息子の場所
戸田と二人きりになったのは、瀬川がデータ分析に戻ってからだった。
廃駅のホーム跡。ベニヤ板の仕切りの向こうに老人たちの気配があるが、声は聞こえない。午後四時過ぎ。壁掛けのアナログ時計が、分針を一つ進めた。
戸田は折りたたみ椅子に座って、存在しないタバコを吸う仕草をしていた。右手の人差し指と中指が、何かを挟むように動く。吸って、吐いて。煙はない。
「十二年も地下にいて」
俺はテーブルの向かいに座ったまま言った。
「なぜ今、俺を助ける」
戸田の指が止まった。指の間のタバコの黄ばみが、裸電球の光に照らされていた。もう何年もタバコを吸っていないのに、指だけが記憶している。
「助ける、か」
「違うのか」
「お前を助けることと、俺の目的を達成することが、たまたま重なっている。——正確に言えば、そういうことだ」
「正確に言えば」。記者の癖だ。ぶっきらぼうな口調の中に、一瞬だけ正確さを求める言い回しが挟まる。この言葉が出る時、戸田は本音に近いことを言っている。俺はこの二日で、それを学んだ。
「あんたの目的は何だ」
「二十三件——いや、もっとある。百件以上かもしれない。ログシステムの裏で起きている行動誘導の証拠を、世に出すことだ」
「それが俺を助けることと重なっている」
「お前が生きていて、逃げ続けていて、証拠を掘り出してくれれば——俺が十二年かけても出せなかった答えが出る。お前はそのための——」
戸田が言葉を切った。俺の目を見たからだ。
「道具か」
「……いい言葉じゃないな」
「いい言葉じゃない。でも正確だろう。瀬川は俺を情報源と呼んだ。あんたは俺を、何と呼ぶ」
戸田は答えなかった。存在しないタバコを吸う仕草。長い吐息。煙のない吐息。
「もう一つ聞く。家族は」
戸田の肩が、ほとんど分からないほどわずかに硬くなった。
「……家族か」
「十二年間地下にいるなら、地上に残してきた人間がいるだろう」
戸田はメモ帳に手を伸ばした。ジャケットのポケットから取り出す。古い革の手帳。十二年分の重み。表紙を開いて——すぐに閉じた。
「妻と息子がいた。正確に言えば、いる。生きている。離婚したが、死んではいない」
「離婚の理由は」
「俺の反対運動だ」
戸田はメモ帳をテーブルに置いた。閉じたまま。
「ログ義務化に反対するキャンペーンを十年以上やった。記者として記事を書いて、デモを組織して、国民投票にも異を唱えた。結果、解雇された。ログスコアが落ちて、生活が立ち行かなくなった。妻はパート勤務の介護士だった。俺の活動を理解はしていたが——」
戸田の声が一段低くなった。
「息子が壊れた」
「息子」
「健一。あの頃十七歳だった。高校で『反ログ活動家の息子』として扱われた。ログスコアは親の活動に連動して下がる仕組みだ。健一のスコアは同級生の中で最低だった。大学推薦の道も閉ざされた」
俺は黙って聞いた。戸田の声は淡々としていた。だが手元は違った。メモ帳を置いた手が、テーブルの上で所在なく動いていた。存在しないタバコを挟む仕草ではなく、何かを探す仕草。見つからない何か。
「ある夜、健一が言った」
戸田の目が、裸電球の光を受けて、一瞬だけ若くなくなった。六十八歳の全てが、目に乗った。
「『親父のせいで俺の人生が壊れた。親父の正義のために、俺は大学にも行けない。それは正義か。俺を犠牲にしてまで守りたかったものって何だよ』」
言葉が廃駅の天井に吸い込まれた。
「答えられなかった。今も答えられない」
戸田の右手がテーブルの上でゆっくり開閉した。拳を握って、開いて。握って、開いて。タバコの仕草ではなかった。別の記憶が手を動かしている。
「あの時、健一は泣きながら俺の胸を殴った。十七歳の拳だ。弱かった。——弱いと分かるのが、一番きつい。本気で殴りたいのに、息子は父親を本気で殴る方法を知らなかった。拳が弱くて、俺がよろけたのは殴られた衝撃じゃない。よろけたかったんだ。息子に殴られて倒れる方が、立ったまま見下ろしているより楽だった」
壁にぶつかって後頭部を切った。血が出た。健一は自分のしたことに驚いて泣き崩れた。
「恵子——妻が駆けつけた時、俺は血を流しながら健一を抱きしめていた。抱きしめるしかなかった。何を言えばよかった。正しいことをしている、なんて言えなかった。正しいのかどうか、あの時点で俺にはもう分からなくなっていた」
戸田が口を閉じた。数秒。廃駅の静けさが戻った。裸電球の光が微かに明滅した。
「翌月、恵子が健一を連れて実家に戻った。離婚届は半年後に届いた。サインした。——ペンが重かったな。メモ帳に何万字も書いてきたペンが、あの紙一枚に署名する時だけ重かった」
「息子は今」
戸田がまた、ほとんど分からないほどわずかに——硬くなった。
「二十七歳だ。ログ社会の中で普通に暮らしている」
「職業は」
「……ログ公安の——末端の事務職員だ」
俺の体が固まった。反射的に。ログ公安。俺を追っている組織。その組織の中に——戸田の息子がいる。
「知ってたのか」
「知っている。直接確認したわけじゃない。地上の協力者を通じて——断片的に。息子がログ公安に就職したという情報は、三年前に入った」
「三年前。それを知って——どうした」
「何もしなかった。何もできなかった。連絡を取る手段もないし、取ったところで何を言う。『すまなかった』か。それで済むか。済むわけがない」
戸田の声が揺れなかった。揺れないように制御しているのではなく、揺れ尽くした後の声だった。何年も前に揺れ尽くして、今は乾いている。
俺は考えた。ログ公安の中に戸田の息子がいる。父が戦った相手の組織で働いている。それは偶然か。意図的な選択か。父への反発で選んだのか、それとも社会の流れに乗った結果か。
拓也の姿が浮かんだ。兄はログに抗って壊れた。戸田の息子はログの側に立つことを選んだ。壊れる代わりに、父を否定した。——どちらが正しいかは分からない。どちらも、親と兄弟の選択に巻き込まれた結果だ。
もし息子が——戸田健一が、この廃駅の存在を知っていたら。父が地下に潜伏していることを知っていたら。知っていて、黙っているのか。知らないのか。
「息子は、あんたがここにいることを」
「知らないはずだ。知るわけがない」
「だが——」
「分かっている」戸田が俺の言葉を遮った。「お前の不安は分かる。ログ公安の人間の父親が、逃走犯を匿っている。もし息子がこの場所の存在を嗅ぎつけたら——」
「あんたは信頼できるのかと聞いている」
直接的に言った。言わなければならなかった。
戸田は俺を見た。目だけが若い——はずの顔が、今は老いていた。
「お前の質問に正直に答える」
「答えてくれ」
「俺がお前を助けている動機は純粋ではない。自分が正しかったと証明したい。十二年間の地下生活が無駄ではなかったと信じたい。息子の人生を壊した代償として、何かを成し遂げたい。——全部、俺のためだ」
「じゃあ俺は」
「お前は——俺のためのチャンスだ。一人の人間が冤罪で追われている状況を『チャンス』と呼ぶ人間は、正義の側にいるのかどうか。分からない。分からないが——」
戸田の声がほんの僅かに、柔らかくなった。「おれ」と平仮名で書きたくなるような柔らかさが、一瞬だけ表面に出た。
「お前の兄貴と同じものを追いかけている人間を、見捨てることはしない。それだけは——嘘じゃない」
俺は戸田を見た。十二年の地下生活で縮んだ体。白髪。若い目。存在しないタバコの仕草。ジャケットのポケットのメモ帳——その中に、息子の小学校の成績表の切り抜きが挟まれているのだろうか。確かめる術はない。
「あんたは俺を助けたいのか、自分が正しかったと証明したいのか」
最後にもう一度、聞いた。
「……両方だ」戸田が答えた。「切り分けられると思うか。俺には、もうできない」
正直な答えだと思った。だが正直であることと、信頼できることは違う。瀬川が利己的な動機を正直に語った時、俺はその正直さを信頼の根拠にした。戸田にも同じ判断を適用できるか。
戸田の動機は瀬川より複雑だった。瀬川は技術者の好奇心と母の死の真相への執着。シンプルではないが、ベクトルは一方向だ。戸田の動機は——正義と自己正当化と息子への罪悪感が絡み合っていて、本人ですら切り分けられないと言っている。切り分けられない動機は、予測できない行動を生む。
予測できない行動。ログがあっても予測できない行動。シビュラですら、人間の動機の純粋さを検証するアルゴリズムは持っていないのかもしれない。
分からなかった。分からないまま、戸田の目を見ていた。ハナの言葉が頭をよぎった。「正しいだけじゃ人は救えない」。戸田は正しいのかもしれない。だが正しさだけでは——俺も瀬川も、救えないのかもしれない。
廃駅の通信設備——旧型のラジオだと思っていたものが、微かなノイズを吐いた。戸田が立ち上がった。ラジオの前に膝をつく。ダイヤルを回す。ノイズの中から、声が浮かび上がった。
ニュースの声だった。地上の。
「——逃走中の霧島遼一に関し、公安ログ管理局は新たな証拠を確保した模様。管理局は詳細を明らかにしていないが、霧島容疑者に協力者がいる可能性を示唆する証拠とみられ——」
俺と戸田は顔を見合わせた。
協力者。瀬川のことか。筧が、瀬川のアクセスを検知したのか。
ラジオのノイズが増して、声がかき消された。戸田がダイヤルを回したが、もう声は戻ってこなかった。地下の電波は不安定だ。
新たな証拠。何の証拠。
俺は振り返った。ホームの奥で、瀬川がまだ投影を見つめていた。データに没頭する背中。左手が無意識に右手首を握っている。
時間が、狭まっている。




