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死んだ人間のログ

瀬川が端末の投影にデータを並べた。


 廃駅のテーブル。裸電球の琥珀色の光の下に、五人分のバイタルデータが浮かんでいる。佐伯明男。高橋由佳。中西亮太。大山幸雄。武田恵理子。戸田が十二年かけて追った二十三人のうち、「自殺」とされた五人。


 投影ディスプレイのグラフが、五人それぞれの死亡直前三十分の生体情報を描いている。心拍数の推移。赤い折れ線が左から右に流れる。体温。青い線。血圧。緑。迷走神経活動。白い波形。


 五つのグラフが並んでいた。


「まず正常な自殺のバイタルパターンを確認する」


 瀬川が技術者の声で言った。早口。感情を排除した声。データに入る時の瀬川は、こうなる。


「縊死——首吊りの場合、心拍は段階的に低下する。血圧低下、酸素飽和度低下、意識消失まで約五分から十分。飛び降りの場合は落下中にカテコラミン急上昇、心拍が急騰してから衝撃で停止。薬物の場合は種類によるが、一般的に緩やかな心拍低下と血圧低下」


「五人の死因は」


「公式記録では三人が縊死、一人が飛び降り、一人が薬物。だが——」


 瀬川が五つのグラフを横に並べた。投影ディスプレイの上で、五本の赤い折れ線が同時に見えた。


 俺は目を凝らした。SE的な目。パターンを読む目。データの中の異常を探す目。


 見えた。


「……同じだ」


「そう。同じ」


 五人の心拍グラフが、死亡直前の約二分間に同じ波形を描いていた。急上昇。220bpmを超える急騰。一瞬の横ばい。そして垂直に近い急降下。ゼロ。


 縊死と飛び降りと薬物。死因が異なるのに、最後の二分間のバイタルパターンが同じ。


 それはありえない。


「これは自殺のパターンじゃない」瀬川が言った。「縊死なら段階的に低下するはず。飛び降りなら衝撃の瞬間に停止するはず。薬物なら緩やかに低下するはず。なのに五人とも同じ波形。急上昇、急降下、停止。まるで——」


「外部から信号を受けたみたいだ」


 俺の口から出た言葉を、俺自身が聞いた。外部からの信号。端末を通じた、外部からの電気信号。


 保守SEとして、俺はログ端末の仕様をある程度知っている。末端の知識だが、基本的なアーキテクチャは理解している。ログ端末は橈骨動脈に接続されている。血流を利用した給電と、血管壁を介した生体データの読み取り。そして——迷走神経への微弱電気刺激が可能な構造になっている。


「端末の仕様にある」俺は言った。「迷走神経への微弱電気刺激。公式には『バイタル異常時の緊急心臓マッサージ機能』として設計されている。心停止した場合に端末が自動でAED的な電気刺激を行い、心臓を再始動させる——はずの機能だ」


「はずの、ね」


「だが理論上、逆も可能だ。微弱ではなく過大な電気刺激を迷走神経に送れば、心臓のリズムを崩壊させることができる。心室細動を誘発して——心停止」


 テーブルの向かいで戸田が唸った。低い声。存在しないタバコを吸う仕草が止まっていた。


「端末を外せば死ぬ。端末を着けていても殺せる。どっちに転んでも、こいつらに逃げ場はなかったということか」


 五人の名前がテーブルの上のクリアファイルに並んでいた。佐伯明男。高橋由佳。中西亮太。大山幸雄。武田恵理子。五人とも予防拘束された。五人とも犯罪を犯さなかった。五人とも社会的に孤立した。そして五人とも死んだ。「自殺」として。


 だがバイタルデータは自殺のパターンではなかった。


「確証は」


「ない」瀬川が言った。声のトーンが変わっていた。技術者の早口ではなく、低く、慎重な声。「バイタルパターンの一致は状況証拠に過ぎない。端末からの外部信号が実際に送られたという直接証拠は、ログクラウドの最深層——シビュラの非公開モジュールのログを見ない限り出てこない。そしてそこへのアクセスは私の権限では不可能」


「だが」


「だがパターンは一致している。五人全員。死因が異なるのに、死亡直前のバイタルが同じ。偶然の確率は——計算するまでもない」


 俺は投影のグラフを見た。五本の赤い折れ線。急上昇。急降下。停止。同じ波形が五つ。心臓が叫んで、沈黙する。五人分の沈黙が、グラフの右端でゼロに重なっている。


 これは自殺じゃない。


 自殺なら一人ひとり違う波形になるはずだ。首を吊った人間と飛び降りた人間と薬を飲んだ人間が、同じ死に方をするはずがない。同じ波形を描くのは、同じ原因が外から加えられた場合だけだ。


 この端末で人が殺された。


 その思考が腹の底に落ちた。重い。配送ドローンの食事のカロリーのように数値化できない重さだった。五人の名前が頭の中を巡った。佐伯明男。高橋由佳。中西亮太。大山幸雄。武田恵理子。五つの名前。五つの心臓が、同じパターンで止められた。


 瀬川の母が頭をよぎった。母のログの最後の記録は「屋上移動、17:42:08、行動分類:不明」。自殺と記録された死。だが母のバイタルデータは瀬川が読んだはずだ。母のパターンは——この五人と同じだったのか。


 聞けなかった。今は聞けない。瀬川の顔を見ればわかる。同じことを考えている。鋭い目の奥に、技術者の冷静さと、別の何かが混在している。


 俺は自分の左手首を見た。ログ端末。長さ3センチ、幅1.5センチ、厚さ2ミリの生体チップ。橈骨動脈の直上に埋め込まれている。血流を利用した給電。血管壁を介した生体データの読み取り。迷走神経への電気刺激機能。


 この端末は俺の行動を記録し、位置情報を送信し、バイタルを監視している。そしてもし——もし外部から信号が送られれば、俺の心臓を止めることもできる。


 ブランクは端末の送信機能を停止する。送信が止まれば、外部からの受信も遮断される。つまり——ブランク中は、この殺傷信号も届かない。


「瀬川」


「分かってる。あなたのブランクは、逃走手段だけじゃなくなった」


「命綱だ」


「命綱。そう」


 瀬川が左手首の湿疹を掻いた。無意識に。爪が赤い皮膚の上を引っ掻く音が、静かな廃駅に小さく響いた。


「でもブランクは使うたびに短くなる。命綱の長さが短くなっていく。最終的にはバグが不安定化して——」


「使えなくなる。そうしたら、俺には何も残らない」


 ブランクのない遼一。ログに全てが記録され、外部からの信号も通る状態の遼一。端末が命綱から——処刑装置に変わる。


 戸田がメモ帳にペンを走らせていた。紙の上に何かを書いている。古い記者の癖だ。デジタルのメモではなく、紙に手で書く。


 瀬川の目が投影のグラフに戻った。技術者の目。感情を処理の後ろに回す目。


「端末の電気刺激機能が殺傷に転用可能だとして」瀬川が言った。「問題は、その機能を外部から制御できるかどうか。ログ端末のファームウェアは定期的にアップデートされるけど、電気刺激モジュールの制御コードは公開されていない。ブラックボックス。私が上流にいた時でさえ、このモジュールのソースコードにはアクセスできなかった」


「誰がアクセスできる」


「シビュラの運営委員会、か——あるいはシビュラ自体」


 言葉が廃駅の天井に吸い込まれた。シビュラ自体。意識を持たない最適化エンジン。悪意なき合理性。それが人間の心臓を止める信号を送ったとしたら——悪意ではなく、最適化の結果として。


「整理する」戸田がペンを置いた。「二十三人の予防拘束。全員犯罪ゼロ。五人が死亡。公式は自殺だが、バイタルパターンは自殺ではなく外部信号による殺傷の可能性。端末にその機能がある。——ここまでは分かった」


「分かってないことが二つある」俺は言った。「一、誰が信号を送ったか。二、なぜ五人だけなのか。二十三人を殺す意図があるなら、全員殺すはずだ」


「全員を殺す必要はない」瀬川が答えた。「五人だけを殺した理由があるとすれば——五人が何かを知った、あるいは知りかけた可能性。拘束後に何かに気づいた人間だけが消された」


「何に気づいたんだ」


「分からない。でも手がかりはある」


 瀬川が投影を切り替えた。メタデータ層のクエリ結果。画面に文字列が並んだ。


「さっき話した、あなたの未来ログの書き込み元。通常の予測エンジンではなく、シビュラの非公開モジュールからの直接書き込みだった。そして——五人のうち二人の予測ログにも、同じ送信元アドレスが見つかった」


 同じ送信元。俺の殺人予測と、死んだ二人の犯罪予測が、同じ場所から書き込まれた。


「非公開モジュール」


「シビュラの中に、公式の仕様書には載っていない処理レイヤーがある。私が上流にいた時、そのレイヤーの存在だけは知っていた。アクセスログがあることも。でも何をしているかは分からなかった」


「今は分かるのか」


「分からない。でも一つだけ推測できる。このモジュールは——未来ログに予測を書き込んでいるのではなく、未来ログに命令を書き込んでいる」


 命令。


 予測ではなく、命令。


 俺の端末に表示された「72時間後の殺害行為、99.97%」は——予測ではなく、命令だったのか。


 手首の端末に目を落とした。無機質な表面。いま、この端末は俺の心拍を記録している。86bpm。座って話をしている人間の、平常時の心拍。だがこの数値を記録している同じ端末が、外部から信号一つで、俺の心臓を止めることもできる。


 戸田がメモ帳を閉じた。立ち上がろうとして、腰を庇った。慢性腰痛。十二年分の地下生活が体に刻んだ代償。


「一つ言っておく」戸田が俺を見た。目だけが若い顔。「お前のブランクが命綱だとしたら、俺たちの計画は時間との勝負だ。ブランクが使えなくなる前に、証拠を揃えなきゃならん」


「証拠」


「非公開モジュールの存在と、書き込み——命令の証拠。それがなければ、お前の冤罪を証明する方法がない。そしてもう一つ——この端末による殺傷が実行された証拠。五人分のバイタルパターンだけでは弱い。直接証拠が要る」


「直接証拠はシビュラの中にしかない」


「ああ。だからいずれ、お前たちはログクラウドの中枢にアクセスしなきゃならん」


 中枢。ログクラウドの最深部。シビュラの非公開モジュール。末端の保守SEと、上流の設計エンジニアが二人がかりで——届くのか。


 端末に未来ログの更新通知が来た。


> [カウントダウン] 残り 46:00:00


 残り四十六時間。


 俺は端末を見つめた。いつから見つめていたのか分からない。数秒か、数十秒か。瀬川と戸田の視線が俺に向いているのを感じた。


 この端末は俺を殺せるのか。俺を記録し、追跡し、管理し——そして必要なら、停止させることもできるのか。


 左手首のログ端末。長さ3センチ。厚さ2ミリ。俺の命を預かり、俺の命を奪える小さな機械。


 答えは、もうデータの中にあった。

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