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戸田の賭け

午前七時。地下に朝はない。


 通気ダクトから流れ込む空気の温度が少しだけ上がったことで、地上に日が昇ったのだと分かった。残り二十四時間。頭の中のカウンターは壊れていない。壊れているのは別の部分だ。


 瀬川がIPレンジのデータを基に、ログ管理局本庁舎のサーバー配置を推定し終えていた。投影ディスプレイに表示された図面は、瀬川の言葉を借りれば「七割の確度で正しい」。七割。残りの三割は、行ってみるまで分からない。


「シビュラの非公開モジュールは、本庁舎B3階のサーバールーム。物理的に隔離されたセグメントにある。リモートアクセスは不可能。証拠を取るには、直接行くしかない」


 瀬川の声は技術報告の口調だった。指が投影面の図面をなぞる。


「問題は侵入経路。本庁舎は霞が関の官庁街のど真ん中。巡回犬が常駐。環境ノードの設置密度は渋谷の三倍。ブランクを使っても、環境ノードの反応で三分以内に位置を絞られる」


「ブランクは使えない」


 俺は言った。使えない理由は二つある。持続時間がさらに短くなっていること。そして、使うたびに環境ノードの空白を作り、その空白の中で誰かが死ぬかもしれないこと。


「使わないなら、別の方法で注意を逸らす必要がある」


 瀬川がそう言った時、戸田がホームの奥から歩いてきた。カーキのジャケット。手帳をポケットに入れている。目だけが若い。存在しないタバコを吸う仕草。


「注意を逸らす方法なら、ある」


 戸田が言った。声がいつもと違った。ぶっきらぼうではない。低くて、慎重で、何かを覚悟した声だった。


「コミュニティの連中に地上に出てもらう」


 俺と瀬川は同時に戸田を見た。


「陽動だ。ログ公安が追っているのは俺とお前だ。コミュニティの老人たちが一斉に地上に出れば、ログ公安の人員が分散する。その隙に本庁舎に入る」


「待ってくれ」


 俺は立ち上がった。


「あの人たちは十二年間地下にいる。地上に出れば環境ノードが全員を検知する。ログ端末は生きている。位置情報が一斉に地上に出現すれば——」


「大騒ぎになる。ログ公安は対応せざるを得ない。十二年間地下に潜伏していた市民が突然地上に出現した。テロの可能性を排除するまで、公安の注意はそっちに向く」


「あんたの正義のために、あの人たちを犠牲にするのか」


 声が低くなった。自分でも分かった。怒りが冷たい。叫びたいわけではない。ただ、声が勝手に低くなる。


 戸田が俺を見た。目が動かなかった。


「犠牲?」


「あの人たちは何も悪いことをしていない。ログ社会に馴染めなかっただけだ。地上に出れば身元が特定される。ログ公安に拘束されるかもしれない。あんたは十二年間世話になった人間を、自分の目的のために差し出すのか」


「お前に言われなくても分かっている」


 戸田の声にも冷たさがあった。記者の声ではなかった。もっと生の声だった。


「分かっているなら——」


「分かっているから言うんだ。俺が言わなければ誰が言う。あいつらに地上に出ろと頼める人間が、この地下に他にいるか」


 俺は口を閉じた。戸田の言葉は正しかった。コミュニティの老人たちは戸田を信頼している。戸田が頼めば、出てくれるかもしれない。だがそれは信頼の利用だ。


「あの人たちが自分で判断することだ」


 ハナの声がした。


 ホームの奥から、小柄な女が歩いてきた。白髪を後ろで束ねている。六十三歳。元小学校教師。廃駅コミュニティで最も長く暮らしている人間。


「戸田さん。あの子たちに聞いてごらんなさい。出るか出ないかは、自分で決めることだ。あんたが決めることでも、この若い人が決めることでもない」


 ハナの声は穏やかだった。だが穏やかさの下に、十二年分の重さがあった。


「ただし、一つだけ」


 ハナが戸田を見た。


「あんたの本当の理由を言いなさい。正義がどうとか、ログ制度の闇がどうとか、そういう大きな話じゃない。あんたがなぜこれをやりたいのか。本当の理由を」


 沈黙が落ちた。


 廃駅の天井から水が滴る音。裸電球がちらついた。


 戸田は長い間黙っていた。存在しないタバコを吸う仕草が止まった。右手の人差し指と中指が、何も挟んでいない空間でわずかに震えていた。


「……俺はな」


 声が変わった。ぶっきらぼうでも、記者の正確さでもない。もっと柔らかくて、もっと弱い声。


「息子に会いたいんだ」


 その一言が、廃駅の空気を変えた。


「十二年会ってない。あいつがログ公安で働いていることも知ってる。俺が戦った相手の組織だ。笑えるだろう。いや、笑えない。俺は笑えない」


 戸田はポケットから手帳を出した。古い革の手帳。取材メモと、息子の小学校の成績表の切り抜きが挟まっている手帳。戸田はそのページを開かなかった。閉じたまま、両手で握っていた。


「ログ制度の闇が暴かれたら——あいつが『親父は正しかった』と思ってくれたら——もう一度会えるかもしれない。それだけだ。それだけの理由で、お前たちを巻き込んでいる」


 戸田の目が俺を見た。若い目。だが今は、若さの中に疲労があった。十二年分の疲労。


「立派な動機じゃない。最低の動機だ。息子に会いたいだけの老人だ。だが俺にはこれしかない。これしかないんだ」


 ハナが何か言おうとした。やめた。代わりに小さくうなずいた。


 俺は戸田を見ていた。


 戸田は正義の人ではなかった。最初から知っていた。戸田がログ制度の闘士ではなく、息子に会いたいだけの老人であることを。あの夜、戸田が息子の話をした時から、分かっていた。


 戸田の動機は不純だ。自己正当化と罪悪感と、息子への思慕が入り混じっている。切り分けられない動機。予測できない行動を生む動機。


 だが、不純であることと、嘘であることは違う。


 拓也のことを考えた。拓也は純粋だった。ログ制度への異議は論理的で、正当で、純粋だった。だから壊れた。純粋な動機は、世界に拒絶された時に壊れるしかない。


 戸田は不純だ。不純だから、十二年間壊れずにいられた。息子に会いたいという最低の動機が、この老人を地下で生かし続けた。


「……分かった」


 声が出た。掠れていたが、出た。


「やろう」


 戸田が俺を見た。何かを言おうとして、やめた。代わりにうなずいた。


 瀬川が投影を操作していた。


「作戦を整理するね」


 瀬川の声は平坦だった。技術者の声に戻っている。感情の議論が終わったら、すぐに実務に入る。瀬川のその切り替えの速さに、俺は何度か救われている。


「まず、陽動のタイミング。霞が関の官庁街は日中の方がセンサー密度の有効範囲が狭い。通行人の数が多いから、環境ノードの個人識別精度が低下する。つまり、侵入は昼間の方がいい」


「昼間に霞が関に侵入するのか」


「逆。深夜の霞が関は人通りがゼロに近い。二人の人間が歩いているだけで異常値になる。でも昼間なら、官僚と一般市民が大量に通行している。その中に紛れ込む方が検知されにくい」


「ブランクなしで」


「ブランクなしで。霧島さんのログ端末は信号を送信し続ける。でもログ公安が追跡情報を一般市民の端末にプッシュするまでに三十分から一時間のタイムラグがある。陽動でログ公安の注意が分散している間にそのラグを利用して本庁舎に接近する」


「接近してからは」


「本庁舎に入る方法は、一つだけ考えている。ログ管理局のエンジニアとして正面から入る」


 瀬川が投影面に自分のログ端末のIDを表示した。


「私のアクセス権限はまだ失効していないはず。逃走が報じられていても、システム上のアカウント停止には手続きが必要で、早くても四十八時間はかかる。明日の昼なら——ぎりぎり、間に合うかもしれない」


「かもしれない」


「確実じゃないことは分かっている。でも他に方法がない」


 俺は瀬川を見た。瀬川の左手首を右手が握っている。湿疹が赤い。覚悟を決めた時の仕草だ。瀬川は自分のログ端末の権限を使って本庁舎に入ると言っている。それは、自分の身元を明かすことだ。逃走者ではなく、内部の人間として。もしアクセス権限が停止されていたら、正面玄関で捕まる。


「リスクは分かっている」


 瀬川が俺の視線に気づいて言った。


「でもシビュラの非公開モジュールに物理アクセスできるのは、ログ管理局のエンジニアだけ。私が行くしかないでしょ」


 技術面では俺より上。対等以上のパートナー。それは最初から分かっていた。分かっていたが、瀬川が自分の権限を賭けて正面から入ると言い切る時の目を見て、改めて思った。この女は俺より強い。


「時間を整理する」


 戸田が手帳を開いた。ペンを取り出した。


「陽動は正午。コミュニティの連中が地上に出る。ログ公安が対応に追われる。その間に、お前と瀬川が霞が関に向かう。本庁舎に入り、サーバールームにアクセスし、シビュラの非公開モジュールから証拠を取る。制限時間は——」


「ブランクを使わないなら、瀬川のアクセス権限が有効な間。それがいつまでかは分からない。でも陽動の効果が続くのは——」


「長くて一時間」


 戸田が断言した。


「一時間を超えると、ログ公安は人員を再配置する。陽動だと気づく。一時間以内に全てを終わらせろ」


 一時間。本庁舎に入り、B3階のサーバールームに到達し、非公開モジュールの運用ログを取得する。一時間。


「やれるのか」


 瀬川を見た。


「やるしかないでしょ」


 瀬川が薄く笑った。笑うと鋭い目が少しだけ柔らかくなる。


 戸田がメモ帳に書き込んでいた。時刻。手順。人員配置。記者時代の習慣が指に残っている。紙とペンで作戦を整理する男。ログに記録されない作戦計画。


「俺は陽動側に回る」


 戸田がペンを止めて言った。


「コミュニティの連中だけを地上に送り出すわけにはいかない。俺も出る」


「あんたが地上に出たら——」


「十二年ぶりの地上だ」


 戸田の目が一瞬、遠くを見た。廃駅の天井の向こう、コンクリートと土の向こうにある空を見ていた。


「息子のいる街に出る。ログ公安のビルがある街に出る。すれ違うかもしれない。すれ違わないかもしれない。どちらでもいい。同じ空の下にいるだけでいい」


 俺は何も言えなかった。


 最低の動機だ。息子に会いたいだけの老人の、最低の動機だ。だがその動機が、十二年間地下にいた老人を地上に押し上げる。正義では動かなかった体が、息子の名前で動く。


 戸田が立ち上がった。手帳をポケットに入れた。腰が少し曲がっている。慢性腰痛。だが足取りに迷いがなかった。


「コミュニティの連中に話してくる。決めるのはあいつらだ。俺は頼むだけだ」


 戸田がホームの奥に歩いていった。足音が遠ざかる。ハナが戸田の後を追った。


 俺と瀬川が残された。


 廃駅の裸電球がちらつく。ちらつくたびに、瀬川の投影ディスプレイの光が明滅する。


「戸田さん」


 瀬川が小さく言った。


「……まあいいけど」


 感情を切り上げる時の口癖。瀬川は技術者の顔に戻って、投影の図面を拡大した。


「B3階のサーバールームのレイアウトを推定する。IPレンジから逆算できる情報を全部使う。霧島さんは侵入経路を考えて。本庁舎の建物構造は公開情報があるはず——いや、地下ではアクセスできないか」


「戸田の手帳にあるかもしれない。あの人は霞が関の建物情報も集めていたはずだ」


「聞いてみて」


 瀬川の指が投影面を走り始めた。技術の話をしている時の瀬川は迷わない。


 俺はベンチに座ったまま、手のひらを見た。赤くない。深爪の指先は乾いている。今日、この手で何かを掴みに行く。


 残り二十一時間。

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