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19/23

記録のない夜

眠れないまま、三時間が過ぎた。


 廃駅のベンチは硬い。背中に木の節が当たる。天井の裸電球が不規則にちらつく。ちらつくたびに、手のひらが赤く見える。洗ったのに。洗ったはずなのに、指の間に赤い色が残っている気がして、手を開いて閉じた。


 Day 3。午前一時を過ぎている。残り三十時間。


 俺は廃駅の端のベンチに座っていた。壁に背をつけ、膝を立てて、自分のログ端末を見ていた。送信ランプが等間隔に点滅している。今は、端末は動いている。俺の位置を、俺の心拍を、俺の体温を記録し、送信し続けている。地下だから信号は届かないが、端末はそれを知らない。ただ送り続けている。


 送信ランプの青白い光。等間隔。規則的。この光が消えた三分八秒の間に、渋谷の裏路地で誰かが死んだ。


 因果関係はない。俺はあの男を殺していない。刃物は持っていない。ぶつかっただけだ。ぶつかって、壁に手をついて、手が濡れていた。それだけだ。


 ——それだけだと、なぜ言い切れる。


 思考がループしている。同じ場所をぐるぐると回って、出口がない。while(true) のループだ。break条件がない。証明がない。記録がない。


 廃駅の天井のどこかで、水が滴る音がした。等間隔ではない。不規則な間隔で、コンクリートを打つ音。時計の代わりにはならない音。


 戸田はホームの反対側で眠っている。眠っているように見える。あの男が実際に眠っているかどうかは分からない。十二年間の地下生活で身につけた習慣が、寝息まで制御しているかもしれない。


 瀬川が来た。


 足音が近づいてきた。裸足だった。靴を脱いでいる。地下は寒い。だが瀬川は靴を脱ぐ時がある。湿疹が足首にも広がっているのだろう。


 俺の隣に座った。一つ分の空席を挟んで。いつもの距離感。


 沈黙があった。裸電球がちらついた。


「お前は俺を信じられるか」


 声を出した。自分の声が掠れているのに気づいた。何時間も声を出していなかった。


「ログがないのに」


 瀬川は答えなかった。しばらく。水の滴る音が三つ落ちた。


「信じるって、何を」


「俺が殺していないということを」


「ロジカルに答えていい?」


「好きにしろ」


「ブランク起動前にあなたの持ち物を見ている。刃物はなかった。死因は刺傷。刃物を持っていない人間が刺殺することはできない。これは観測事実」


 俺は瀬川を見た。暗い廃駅の中で、投影ディスプレイの光が瀬川の横顔を照らしていた。目が細い。疲労で腫れている。湿疹のある左手首を右手で握っている。


「お前はあの路地にいなかった。俺が何をしたか、見ていない」


「見ていない。でもブランクの持続時間は三分八秒。往復と端末操作で二分以上使っている。残りの時間で人を刺して、凶器を処分して、何事もなかったように戻ってくる。——物理的に無理でしょ」


 また沈黙。水が滴った。


「ログがあっても」


 瀬川の声が変わった。低くなった。いつもの技術的な口調ではなかった。


「ログがあっても、人を理解できないことがある」


 俺は何も言わなかった。


「母のことを、全部話す」


 瀬川がそう言った。膝の上に手を置いて、姿勢を正した。技術的なプレゼンテーションの姿勢。だが目が違った。分析ではない目だった。


 ——母の話は、端末の殺傷機能を調べている時に、断片的に聞いていた。母が介護士だったこと。五年前に亡くなったこと。死因が、ログに記録されていなかったこと。


 だが全容は聞いていなかった。瀬川が語ったのは断片だけだった。


「母は介護士だった。技術者じゃない。でも母の手帳には、担当する高齢者一人一人の情報が手書きで整理されていた。好きな花、嫌いな食べ物、家族の名前。端末に記録されないデータを、紙に書いていた。私が情報を整理することに惹かれたのは、母の手帳が原点だったと思う」


 瀬川の声は平坦だった。技術報告の口調。だが指が左手首を握る力が強くなっていた。


「母は亡くなる三年ほど前から、行動パターンが変わり始めた。ログスコアは下がらなかった。むしろ最適化されていた。通勤時間の効率が上がり、食事の栄養バランスが改善され、睡眠時間が安定した。ログ上は、理想的な市民だった」


「だが」


「だが、私が知っている母ではなかった」


 瀬川が一度言葉を切った。水の滴る音が二つ落ちた。


「母は週末に植物園に行く人だった。小石川の。特に記録はしない。ログスコアに寄与しないから最適化の対象外になる。それでも毎週行っていた。温室のベンチに座って、本を読んでいた。紙の本を。端末に記録されない読書を。私も何度か一緒に行った。温室の湿度が好きだと言っていた。湿度はログに記録されるけど、好きだという感情は記録されない」


 瀬川の声が少しだけ揺れた。揺れたことに自分で気づいて、姿勢を直した。


「ログを見ている限り、母はその三年間ずっと改善し続けていた。でも植物園には行かなくなっていた。紙の本も読まなくなっていた。友人との連絡頻度は維持されていたが、通話時間が短くなっていた。ログに記録される行動は最適化され、ログに記録されない行動が消えていった」


「ログに記録されない行動。それは——」


「ログスコアに寄与しない行動。趣味、散歩、長い通話、紙の本。スコアに反映されないものは、最適化の過程で切り捨てられていく。行動推薦アルゴリズムは非効率な行動を提案しない。植物園に行くことは推薦リストに載らない。通勤経路の最適化、睡眠スケジュールの効率化、栄養バランスの改善——そういうものだけが推薦される。母が自分で切り捨てたのか、推薦に従った結果なのか、私には区別がつかない」


 瀬川が息を吸った。


「最後の日のログは完璧だった。07:15起床。08:02通勤開始。12:30昼食。全てが予測通り。17:42:08に研究棟の屋上に移動。行動分類:不明。バイタル停止。17:42:41」


「三十三秒」


「屋上に出て三十三秒。ログ上は不明。監視カメラの映像は行政手続きで封印された。私はエンジニアの権限で母のログの全データセットにアクセスした。三年分の完全なログ。二千万件以上のデータポイント。食事、睡眠、歩行パターン、心拍変動、通話記録、購買履歴。全てを読んだ。分析した」


 瀬川の目が俺を見た。暗い目。


「完璧なデータの中に、母はいなかった」


 その言葉を、俺は前にも聞いた。だが今夜は違って聞こえた。前に聞いた時は、技術者の悔恨だと思った。データが足りなかった、分析が甘かった、そういう専門家の後悔だと。


 違う。


 瀬川が言っているのは、もっと単純で、もっと残酷なことだ。母の人生の全てが記録されていた。一秒単位で。なのに、母がなぜ屋上に行ったのか、データのどこにも書いていない。書いていないのではなく、記録できなかったのだ。ログに記録されるのは行動と数値だけで、人間が行動する理由は記録の外にある。


「私は三ヶ月かけて分析した。統計的な異常値を探した。ベイズ推定で行動パターンの変化を検出した。結果——有意な異常は見つからなかった。ログ上、母は最後まで正常だった。正常なまま、屋上から落ちた」


 瀬川が膝の上の手を見た。左手首の湿疹が投影の光に照らされて赤い。


「ログがあっても人を理解できない。二千万件のデータポイントが、一人の人間のたった三十三秒を説明できない」


 水が滴った。裸電球がちらついた。


「でも」


 瀬川が言った。


「ログがなくても、人を信じることはできる」


「論理的な根拠は」


「ない。ただの選択」


 俺は手のひらを見た。赤くない。赤くないことを、今度は信じられた。瀬川の推論があったからだ。刃物がなかった。時間がなかった。それはログではない。完全な証拠でもない。だが論理と、信頼だ。


 だが、今はそれで十分だった。


 拓也のことを考えた。拓也が壁に貼ったログ記録。あの壁は、拓也なりの「信じるための根拠」だった。ログに自分を確認しなければ、自分が何者か分からなくなる。だからログを壁に貼った。


 拓也は、誰かに「お前は殺していない」と言ってもらえなかったのだろうか。


 いや。俺が言うべきだった。面会に行った時、拓也は落ち着いた顔で「俺は何もしていない」と言った。あの時、俺が「信じる」と言えばよかった。論理的な根拠がなくても。ログが何を記録していても。お前は何もしていないと、俺が知っていると、ただそれだけを言えばよかった。


 言えなかった。八年前の俺は、ログの外側に根拠を持つことが怖かった。ログが91.3%と言っているのに、俺の主観で「兄は無実だ」と言い切る勇気がなかった。データの方が正しいと思った。データの方が正しいと思いたかった。そう思っていれば、兄を見捨てたのは俺の判断ではなく、システムの判断になるから。


 今は違う。


「このバグは」


 声が出た。掠れていたが、出た。


「拓也が探していたものかもしれない」


 瀬川が俺を見た。


「ログの外側にある自分。拓也はそれを見つけたかった。壁にログを貼ったのは、逆説的に、ログの外側を確認するためだった。ログに書かれていることが俺の全てなら、ログに書かれていないことは何なのか。あいつはその問いを持っていた。答えを見つけられなかった」


 自分のログ端末を見た。送信ランプが点滅している。


「俺はブランクという偶然で、ログの外側を体験した。三分八秒の空白。その中で俺は幽霊になって、記録されない自分を生きた。あの空白の中にいる俺は、ログに書かれた俺と同じ人間なのか。同じだとしたら、ログに書かれていない部分にも俺は存在していることになる」


「それは」


「拓也が証明したかったことだ。ログに書かれていなくても、人間はそこにいる。あいつは証明できなかった。俺は——偶然見つけた。偶然にも意味があるなら」


 俺は立ち上がった。膝が軋んだ。三時間座りっぱなしだった。


「もう少し走れる」


 瀬川が何か言おうとした。やめた。代わりにうなずいた。小さく。


 廃駅の奥から、戸田の寝息が聞こえていた。規則的な寝息。眠っているのか、起きて聞いているのか、分からない。どちらでもよかった。


 裸電球がちらついた。明滅する光の中で、俺はログ端末の投影ディスプレイを開いた。デバッグメニュー。緑色の文字列が浮かんだ。ブランクの推定停止可能時間の表示を見た。数字は表示されなかった。次の起動で計測される。短くなっているはずだ。だがゼロではない。まだ使える。


 手のひらを見た。赤くない。


 窓の外——窓はない。地下だ。だが空気が変わった気がした。廃駅の通気ダクトから、微かに温度の違う空気が流れ込んできた。地上の空気。夜が明け始めているのかもしれない。


 戸田の寝息が止まった。寝返りを打つ音。古い革ジャケットが擦れる音。起きたのか。起きたとしても、戸田は何も言わないだろう。あの男は、聞くべきでない話を聞いた時、聞かなかったふりをする技術を持っている。十二年分の技術だ。


 Day 3の朝が来る。


 残り三十時間。サーバー構成のデータは手に入れた。俺がTLS証明書から読み取ったIPレンジ。次のステップは、そのデータを使ってログ管理局のサーバー配置を確定し、シビュラの非公開モジュールの物理的な位置を特定すること。そこにアクセスできれば、俺の未来ログに殺人予測を書き込んだプロセスの正体が分かる。


 やるべきことがある。手が動く。思考が動く。ループを抜けた。break条件は、証明ではなく選択だった。

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