藤原が投影を閉じた。
「運営委員会事務局に照会しました。文書化は『不要』との回答です。口頭指示で執行せよ、と」
「記録に残さない指示で、記録を消せ、と」
筧の声は平坦だった。感情が動いていないのではない。平坦であることが、筧の感情が動いている証拠だった。
藤原が筧を見た。長い沈黙。部屋の中に、巡回犬のモーター音がかすかに響いていた。
「主任」
「何ですか」
「この案件は——本当にただのプレクライム案件ですか」
筧は藤原を見た。藤原の目は真っ直ぐだった。二十六歳の目。まだ何かを信じている目。
「ただのプレクライム案件とは」
「霧島遼一のプロファイル。末端SE。犯罪歴なし。交友関係希薄。暴力的傾向なし。逃走パターンも混乱した市民のそれで、計画的犯行者の行動ではない。予測確率99.97%は確かに高い。でも——」
「でも、何ですか」
「行動が合致しない。99.97%で殺人を犯す人間が、三日間逃走して誰も傷つけていない。ブランクを使って逃走するだけで、攻撃的な行動がない。協力者と合流して——何を調べているのか知りませんが、調べているんです。殺人の準備をしている人間の行動パターンじゃない」
筧の指輪が再び動き始めた。親指が、緩やかに回している。
「データを見ましょう」
口癖が出た。感情を排除する防御機構。
「データは見ました。だから言っているんです」
藤原の声が一段低くなった。丁寧だが、引かない声。
「主任。ログの数字と、ご自身の感情を——」
「藤原」
筧の声が変わった。丁寧語が消えた。「です・ます」が剥がれた。低い声。冷たい声。部下は筧の沈黙が「怒り」なのか「思考」なのか判別できない。今は、怒りだった。
「もう一度言ってみろ」
藤原が黙った。
沈黙が五秒続いた。筧の心拍が上がっていることを、手首のログ端末が記録しているはずだった。87bpm。普段の67bpmから20上昇。
筧は自分の感情に気づいた。怒りの対象が藤原ではないことにも気づいた。藤原の言葉が正しいことにも。
だが正しさを認めることは——。
「……指示通りに進めます」
筧は声を戻した。丁寧語が戻った。距離が戻った。
「霧島遼一の確保を最優先。確保後、端末データの消去を実施。運営委員会の指示に従います」
藤原は何も言わなかった。
筧は瀬川の部屋を出た。廊下を歩いた。靴音がリノリウムの床に響いた。靴。磨いたばかりの革靴。汚れはない。汚れがないことを確認した。
エレベーターの中で、藤原が背後に立っていた。筧は藤原の視線を感じたが、振り向かなかった。
一階のロビーに降りた。巡回犬のモーター音。外に出ると、配送ドローンが頭上を横切った。弁当箱ほどの機体。センサーノードの赤い光が街路灯の根元で光っている。
全てが記録されている。この街は記録されている。
筧はその記録を信じて生きてきた。記録が正しいなら、87.2%の犯人は拘束されるべきだった。記録が正しいなら、99.97%の霧島は殺人を犯す。記録が正しいなら、筧がやっていることは正義だ。
だが今、記録を消せという指示が降りてきた。
記録を消す正義とは何か。
車両に乗り込んだ。自動運転の公安車両。筧は後部座席に座った。藤原が助手席。運転席は無人。ログ端末の認証で車両が起動した。
「本部に戻ります」
筧が言った。
「今後の追跡は、渋谷地下エリアに焦点を絞る。瀬川の端末信号の最終受信ポイントから半径二キロ以内。巡回犬を追加配備。地下物流トンネルの入口を全て監視対象に」
「了解しました」
藤原の声は平坦だった。感情のない声。だがさっきの藤原の声——「ログの数字と、ご自身の感情を」——が、筧の頭の中で反響していた。
車窓の外を霞が関のビル群が流れていく。ログ管理局本庁舎の前を通過した。筧はその建物を見た。この建物の中にシビュラの心臓がある。筧が信じてきたシステムの中枢。
本当にただのプレクライム案件ですか。
藤原の問いが、筧の中で形を変えた。
霧島遼一は殺人を犯すのか。99.97%のデータがそう言っている。だが霧島の行動パターンは犯行者のそれではない。筧の捜査官としての直感が、データと矛盾している。
そして今、データを消せという指示が降りてきた。
データが正しいなら、消す必要はない。データに何かが隠されているから消す。データが正しくないから消す。
三段論法だ。筧は三段論法を組み立てることができた。結論は見えた。見えたが——結論を認めることは、七年間の信仰を崩すことだった。
87.2。
数字が浮かんだ。車窓の向こうに。浮かんでいない。筧の脳が投影している。
閾値を下げれば沙織と結は助かったかもしれない。システムが完璧であれば、二人の死には意味がある。システムに欠陥があるなら、二人の死は——。
筧は目を閉じた。
「藤原」
「はい」
「霧島遼一のブランク。あのバグの発生条件をもう一度調べてください。ファームウェアの脆弱性が偶発的なものか、それとも——設計に起因するものか」
藤原が一瞬、筧を見た。
「了解しました」
それ以上は何も言わなかった。車両が霞が関を通過し、ログ公安本部に向かっていた。
筧は結婚指輪を回していた。S&S 2048。沙織と俊哉のイニシャル。結婚年。指輪の内側に刻まれた文字を、筧は毎日触っている。触れば文字が消えるのではないかと思うほど、毎日触っている。
靴の汚れを確認した。汚れはなかった。
第二幕「潜伏」完了です。第三幕でいよいよ決着します。ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。




