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母のログ

瀬川がログ端末の設計仕様を調べていた。


 廃駅の隅。テーブルから離れた場所に一人で座り、投影ディスプレイにローカル保存された資料を広げている。端末の技術仕様書。上流設計エンジニアとして業務中に参照していたファイルが、端末のキャッシュに残っていた。


 俺は少し離れた場所から瀬川を見ていた。指が速い。投影の上で文字列を追いながら、時々左手首の湿疹を掻く。技術に没頭している時の瀬川は、周囲が見えなくなる。


 二時間ほどそうしていた。廃駅のコミュニティは静かだった。老人たちはそれぞれの区画で過ごしている。誰も俺たちに関心を示さなかった。彼らにとって地上からの逃亡者は珍しくないのか、それとも他人の事情に踏み込まないのが地下の流儀なのか。投影ディスプレイの光がない手首。その手首で日常を紡いでいる人たち。俺が二十八年間知らなかった日常の形。


 戸田はホームの奥に引っ込んでいた。メモ帳を広げて何かを書いている姿が、暗がりの向こうにちらりと見えた。十二年分の記録をまだ書き足している。ハナがお茶を持ってきてくれたが、瀬川は気づかなかった。俺が代わりに受け取った。


「見つかった」


 瀬川が顔を上げた。目の下に隈ができている。昨夜もほとんど眠っていないのだろう。


「何が」


「端末の迷走神経刺激モジュール。設計仕様書にある。公式機能としては『緊急心臓蘇生機能』——心停止時に端末が自動的に電気刺激を行い、心拍を再開させる。ICD——植込み型除細動器と同じ原理」


「それが殺傷に使えるということか」


「使える。仕様書の記述を逆から読めば分かる。刺激の電圧と周波数を変えれば、心臓の正常なリズムを崩壊させることが可能。心室細動の誘発。意図的に心停止を引き起こせる」


 瀬川が投影を切り替えた。回路図が表示された。俺には細部まで読めない。末端SEの知識では、クラウドの保守はできてもハードウェアの設計までは届かない。


「問題は、この機能を外部からリモートで制御できるかどうか。仕様書上は、刺激モジュールは端末内部のファームウェアが自律制御することになっている。つまりローカル処理。外部からのコマンドでは動かない——はず」


「はず」


「はず。でも——」瀬川がページをめくった。投影が切り替わる。「ファームウェアのアップデートプロトコルを経由すれば、理論的にはリモートでファームウェアを書き換えて、刺激モジュールの制御パラメータを変更できる。つまり、アップデートに見せかけて殺傷コマンドを送り込める」


「それをやれるのは」


「ファームウェアアップデートの権限を持つ者。ログ管理局のシステム管理者——あるいは、シビュラ自体」


 シビュラ。また、その名前が出た。意識を持たない最適化エンジン。悪意なき合理性。人間の心臓を止める命令を、最適化の一環として実行できる存在。


 瀬川が投影を消した。


 数秒間、何も言わなかった。裸電球の琥珀色の光が、瀬川の横顔を照らしていた。左側の髪が少し長い。非対称の髪型。以前から気になっていたが、聞いたことはない。


「私はこのシステムの設計に関わっていた」


 瀬川の声が低かった。技術の話をしている時の早口ではない。別の声だ。


「上流設計エンジニアとして、ログクラウドの第三層の設計レビューに参加していた。端末のファームウェアアップデートのプロトコルも、私のチームが設計した。アップデート経由で刺激モジュールを操作できる——その脆弱性に、気づけたはずだ。気づかなかった」


「気づかなかったのか、見なかったのか」


 俺の問いは、瀬川の顔の角度を変えた。こちらを向いた。鋭い目。だが鋭さの裏に、別のものがあった。


「……分からない。本当に見えなかったのか、見たくなかったのか。結果は同じだけど」


「同じじゃない」


「同じよ。結果として、この端末で人が死んだ。私が設計に関わったシステムを使って。——お前のせいじゃない、って言わないで」


 言おうとしていた。口を開きかけていた。だが瀬川が先に封じた。


 沈黙が落ちた。廃駅の天井の高い空間に、二人の呼吸だけが響いた。遠くでハナが何かを洗っている水の音がした。


「母のことを話してもいいか」


 瀬川が言った。唐突だった。だが唐突ではなかった。ここまでの会話の全てが、この一言に向かっていたのだと、俺は後から気づいた。


「聞く」


 瀬川はお茶のカップを両手で包んだ。冷めたお茶。湯気はもう出ていない。


「母は五年前に死んだ。私が二十二歳の時。自殺。マンションの屋上から飛び降りた」


 声は平坦だった。感情を排除しているのではなく、何度も内側で繰り返した言葉が、表面の温度を失っているのだと分かった。


「母は介護士だった。明るくて、近所づきあいが良くて、ログスコアは上位。完璧な市民のログ。——完璧だった」


 瀬川がカップを置いた。指先が少し震えている。


「葬儀の後、私はエンジニアの権限を使って母のログを遡った。不正アクセスだった。三年分。位置情報、バイタル、行動分類、対人接触記録。全部読んだ。八千七百六十時間分の母の人生を、数字とテキストで」


「何が見つかった」


「何も」


 その一言が、静かな廃駅に落ちた。


「何も、見つからなかった。異常値はゼロ。ストレス値は介護士としては標準的。睡眠パターンも正常。行動に逸脱なし。ログ上は、母が死にたがっていた形跡は一切ない。三年分のデータの中に、母の苦しみは一行も記録されていなかった」


 瀬川の左手が右手首を握った。湿疹の上から。強く。


「ログは全てを記録する。でも母が何を考え、何に苦しみ、なぜ死を選んだかは、どこにも書かれていなかった。記録されたものと記録されなかったものの間に、母の人生がまるごと落ちていた」


 俺は黙って聞いていた。拓也のことを思い出していた。壁にログ記録を貼り詰めた兄。「ここに書いてないことは俺の人生じゃない」と言った兄。瀬川の母は——ログに書いてある通りの人生を生きて、ログに書いてないところで死んだ。


 拓也と瀬川の母。逆のベクトルだった。


 拓也はログに記録されたものを壁に貼って、「ここに書いてないことは俺の人生じゃない」と言った。ログに書かれたものだけが自分だと宣言して、壊れた。


 瀬川の母は、ログに完璧な人生を記録し続けて、ログに書かれていないところで死んだ。


 どちらもログの外側で終わった。ログが全てを記録する社会で、記録されなかったものの中に、人間が消えていく。


「ログの最後の記録は」瀬川が続けた。「『屋上移動、17:42:08、行動分類:不明』。不明。三年分のデータを全部持っていて、最後の行動が『不明』。——笑えるでしょ」


 笑えなかった。


「それで、ログ端末の周りに湿疹が出るようになった。心因性のアレルギーだって医者には言われた。治療すれば治ると。治療しなかった」


「なぜ」


「これは私の体がシステムに出している抗議だから」


 冗談のように言った。目は笑っていなかった。


 俺は瀬川を見た。非対称の髪。左側が少し長い。聞いてもいいか迷って——聞いた。


「髪の左側が長いのは」


 瀬川の手が止まった。左の髪に触れた。無意識に。


「……母が、いつも左側を撫でていたから。切れない」


 それだけだった。それ以上は言わなかった。


 瀬川の母のバイタルデータは、さっきの五人と同じパターンだったのか。俺が聞かなかった問い。瀬川が答えなかった問い。今はまだ、その問いを口にする時ではない。


 だが瀬川が端末の殺傷機能を追いかけている理由は、もう分かった。これは技術的好奇心ではない。母の死の真相を、技術の言葉で掘り起こそうとしている。「不明」と記録された最後の行動に、説明をつけようとしている。


 説明がつくことと、救われることは違う。それは俺が拓也について八年間学んだことだ。


「瀬川」


「何」


「お前の母親のバイタルデータも——」


「聞かないで」


 短かった。声が。鋭い目が一瞬だけ揺れた。それから戻った。


「今は聞かないで。データはある。自分で見る。——まだ見ていない」


 俺はうなずいた。


 二人の間に沈黙が戻った。同じ沈黙。昨夜の暗い通路で、足音が二つだった時と同じ種類の沈黙。慰めでもなく、分析でもなく、ただ同じ場所にいる沈黙。


 瀬川が投影を再び立ち上げた。技術者の顔に戻った。


「もう一つ見つけたものがある」


「何だ」


「取得データの中に、あなたの未来ログの送信元アドレスを追跡した結果がある。通常の予測エンジンからではなく、シビュラの非公開モジュールからの直接書き込みだった——それは前に言った。でも、その非公開モジュールの送信ログを見ると、書き込み先はあなたの端末だけじゃない」


「二十三人の中の二人にも同じアドレスがあったと——」


「それもある。でも、もう一つ。あなたの未来ログに書き込まれた殺人予測の——殺害対象。99.97パーセントの確率であなたが殺すとされている『特定人物』。その人物のIDが、取得データに含まれていた」


 俺の心拍が上がった。端末が記録しているだろう。この瞬間の心拍を。


「殺害対象が、誰なのか分かったのか」


「IDだけ。名前の照合はログクラウドにアクセスしないとできない。でも——」


 瀬川が言葉を切った。投影を消した。


「次にアクセスする時に、照合する。今は——今日は、ここまでにする」


 瀬川の声が疲弊していた。技術の話をしている時の瀬川は疲れを感じない。感じないふりができる。だが母の話をした後の瀬川は、ふりができなくなっていた。


 俺は立ち上がった。ハナが持ってきてくれたお茶を瀬川の前に置いた。冷めている。だがここでは、冷めたお茶を温め直す電子レンジもない。ログに記録されない冷めたお茶。


「ありがとう」


 瀬川がそう言った。お茶に対してか、聞いたことに対してか、聞かなかったことに対してか——分からなかった。


 分からないことが、ログに記録されないことが、今の俺には少しだけ安心だった。

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