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18/23

空白の中の犯罪

午後十時を過ぎていた。


 廃駅の壁掛け時計がそう示していた。Day 2の夜。逃走開始から三十九時間が経っている。残り三十三時間。頭の中の計算は動いている。壁掛け時計と、体感と、それだけで十分だ。三十三時間。


 瀬川がホームの隅で何かを分析していた。さっきのクエリのレスポンスデータを、受信バッファから端末のローカルに展開して読んでいたらしい。その投影を閉じて言った。


「ログ管理局のサーバー構成が一部だけ見えた。さっきのクエリのレスポンスに含まれていたメタデータから、シビュラの非公開モジュールがどの物理サーバーに配置されているか推定できる。でも確定するには、もう一つデータが必要」


「何のデータだ」


「管理局本庁舎のネットワーク構成図。内部ネットワークの物理配置は外部からは取れない。公共端末のログ管理局ポータルにアクセスすれば、認証画面のTLS証明書チェインからサーバーのIPレンジが分かる」


「日本語で」


「地上に出て、公共端末に触る必要がある」


 俺は瀬川を見た。左手首を右手で握っている。湿疹が赤くなっている。掻いた痕だ。


 地上に出る。今の俺たちにとって、その言葉の重さは最初の夜とは違う。ラジオのニュースが「協力者の存在」を報じた。筧が何かを掴んでいる。地上は、前よりも危険だ。


「ブランクを使う」


 俺は言った。


「持続時間が短くなっている。前回は四分十二秒。次は分からない」


「三分を切るかもしれない」


「切るかもしれない。それでも、地上で公共端末に触る時間は確保できる。一分あれば十分だ」


 瀬川がうなずいた。目が鋭かった。技術の話をしている時の目だ。


 戸田がホームの奥から歩いてきた。カーキのジャケットのポケットに手を突っ込んだまま。存在しないタバコを吸う仕草。


「夜に地上に出るのか」


「短時間だ。ブランクを使う」


「三回目だろう。残りの持続時間は」


「不明だ」


 戸田の目が俺を見た。若い目。十二年分の暗闇に慣れた目。


「使うたびに短くなるんだろう。使い切ったらどうなる」


 答えなかった。答える必要もなかった。使い切ったら、ブランクは消える。俺のログ端末は通常に戻る。逃走手段が消える。それだけじゃない。ブランクが消えれば、端末経由の殺傷信号も遮断できなくなる。


「行く」


 俺は立ち上がった。


 瀬川が隣に立った。半歩の距離感。


「一人で行く」


「私も——」


「駄目だ。お前のログ端末は生きている。地上に出れば位置情報が記録される。深夜の渋谷の裏路地にお前のログが残ったら、筧が翌朝には座標を割り出す」


 瀬川が口を閉じた。数秒の沈黙。反論しなかった。技術者だから分かっている。ブランクは俺の端末だけに効く。瀬川の端末は通常通り送信し続ける。


「手順を教えるね。公共端末のログ管理局ポータルにアクセスして、接続先のTLS証明書チェインを開く。サーバー証明書の詳細情報からIPレンジを読み取る。それだけ」


「それだけか」


「それだけ。四十秒あればできるでしょ。画面遷移は三回。ポータルトップ→認証画面→証明書の詳細表示。認証画面でログインする必要はない。証明書チェインは接続時点で取得できるから」


 瀬川が投影ディスプレイに画面遷移の手順を表示した。三つの画面のスクリーンショット。どこをタップするか、赤い丸で示してある。


「覚えた」


「復唱して」


 復唱した。瀬川がうなずいた。


 戸田がメモ帳に何かを書き付けた。古い革の手帳。紙とペンだけが記録媒体の男。


「気をつけろ。夜の渋谷はドローンの巡回が減るが、巡回犬は逆に増える。音を立てるな」


 俺はうなずいた。戸田の情報源は十二年分の観察と、地上の協力者だ。古いが、無価値ではない。


 廃駅の通路を抜け、旧地下鉄のトンネルを南に進んだ。換気ダクトが地上に通じるポイントを、瀬川が前回の探索で見つけていた。鉄製の梯子は錆びていたが、体重を支えるだけの強度は残っていた。ダクトの蓋を押し上げ、地上に出た。


 夜の渋谷。


 地上に出た瞬間、空気が変わった。地下の湿った空気から、夜の街の乾いた空気へ。街路灯の光が白い。センサーノードのレンズが等間隔に光っている。配送ドローンの姿はない。深夜の配送は別のルートを使う。


 通行人はまばらだった。ログ社会の夜は早い。行動パターンが最適化された市民は、生産性の低い深夜の外出を避ける。ログスコアに反映されるからだ。地下にいる間に忘れていた。この街は記録されている。


 裏路地の奥に、公共端末のタワーが見えた。災害時用の情報端末。ログ端末の認証なしでも基本機能にアクセスできる。ただし操作ログは環境ノード経由で記録される。ブランク中に操作すれば、操作者の特定はできないはずだ。端末まで約五十メートル。


 俺はデバッグメニューを開いた。緑色の文字が投影面に浮かんだ。深爪の指先が赤い。前回より爪が短くなっている。無意識に切りすぎた。


 推定停止可能時間の表示を見た。


> 推定停止可能時間:3:08


「三分八秒」


 前回から六十四秒短い。短縮の加速度が上がっている。瀬川が言っていた通りだ。端末の自己修復機能がバグを学習している。次の使用ではもっと短くなる。


 三分八秒。ブランクを起動して公共端末に走り、操作して、戻る。三分八秒でできるか。次がもっと短くなるなら、使える回数は残り少ない。


 瀬川が教えた手順なら四十秒。往復に一分。計算上は余裕がある。


 余裕。その言葉が正しいかどうか、実測するまで分からない。推定値は前回も実測とずれていた。俺が操作する。瀬川ほど速くはない。だが画面遷移は三回だ。できる。


 起動コマンドを入力した。


「行くぞ」


 起動。


 投影が消えた。送信ランプが消灯した。手首のログ端末が沈黙した。三回目のブランク。三回目の幽霊。


 走った。


 裏路地を抜けて公共端末に向かう。足音が一つ。ログに記録されない足音。深夜の渋谷の裏路地に、俺の足音だけが響く。


 公共端末の前に着いた。画面に触れた。ログ管理局のポータル画面。瀬川が教えた通り、認証画面に遷移する。ログインはしない。接続先のTLS証明書チェインを開く。サーバー証明書の詳細情報。IPレンジが表示された。数字を目で追う。記憶する。瀬川のようには速くない。だが手順は三回だ。


 街路灯のセンサーノードが光っている。環境ノードは「人がいる」ことを検知するが、ブランク中なら個人を特定できない。だが深夜のこの裏路地に人がいれば、それ自体が不自然な反応として記録される。


 四十秒。取れた。


 戻る。公共端末から離れ、裏路地を走った。換気ダクトの入口に向かう。


 その時だった。


 暗い路地の角を曲がった瞬間、何かにぶつかった。


 衝撃。体が横に揺れた。右手を壁についた。足元に何かがある。柔らかい。人の体だ。暗がりの中で、誰かが壁にもたれるように座り込んでいた。


 俺の右手が壁から滑った。壁の表面が濡れている。


 地面に膝をついた。手のひらに濡れた感触があった。温かい。コンクリートの冷たさの中に、明らかに体温のある液体が広がっていた。


 暗くて見えない。投影ディスプレイは消えている。ブランク中だ。照明がない。街路灯の光は路地の奥まで届かない。手のひらの濡れた感触だけが、暗闇の中で確かに存在していた。


 壁にもたれた人間は動かなかった。声も出さなかった。


 時間がない。


 頭の中でカウントが動いていた。三分八秒の残りが削れていく。


 俺は立ち上がった。手のひらが濡れている。右手。何かの液体。温かい。


 走った。換気ダクトに戻った。梯子を降りた。地下に入った。


 ブランクが終わった。


 投影ディスプレイが復帰した。送信ランプが点灯した。青白い光が手の甲を照らした。


 右手を見た。


 血だった。


 手のひらに血がついていた。赤い。暗いトンネルの中でも、投影の光が照らす手のひらは赤かった。


 俺の血ではなかった。深爪の指先から出た血とは量が違う。もっと多い。もっと濃い。指の間に入り込んで、手相の線に沿って広がっていた。


 手が震えた。


 あの人間は生きていたのか。死んでいたのか。暗がりの中で座り込んでいた人間。俺がぶつかった時、何か声を出したか。出さなかったか。覚えていない。ブランク中の暗闇で、すべてが曖昧だ。


「霧島さん」


 瀬川がトンネルの奥から走ってきた。梯子の下で待っていたのだ。投影ディスプレイの光が俺の手を照らした。瀬川の目が止まった。


「これは」


「分からない。路地で誰かにぶつかった。暗くて見えなかった」


「あなたの血?」


「違う」


「IPレンジは」


「覚えている」


 瀬川はそれ以上聞かなかった。俺の手を見ていた。


 廃駅に戻った。手を洗った。地下水道の水で、何度も。血は落ちた。だが手のひらの感触が残っていた。温かくて濡れた感触。手を開いて閉じて、開いて閉じた。感触が消えない。


 眠れなかった。


 廃駅のベンチに横になったが、天井の裸電球がちらついているのか、目蓋の裏で赤い光が明滅した。赤い。手のひらの赤。


 翌朝のニュースが入った。


 戸田のラジオが、ノイズの中から断片的に声を拾った。


「——渋谷区宇田川町の路上で、男性の遺体を発見。死因は——刺傷——午前零時頃に発見——」


 渋谷区宇田川町。


 俺がブランク中に走った裏路地のエリアだ。


 手が震えた。今度は投影ディスプレイが揺れるほどだった。


 路地の角で倒れていた人間。手のひらの血。刺傷で死亡した男性の遺体。


 俺がやったのか。


 ブランク中だ。記録がない。ログに何も残っていない。俺が何をしたかを証明するデータがない。俺が何をしなかったかを証明するデータもない。


 思考が崩壊した。積み上げたブロックが一つずつ外れていく感覚。分析しようとする。できない。何を分析する。手のひらの血の量から、出血源を推定する。推定して何になる。暗闇の中で見えなかった。何も見ていない。


 あの路地で何があった。俺は誰かにぶつかった。ぶつかっただけだ。刃物は持っていない。殺す理由がない。


 だが、ブランク中に何が起きたか、俺自身は完全には知らない。三分八秒の空白。その中で俺が何をしたか。記録がない。記憶はあるが、記憶は信頼できるのか。暗闇の中で、一瞬の出来事を、正確に覚えているのか。


 端末で人を殺せる。迷走神経刺激モジュールで心室細動を誘発できる。だがそれは端末経由の外部信号だ。俺が自分の手で殺したわけでは——。


 いや。もしブランク中に、シビュラが俺の体を誘導して——。


 ブランクは行動誘導を遮断するはずだ。端末の送信機能が停止している間、外部信号は届かない。だがそれは本当か。ブランクが本当に誘導信号を遮断しているかどうか、検証したことはない。デバッグメニューの仕様通りなら遮断されるが、仕様が正しいかどうかは分からない。仕様を書いた人間が、意図的に虚偽の仕様を——。


 思考が手順を失った。再起動の方法が分からない。


「霧島さん」


 瀬川の声が遠くから聞こえた。遠くにいるわけではない。目の前に立っている。声が遠い。


 俺は廃駅のベンチに座っていた。両手を膝の上に置いて、手のひらを見ていた。血は洗い落とした。だが赤い気がした。見えない赤。


「ログがなければ」


 瀬川が俺の前に立った。声が低かった。


「ログがなければ、あなたは自分が殺していないと、どうやって証明するの」


 答えられなかった。


 拓也の部屋を思い出した。壁一面に貼られたログ記録。起床時刻。歩数。心拍数。あの光景を狂気だと思っていた。ログに自分を確認しなければ生きていけないのは病気だと。


 今なら分かる。あれは病気じゃない。


 記録がなければ自分が何をしたか分からなくなる。記録がなければ自分が何者か証明できない。拓也が壁に貼ったログは、自分が自分であることの最後の砦だった。


 俺は今、その砦を持っていない。


 三分八秒の空白の中に、俺という人間の信頼性の全てが消えた。


 瀬川が何か言った。聞こえなかった。


 手のひらを見ていた。赤くない。赤くないはずだ。洗ったのだから。


 戸田がラジオの前に座ったまま、こちらを見ていた。存在しないタバコを吸う仕草。目だけが鋭い。何かを言おうとして、やめた。戸田にも分からないのだ。俺が殺したのかどうか。ログがなければ、誰にも分からない。


 俺自身にも。


 残り三十三時間。


 だが時間の問題ではなくなっていた。

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