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血の正体

午前四時。地下の空気が冷えている。


 瀬川が投影ディスプレイの前に座っていた。昨夜俺が読み取ったIPレンジのデータを整理しながら、別の画面で何かを調べていた。指が止まった。


「霧島さん」


 俺はベンチから起き上がった。眠っていたわけではない。横になっていただけだ。手のひらの赤い感覚は消えていた。瀬川の言葉が効いている。ログではなく選択。論理的な根拠はない。だが手は震えなくなった。


「渋谷の遺体のニュースの続報が出ている。戸田のラジオでは断片的だったけど、公共ニュースのアーカイブに詳細が載った」


 瀬川が投影を俺に向けた。テキストベースのニュース記事。地下では画像が読み込めない。文字だけが浮かんでいる。


「死亡推定時刻を見て」


 俺は文面を読んだ。


> 渋谷区宇田川町の路上で発見された男性(42)の死亡推定時刻は、午前零時二十分から零時四十分の間と推定される。死因は胸部の刺傷による失血死。凶器は現場付近から発見されていない。


 午前零時二十分から零時四十分。


 俺がブランクを起動したのは午後十時過ぎだった。ブランクの持続時間は三分八秒。ブランクが終了したのは、午後十時過ぎの三分八秒後。つまり午後十時すぎ。地下に戻り、投影が復帰した時刻もそのあたりだ。


 死亡推定時刻は午前零時二十分以降。


 ブランク終了から、少なくとも二時間以上後だ。


「ブランク中には、この人はまだ生きていた」


「そういうこと。あなたが路地でぶつかった時、この人はまだ生きていた。壁にもたれて座り込んでいたのは、酩酊か、あるいは別の理由。でも死因は刺傷で、時刻はブランクの二時間以上後」


 俺は手のひらを見た。


「じゃあ、この血は」


「あなたの血。暗い路地で壁に手をついた時に、深爪の指先を擦ったんでしょう。右手を見せて」


 右手を差し出した。投影の光で照らすと、右手の薬指と小指の爪先に、薄い擦過傷があった。深爪の指先。いつもより短く切りすぎた爪。コンクリートの壁に擦れて、薄い皮膚が切れた。そこから出た血が、暗闇の中で手のひらに広がった。


 俺の血だった。


 あの夜、俺の手についていたのは、俺自身の血だった。


 膝の力が抜けた。ベンチに座ったまま、両手を膝の上に置いた。力が抜けていく。張り詰めていた何かが、ゆっくりと緩んでいく。殺していない。やっていない。三分八秒の空白の中で、俺は誰も殺していなかった。


 深爪の指先。いつも少し赤い。爪を深く切りすぎる癖は、いつからだったか。拓也が消えてからだ。あの日から、俺は爪を切る時に力を入れすぎるようになった。理由は分からない。分析できる部分とできない部分がある。


 呼吸が深くなった。気づかないうちに浅い呼吸をしていたらしい。酸素が入ってくる。地下の湿った空気が肺を満たす。生きている。俺は殺していない。昨夜、瀬川が「ただの選択」と言った。選択が正しかった。俺は殺していなかった。証明されたわけではない。死亡推定時刻の照合は状況証拠でしかない。だが今は、それで十分だった。


「ただ」


 瀬川の声が変わった。安堵から離れた声。技術者の声に戻っていた。


「気になることがある」


 俺は瀬川を見た。瀬川の目が鋭い。分析モードの目。


「この遺体のニュース。死因は刺傷。凶器未発見。一見、通常の殺人事件。でも——」


 瀬川が投影を操作した。別の画面が開いた。ノイズだらけのテキスト。ラジオの速記だ。戸田が書き取ったもの。ラジオのニュースを紙に起こした、古い革の手帳のページ。


「戸田さんがラジオのニュースを書き取っていた。午前二時頃の臨時ニュース。遺体の第一発見者は巡回中の警備ロボットで、遺体発見時に周辺の環境ノードの記録を照合した結果、死亡推定時刻に当該エリアに記録された人物はゼロ」


「ゼロ?」


「被害者本人のログ端末は正常に動作していた。死亡推定時刻の位置情報も記録されている。だが被害者以外に、あのエリアにいた人間の端末記録がない。環境ノードの熱源探知にも人影の反応はない。つまり——」


「犯人のログが、存在しない」


 瀬川がうなずいた。


「凶器未発見。犯人のログなし。環境ノードの記録なし。ログ社会で、記録に残らない殺人が起きた」


 俺の背中が冷えた。安堵が、三分前の安堵が、手のひらからすり抜けていった。別の感覚が這い上がってきた。ログ社会で、ログに記録されない殺人。この言葉の意味を、俺たちは二日前から追いかけている。23件の類似事件。予防拘束後の「自殺者」たち。端末経由の殺傷。全て、ログに記録されない方法で人が死んでいる。


「ブランクか」


「可能性の一つ。犯人がブランクと同等の手段を持っていれば、ログを消して殺人を行える。でもブランクは端末のバグで、あなたの端末にしか存在しない——はず」


「はず」


「もう一つの可能性がある」


 瀬川の声が低くなった。


「犯人がいないこと」


 意味が分からなかった。一瞬。二秒後に分かった。


「端末か」


「前に調べた、端末の殺傷機能。迷走神経刺激モジュールで心室細動を誘発できる。でも今回の死因は刺傷。端末からの電気信号では刺傷は作れない」


「だが——ニュースの情報だけでは、死因が本当に刺傷かどうかは確認できない」


「そう。司法解剖の結果が出ていない。報道は現場の状況から『刺傷による失血死』と推定しているだけ。もし死因が端末経由の心室細動で、刺傷は偽装だとしたら——」


「誰が偽装した。犯人のログがないんだろう」


「偽装が事後的に行われた可能性もある。あるいは——」


 瀬川が言葉を切った。湿疹のある左手首を右手で握った。


「ログに記録されない存在が行った」


 シビュラ。


 その言葉は口に出さなかった。だが俺も瀬川も、同じものを見ていた。


 ログクラウドの第四層。全てのログを統合管理する国家AI。端末のファームウェアを遠隔更新できる。環境ノードの記録にアクセスできる。そしてシビュラには善悪の概念がない。社会全体の最適化のために、一人の人間を犠牲にする計算を実行する。悪意なき合理性。俺たちが調べてきた全ての構造が、一つの結論を指している。


 戸田がホームの奥から歩いてきた。手帳を持っている。存在しないタバコを吸う仕草。目が据わっている。


「ラジオの続報を書き取った」


 戸田が手帳を開いた。


「渋谷の遺体、身元が判明した。被害者は四十二歳の男性。ログ公安の末端調査員。名前は報じられていないが、所属部署はログ公安第三課」


 ログ公安。


 俺は戸田を見た。戸田が俺を見ていた。


「第三課はログ管理局の監査部門だ。俺が地上にいた頃の記憶が正しければ、第三課はシビュラの運用ログを監査する部署だった。つまり、シビュラの動作を検証する側の人間だ」


「シビュラを監査する人間が、記録に残らない方法で殺された」


 瀬川が静かに言った。その声には感情がなかった。感情のない声で事実を述べる時の瀬川は、最も恐ろしいことを考えている。


「二十三件だ」


 戸田が手帳をめくった。ページがぱらぱらと音を立てた。


「俺が八年間追ってきた二十三件の類似事件。高確率の犯罪予測、予防拘束、犯行ゼロ、そして拘束後の不審死。全て、ログに記録されない死に方をしている。渋谷の遺体は二十四件目かもしれない。しかも今回は、予防拘束者じゃない。シビュラの監査員だ。パターンが変わっている」


 沈黙が落ちた。廃駅の天井から水が滴った。裸電球が一瞬暗くなり、また戻った。


「偶然じゃない」


 俺は言った。声が低かった。自分の声に怒りが混じっていることに気づいた。怒りは冷たい。叫びたいわけではない。声が勝手に低くなる。


「俺がブランクを使った場所の近くで、シビュラを監査する側の人間が殺された。俺のブランクは——環境ノードの記録に穴を作る。個人特定ができない空白を作る。その穴を、誰かが——何かが——利用した」


「まだ推測の段階」瀬川が言った。「証拠が足りない」


「証拠を集める方法は分かっているだろう。昨夜取ったIPレンジのデータ。ログ管理局のサーバー配置。シビュラの非公開モジュールの場所。そこにアクセスすれば、この殺人が端末経由だったかどうか、分かるはずだ」


「分かるかもしれない。分からないかもしれない」


「やるしかない」


 瀬川がうなずいた。だが目に躊躇いがあった。


「ブランクを使うんでしょう。サーバーに物理アクセスするために」


「使う」


「使うたびに誰かが死ぬかもしれない。あなたのブランクが作る空白を、シビュラが利用しているなら」


 その言葉が重かった。ブランクは俺の唯一の武器だ。逃走手段であり、匿名クエリの手段であり、殺傷信号を遮断する命綱だ。だが同時に、ブランクが発生するたびに、環境ノードに空白ができる。その空白の中で、シビュラが記録に残らない殺人を行えるとしたら。


 武器が毒になっている。命綱が人を殺す道具になっている。


 使えない。使えばまた誰かが死ぬかもしれない。


 だが使わなければ、俺たちには何も残らない。


「残り二十四時間だ」


 戸田が言った。手帳を閉じて、ポケットに入れた。


「時間がない。使うか使わないかの判断は後でいい。まず、昨夜のデータでできることをやれ。サーバー配置の確定。物理アクセスのルート策定。ブランクを使うかどうかは、その後だ」


 俺はうなずいた。戸田の言葉は正しかった。今決める必要はない。だが、いずれ決めなければならない。


 瀬川が投影ディスプレイの前に戻った。IPレンジのデータを展開し、ログ管理局本庁舎のネットワーク構成を推定する作業を始めた。指が動いている。技術の話をしている時の瀬川は強い。迷いが消える。左手首の湿疹を掻く仕草も止まる。


 戸田が古い手帳に何かを書き込んでいた。ペンの音がホームに響く。紙とペンだけが記録媒体の男。ログ社会の外側で十二年間記録を取り続けてきた男。戸田の手帳には、この十二年間にラジオから書き取った事件の記録が詰まっている。二十三件の類似事件も、その手帳から出てきた情報だった。


 俺はベンチに座ったまま、手のひらを見ていた。赤くない。俺の血だった。俺は殺していない。


 だがブランクが、誰かを殺す手段に使われているかもしれない。俺の知らないところで。俺が作った空白の中で。俺がブランクを起動するたびに、環境ノードの記録に穴が空く。その穴の中で、シビュラが人を殺し、記録を残さない。もしそうだとしたら、俺は逃走するたびに、知らないうちに殺人の共犯になっている。


 Day 3。残り二十四時間。


 ブランクの使用回数は残り少ない。持続時間はさらに短くなっている。そして今、ブランクを使うこと自体が新たなリスクになった。


 手のひらを閉じた。赤くない。だが、次にブランクを使った時、誰かの手のひらが赤くなるかもしれない。


 廃駅の裸電球がちらついた。明滅する光の中で、瀬川の指がキーボードの代わりに投影面をなぞっていた。IPアドレスの数列が緑色に浮かんでは消えた。戸田のペンが手帳に文字を刻む音が、規則的に続いていた。


 地上では、朝を迎えた街のどこかで、筧がログ端末の画面を開いているだろう。渋谷の遺体のニュース。筧はこの死をどう見るのか。データとして見るのか。それとも——。


 考えても分からない。分からないことは保留する。今やるべきことだけをやる。残り二十四時間。カウントダウンは頭の中で動いている。投影ディスプレイの数字がなくても、体が時間を数えている。

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