筧の追跡
筧俊哉は指揮室のモニターを見ていた。
午後六時。シフト交代の時間だが、筧は動かなかった。ダークグレーのスーツの肩には一日分の疲労が乗っているはずだったが、姿勢は朝と変わらなかった。左手の薬指の結婚指輪を、親指がゆっくり回している。
モニターには霧島遼一の全行動ログが時系列で再構成されていた。
Day 1、07:15。殺人予測表示。07:42、品川駅改札通過。以降、逃走経路が破線で渋谷方面に伸びる。14:03、最初の空白。5分00秒。渋谷スクランブル交差点付近で信号復帰。環境ノードの反応密度が人混みに紛れて判別不能になるポイント。
ここまでは、筧が既に分析した内容だった。
問題は二回目の空白だ。
Day 2、10:07。渋谷地下エリア。持続時間4分12秒。前回より48秒短い。ブランクの持続時間が短縮するパターンは、ファームウェアの自己修復機能と整合する。端末が自力でバグを塞ごうとしている。技術班のレポートはそう結論していた。
筧はマウスを動かさなかった。代わりに、左手の指輪を三回回した。回す速度が均一であることに、自分では気づいていない。
「藤原」
「はい、主任」
藤原が隣の端末から顔を上げた。二十六歳。オンログ世代。ログのない生活を知らない世代特有の、データに対する素朴な信頼が目に出ている。
「二回目の空白が発生した座標を、もう一度拡大してくれ」
藤原の指がキーボードを叩いた。モニターに渋谷の地図が拡大される。地下エリア。旧地下鉄トンネルの路線図が薄い灰色で重なる。現役の物流トンネルは青、老朽化して放置されたエリアは赤で表示されていた。赤い部分が多い。
「一回目の空白は地上です。渋谷スクランブル交差点付近。環境ノードの反応から、人混みに紛れて移動したと推定されています」
「二回目は」
「地下です。旧渋谷駅の南西、深度約二十メートル。環境ノードの反応が極めて薄い。グレーゾーンの中心部に近い座標です」
筧は黙って地図を見た。
一回目は地上。二回目は地下。つまり霧島は一回目の空白の後、地下に潜った。以降、ログ端末の位置信号は地上に浮上していない。グレーゾーンの中にいれば、ログ端末の送信は不安定になる。完全には止まらないが、精度が落ちる。
「霧島のログ端末の位置信号を、二回目の空白以降で抽出してくれ。二十四時間分」
藤原が操作した。画面に断続的な位置データが表示された。地下エリア内で、信号が飛び飛びに記録されている。精度は低いが、一つの事実は明白だった。
霧島遼一は地下を離れていない。
「二十四時間以上、地下にいます」藤原が言った。「食料は——」
「地下に人がいるなら、食料もある」
筧は立ち上がった。靴を見た。革の表面に微かな曇りがあった。朝磨いたのに。
「藤原。渋谷の旧地下鉄トンネルに、民間人の居住記録はあるか」
「公式記録にはありません。ただ——過去五年の巡回報告に、旧渋谷駅周辺で不定期に生体反応が検出されたという記述が三件あります。いずれも追跡調査なし。グレーゾーンの生体反応は電磁ノイズと区別がつきにくいため——」
「住んでいる人間がいる」
「霧島は地下に潜伏している。一人で二十四時間以上は困難です。地下の誰かの支援を受けている。あるいは——最初から潜伏先を確保していた人間が、霧島を導いた」
「霧島のプロファイルを見てください。末端保守SE。地下コミュニティとの接点は記録上ゼロです。この人間が単独で渋谷の地下を知っている可能性は低い」
筧はモニターに向き直った。
「話を変えます。空白の二回目。この空白が発生した同時刻に——ログクラウドの監査ログに異常があった」
藤原の表情が変わった。
「監査ログですか」
「技術班から今朝上がってきたレポートです」
筧は端末を操作し、レポートを画面に表示した。ログクラウドのアクセス監査ログ。数十万行の中から、技術班が一行を赤くハイライトしていた。
Day 2、10:07:33。発信元端末ID:なし。クエリ内容:過去八年間の予防拘束対象者五名(リスト添付)の死亡直前バイタルデータ、および対象者の未来ログ書き込み元メタデータ。
「端末IDのない保守クエリ」藤原が読み上げた。「正規の保守アクセスでは考えられません」
「保守クエリには必ず端末IDが付与される。IDのないクエリが通る方法は限られている」
筧は画面の時刻を指した。
「空白の開始が10:07:22。このクエリの送信が10:07:33。十一秒後です」
「ブランク中の端末から——」
「端末の送信機能が停止する過程に、隙間がある。IDモジュールが先に落ち、送信モジュールがまだ生きている遷移状態。その数秒間にクエリを押し込めば、端末IDなしの匿名クエリとしてログクラウドに到達する」
「ただし——」筧は椅子に座り直した。「霧島遼一にこれができるかどうか」
「保守SEですから、デバッグメニューの知識は——」
「ブランクを起動する技術はある。しかし」
筧はクエリ内容を指でなぞった。画面上を、指先がゆっくりと移動した。
「このクエリの構文を見てください」
藤原が画面を凝視した。筧は待った。藤原が気づくのを待つのではなく、藤原が気づかないことを確認するために待った。
「……構文に何か」
「三点あります。第一に、クエリ対象のテーブル指定がログクラウドの内部スキーマ名を使用している。保守SEがアクセスする外部APIの名前ではない。第二に、メタデータ層への直接参照が含まれている。保守SEの権限ではメタデータ層にはそもそもアクセスできない。第三に——」
筧の指が画面上のある一行で止まった。
「バイタルデータの抽出条件に、死亡直前二分間のサンプリングレートを指定している。二分間。この数字は、設計仕様書にしか記載されていない閾値です。保守マニュアルには載っていない」
藤原が顔を上げた。
「つまり——このクエリを書いた人間は」
「ログクラウドの上流アーキテクチャを熟知している人間です。末端保守SEの霧島遼一ではない」
指揮室の空調が低い音を立てていた。蛍光灯の光が、モニターの文字を白く反射させている。
「霧島には協力者がいる」
筧はそう言った。声が平坦であることを、藤原は不気味に感じたかもしれない。筧自身は気づいていない。
「協力者。しかもログクラウドの上流設計を知る人間。——このクエリの対象が何であるかも問題です」
筧は画面を切り替えた。クエリが要求したデータの詳細。予防拘束対象者五名のリスト。全員が拘束後に「自殺」で死亡している。
「過去八年間の予防拘束記録。五名の死亡直前バイタル。未来ログの書き込み元メタデータ」筧は声に出して読んだ。「霧島——いや、霧島の協力者は、予防拘束の構造に疑問を持っている。自分のケースだけではなく、過去の類似事例を調べている」
藤原が何か言おうとした。筧は続けた。
「しかも『二十三件』という数字を知っている」
「二十三件?」
「このクエリが参照している予防拘束記録のフィルタ条件を逆算すると、対象範囲は過去八年間で犯罪予測確率九十五パーセント以上、拘束後の犯行実績ゼロの案件です。該当件数は二十三件。公開されている拘束記録からこの条件を導き出すには、全件を手作業で突き合わせる必要がある」
「手作業——それは、ログの外で」
「そうです。デジタルで検索すれば痕跡が残る。痕跡を残さずに二十三件を特定するには、紙の記録と人間の記憶だけで作業するしかない。——これは即興の犯行ではない。長期間にわたる計画的な調査に基づいている」
筧の左手が結婚指輪に触れた。回さなかった。触れただけだった。
長期間の調査。紙の記録。ログの外。
これらのキーワードが、筧の頭の中で静かに配列されていた。
「藤原。条件を整理します」
「はい」
「霧島の協力者の条件。第一に、ログクラウドの上流設計に精通している。外部APIではなく内部スキーマを扱える人間。第二に、霧島と物理的に接触可能な距離にいた。渋谷地下のグレーゾーンに入れる人間。第三に、二十三件の予防拘束パターンについて何らかの知識を——いや」
筧は首を振った。
「第三の条件は二段階に分けるべきです。クエリを書いた人間と、二十三件を特定した人間が同一とは限らない。クエリの技術力と、紙ベースの長期調査は、異なるスキルセットです」
藤原が目を見開いた。
「協力者が、複数——」
「少なくとも二人。技術者と、ログの外で長期間調査を続けてきた人間。後者は今は追えない。前者を特定します」
筧は端末を操作した。ログクラウドの上流設計チームの名簿。百四十二名。
「条件一。メタデータ層に直接アクセスした経験がある人間。設計チームの中でもコアメンバーに限られる。——三十一名」
「条件二。霧島との接点。同じフロアでの作業記録、合同ミーティングの出席記録、社員食堂の同時刻利用——」
筧の指が止まった。
「ログは便利ですね」
独り言だった。筧自身がどういう意味で言ったのか、おそらく筧にも分かっていなかった。
条件を重ねる。メタデータ層の設計経験。霧島との物理的接点。渋谷エリアへのアクセス頻度。Day 1以降のログの異常。
画面上の名前が消えていった。百四十二から三十一。三十一から十二。十二から四。四名のうち二名は通常の勤務ログ。一名は海外出張中。
筧の指が最後の一人の名前を指した。
「瀬川真帆。二十七歳。ログクラウド上流設計エンジニア。第三層メタデータ層の設計に二年間従事。ログ管理局直轄の設計部門所属。二年前、ログクラウド第3層の定期メンテナンスで霧島の委託チームと合同作業の記録がある」
「——霧島と接点があった」
「接点がありました。そして」
筧は瀬川真帆のログを画面に展開した。
「Day 1、午後九時以降のログを見てください」
藤原が画面を覗き込んだ。
瀬川真帆のログ。Day 1、21:03。渋谷方面への移動開始。21:22、渋谷駅南口通過。以降——位置信号が不安定になっている。グレーゾーンに入ったことを示す断続的なデータ。
「Day 1の夜から、瀬川真帆のログが渋谷地下エリアに入っています。以降、地上に戻った形跡がない。——霧島と同じパターンです」
指揮室が静かだった。空調の音だけが、低く均一に響いていた。
筧は瀬川真帆のプロファイル写真を見た。黒髪のショートカット。左側が少し長い、非対称の髪型。鋭い目。二十七歳。
「該当者一名」
筧は言った。
「ログクラウド上流設計エンジニア、瀬川真帆」
藤原が息を吐いた。
筧は画面を見つめていた。瀬川真帆のログスコア、居住地、職歴。全てがデータとして画面に並んでいる。この女が霧島と何を調べているのか。二十三件の予防拘束。五人の死亡者。未来ログの書き込み元メタデータ。
彼らは、何を見つけたのか。
筧の左手が、結婚指輪を一回だけ回した。
「主任。瀬川真帆の身柄確保を——」
「明日の朝、令状を請求します」
筧は立ち上がった。靴を見た。曇りは消えていなかった。
「今夜は帰ります。——一つだけ」
「はい」
「霧島遼一の兄の予防拘束記録を、もう一度出しておいてください。霧島拓也。2054年。予測確率九十一・三パーセント。拘束後三十日で釈放。犯行実績——ゼロ」
藤原が画面を操作した。霧島拓也の記録が表示された。
「フィルタ条件は九十五パーセント以上ですから、この記録は二十三件には含まれませんが——」
「構造は同じです」
筧の声が、ほんの僅かだけ遅くなった。藤原がそれに気づいたかどうかは、分からない。
「予測。拘束。犯行ゼロ。確率の閾値が違うだけで、パターンは一致している」
それだけ言って、筧は指揮室を出た。
廊下の蛍光灯が白い。足音が均一に響く。磨き上げた革靴の底が、リノリウムの床を叩いていた。
エレベーターのドアが開いた。筧は中に入り、一階のボタンを押した。ドアが閉まる直前、指輪を回す左手が一瞬止まった。
87.2。
あの犯人の予測確率は87.2パーセントだった。閾値の90パーセントに届かなかった。2.8パーセント足りなかった。沙織と結は死んだ。
霧島拓也の予測確率は91.3パーセントだった。閾値を超えていた。拘束された。犯行は起きなかった。
閾値を下げれば、妻と娘は助かったかもしれない。閾値が今のままなら、霧島拓也は拘束されなかったかもしれない。
どちらも「かもしれない」だ。データは過去を確定するが、反事実は確定しない。
筧は知っていた。
そしてそれを考えないことにしていた。
エレベーターが一階に着いた。ドアが開いた。筧は歩き出した。
官舎に帰れば、子供部屋のピンクの壁紙がある。赤い靴がある。右足だけの、靴。
瀬川真帆の確保は明朝。霧島遼一の空白は、地下のどこかでまだ続いている。
筧は夜の街に出た。街路灯の根元にセンサーノードのレンズが光っていた。すれ違う人々の手首に、投影ディスプレイの薄い光が浮かんでいた。全てが記録されている街。全てが記録されていても、妻と娘を救えなかった街。
靴の曇りが気になった。
立ち止まって、左足の甲を右足のふくらはぎで一度だけ擦った。
それから、歩いた。




