87.2%の夜
官舎のドアを開けると、靴箱の上に娘の赤い靴があった。
右足だけ。左足は見つからなかった。七年間見つかっていない。
筧俊哉はスーツのまま玄関に立った。革靴を脱ぐ前に、赤い靴を見た。毎晩のことだった。帰宅するたびに見る。見ることが儀式になっている。見なければ、何かが壊れる気がする。何が壊れるかは分からない。分かりたくない。
靴を脱いだ。磨き上げた黒い革靴を靴箱の一段目に揃えた。赤い靴は靴箱の上。段が違う。混ぜない。
2LDKの官舎は静かだった。リビングの投影ディスプレイが自動で点灯し、未読の通知が三件表示された。筧は無視して、廊下の奥に向かった。
子供部屋のドアを開けた。
ピンクの壁紙。沙織が選んだ色だった。家具はない。ベッドもない。結が使うはずだった部屋に、結が使うはずだったものは何一つない。壁紙だけが、ここが子供部屋であるべきだったことを記憶している。
筧は部屋の真ん中に立った。
毎晩、この部屋に立つ。一分間。それ以上は立たない。一分が限度だ。一分を超えると、赤い靴の左足のことを考え始める。左足がどこにあるか。あの通り魔の刃物がどこに当たったか。結が最後に何を見たか。
四十五秒。
筧は部屋を出た。ドアを閉めた。
キッチンに立った。冷蔵庫を開ける。じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、豚肉の薄切り。配送ドローンが届けた食材が、真空パックのまま並んでいた。筧は肉じゃがの材料だけを取り出した。
投影ディスプレイを消した。
手首のログ端末が微かに振動して通知を伝えたが、無視した。じゃがいもの皮を剥く。沙織のレシピは頭に入っている。ログに記録する必要はない。この料理の作り方は、筧の手が覚えている。
包丁がじゃがいもの固い表面に当たった。均一な厚さに切る。四分の一。沙織は八等分にしていた。筧は四等分にする。理由はない。沙織のレシピ通りにしないことで、沙織の料理とは違うものを作っている、と自分に言い聞かせている。完全に同じものを作ったら、それは追悼ではなく再現になる。再現された料理の前で、空席が耐えられない。
にんじんを乱切りにした。玉ねぎを櫛形に切った。鍋に油を敷いて、肉を炒めた。
投影は消えている。手首の端末は沈黙している。この調理の記録はログに残っているが、レシピの詳細——砂糖を先に入れること、醤油は二回に分けて加えること——は記録されない。行動分類は「調理」。それだけだ。沙織のレシピの微妙な手順は、ログの解像度の外にある。
87.2。
にんじんを切る包丁の刃が、まな板を叩く音だけが響いていた。その静けさの中で、数字が浮かんだ。
2055年8月14日。午後二時二十三分。品川区中央通り。
沙織は結を連れて買い物に出ていた。筧は指揮室にいた。当時はまだ通常の捜査部門だった。ログ公安への異動は事件の後だ。
最初に届いたのはニュース速報だった。品川区中央通りで刃物を持った男が通行人を襲撃。四名死亡。犯人は現場で確保。
四名。
筧は端末で沙織のログを呼び出した。位置情報が品川区中央通りで止まっていた。バイタルデータが——停止していた。心拍ゼロ。二人とも。沙織と結。二つのバイタルが同時にゼロを示していた。
筧はそのデータを十五秒間見つめた。十五秒後に席を立ち、上司に一言だけ言った。「早退します」。上司は何も聞かなかった。筧の顔を見れば分かったのだろう。
現場に着いた時、検証は終わりかけていた。路面の血痕はもう洗浄剤で処理されていた。清掃ロボットが端で待機していた。筧は一時間立っていた。何を探していたのか分からない。足元に赤いものが見えた。結の靴だった。右足だけ。
左足は見つからなかった。現場検証の報告書にも記載がない。おそらく救急車に乗せた時に——。
筧はそれ以上考えないことにしている。
犯人の名前は覚えていない。覚えないことにしている。犯人に名前があると、犯人が人間になる。人間が87.2パーセントで見逃されたことになる。数字を見逃したのは人間ではなく閾値だ。閾値を見逃したのはシステムだ。システムに責任があるなら、システムを完璧にすることで二度と起きない。
その論理の連鎖が、筧の七年間を支えていた。
犯人が人間であれば、この論理は成り立たない。人間は予測できない行動をする。予測できない行動に対して、システムは無力だ。システムが無力なら、沙織と結の死は防げなかった。防げなかったのなら、あの二人の死には意味がない。ただの不運だ。不運なら、誰のせいでもない。
誰のせいでもないことに、筧は耐えられない。
だから犯人は数字でなければならない。87.2。名前ではなく、数字。確率で処理された脅威。閾値に届かなかった事象。
鍋に出汁を加えた。砂糖を先に入れた。手が覚えている。
肉じゃがが煮える音が、静かなキッチンに満ちた。
筧は鍋の前に立ったまま、瀬川真帆のプロファイルを思い出していた。
二十七歳。ログクラウド上流設計エンジニア。ログ管理局直轄の設計部門所属。二年前に霧島遼一の委託チームと定期メンテナンスの合同作業をした記録がある。Day 1の夜から渋谷地下のグレーゾーンに入り、以降地上に戻っていない。匿名クエリの構文は、彼女の技術的バックグラウンドと完全に一致する。
瀬川のログスコアは上位だった。キャリアも安定している。ログ管理局直轄の設計部門に配属されるのは、評価の高いエンジニアに限られる。この女は、システムの内側で順調に生きていた人間だ。その人間が、なぜ霧島遼一のために地下に潜ったのか。
合同作業の接点だけでは説明がつかない。ログの対人接触記録では二人の接触頻度は極めて低い。定期メンテナンス時の業務連絡が数件あるだけだ。
ログに記録されていない交流があったのかもしれない。
筧はその可能性を頭の隅に置いた。ログに記録されないものがある。それは分かっている。分かっていて、そのことを考えないようにしている。
明朝、令状が出る。瀬川を確保すれば、霧島の居場所が分かる。霧島を確保すれば、殺人予測のカウントダウンは実行されないまま終わる。予測は「的中しなかった」のではなく「予防された」ことになる。
それで終わりだ。
終わりのはずだ。
筧は鍋の蓋を開けた。湯気が上がった。じゃがいもの角が少し崩れている。沙織ならもっと形が残った。沙織のじゃがいもは崩れなかった。
——霧島拓也。2054年。予測確率九十一・三パーセント。拘束後三十日で釈放。犯行実績ゼロ。
藤原に出させた記録が、頭の中に残っていた。
二十三件のフィルタ条件に一致する。予測確率九十五パーセント以上。拘束後の犯行実績ゼロ。二十三件全てが「犯行ゼロ」。
筧はスプーンで鍋の中を一度だけかき混ぜた。
予測が外れること自体は、あり得る。シビュラの精度は99.97パーセントだ。0.03パーセントは外れる。だが二十三件連続で外れる確率は——。
計算する必要はなかった。統計の基本を知っていれば、あり得ない数字だと分かる。
拓也の予測確率は91.3パーセントだった。閾値の90パーセントを超えていた。だから拘束された。拘束しなければ、本当に犯罪を犯したかもしれない。予防拘束は正しかった。
だが犯行実績はゼロだ。
拘束したから犯行が起きなかったのか。それとも、最初から犯行の意思がなかったのか。拘束してしまえば検証のしようがない。反事実は証明できない。
それは——あの事件と同じ構造ではないか。
87.2パーセント。拘束しなかったから犯行が起きた。そう信じている。だが拘束していれば本当に沙織と結は助かったのか。別の形で同じ結末が待っていた可能性はないのか。
反事実は証明できない。
筧は鍋の火を弱めた。
二十三件。この数字を、筧は無視することもできた。霧島の協力者が何を調べていようと、筧の任務は霧島の確保だ。二十三件の予防拘束パターンは、筧の管轄ではない。
だが拓也の記録が引っかかっている。霧島遼一の兄。予測確率91.3パーセント。犯行ゼロ。二十三件のフィルタ条件には一致しない。確率が95パーセントに届いていない。だが構造は同じだ。予測、拘束、犯行ゼロ。閾値の外にも同じパターンがあるなら、二十三件は氷山の一角にすぎないかもしれない。
霧島遼一が逃げている理由は——兄と同じことが自分にも起きていると疑っているからだ。
しかし筧は、その思考をこれ以上続けないことにした。
データを見ましょう。
自分に言い聞かせた。データを見る。データが示すことだけを見る。データが示さないことは——見ない。見る必要がない。瀬川真帆を確保し、霧島遼一を確保する。殺人予測は予防される。それで終わりだ。
火を止めた。
皿に肉じゃがを盛った。一人分。テーブルに置いた。椅子に座った。
テーブルには椅子が三つある。筧の前と、右と、左。右は沙織の席だった。左は——結は子供用の椅子を使っていたが、子供用の椅子はもうない。処分した。椅子だけは処分できた。壁紙と靴は残っているのに、椅子は処分した。その判断の基準が何だったか、筧自身にも分からない。
肉じゃがを食べた。
味は悪くなかった。沙織の味とは違う。違っていい。同じだったら困る。
食事の間、投影は消したままだった。ログ端末はバイタルデータと位置情報を記録し続けている。「官舎、食事、心拍67bpm」。それがこの夜の筧のログだ。肉じゃがのレシピも、子供部屋に立った一分間も、赤い靴を見た五秒間も、ログの解像度には映らない。
「ログは全てを記録する」。
嘘だ、と筧は思わなかった。嘘だと思えば、システムへの信頼が崩れる。信頼が崩れれば、沙織と結の死が「防げたはずの事故」ではなくなる。
だから、嘘だとは思わない。
食器を洗った。鍋を洗った。キッチンの照明を消した。
寝室のベッドに横になった。投影ディスプレイを起動した。瀬川真帆のプロファイルが表示された。
黒髪のショートカット。左側が少し長い。鋭い目。ログクラウドの上流設計エンジニア。この女は、ログクラウドの設計に二年間携わっていた。メタデータ層に直接触れる権限を持っていた。システムの内側を知る人間だ。
システムの内側を知る人間が、システムに疑問を持った。
瀬川真帆のプロファイルの隣に、霧島遼一のプロファイルが並んでいた。二十八歳。独身。末端保守SE。ログスコア下位三十パーセント。この男のプロファイルは、筧が最初に読んだ時から何も変わっていない。逃走犯のプロファイル。殺人予測99.97パーセント。
だがこの男は——もう一人ではない。協力者がいる。技術者がいる。長期調査者がいる。二十三件の予防拘束パターンを知っている人間がいる。
霧島遼一が逃げているのは、自分の命のためだけではないのかもしれない。
筧はその考えを打ち消した。
「データを見ましょう」
声に出した。寝室に一人。返事はない。
投影を消した。暗闇が戻った。
天井を見た。天井は暗かった。
87.2。
数字が天井に浮かんだ。浮かんでいない。網膜の残像でもない。筧の脳が、暗闇に数字を投影している。七年間そうしてきた。七年間、毎晩、天井に87.2が浮かぶ。時計の表示でも、コンビニのレシートでもない。ただ、暗闘の中に浮かぶ。
閾値を下げれば、沙織と結は助かったかもしれない。
閾値を下げれば、霧島拓也のような人間がもっと拘束されたかもしれない。
閾値を下げてもなお、二十三件のような「外れ」が起きるなら——。
筧は目を閉じた。
明日の朝、瀬川真帆の身柄を確保する。霧島遼一の居場所を突き止める。殺人予測は予防される。システムは正しい。
それ以外のことは、考えない。
手首のログ端末が、筧の心拍を記録し続けていた。67bpm。安定している。安定した心拍で、筧は眠りに落ちた。
子供部屋のピンクの壁紙が、暗闘の中で、かすかに色を残していた。




