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信じるための5分間

デバッグメニューを開いた。


 廃駅の壁際、裸電球の光が届かない暗がりに座り込んで、左手首の端末を操作した。緑色の文字列が投影に浮かぶ。前回と同じ画面。だが一行だけ、数字が変わっていた。


> 推定停止可能時間:4:12


 四分十二秒。前回から四十八秒短くなっている。


 指先が冷たかった。深爪の赤い指先が、投影の緑色の光を受けている。四十八秒。たった四十八秒の短縮だが、この数字が意味するものは明確だった。ブランクは使うたびに短くなる。バグが端末の自己修復機能に少しずつ塞がれていく。最終的には使えなくなる。あるいは、端末がクラッシュする。


 四分十二秒。その間に、瀬川がログクラウドにクエリを通さなければならない。


 瀬川がテーブルの端で、俺の端末のデバッグメニューを覗き込んでいた。さっきから何度も画面を確認している。指が速く動いている。技術の領域に入ると加速する、あの癖。


「自分の端末からは無理なのか」


 俺は聞いた。瀬川は首を振った。


「私の端末からクエリを飛ばした瞬間、発信元に『瀬川真帆、ログクラウド上流設計エンジニア』って刻印される。死亡者のバイタルデータへの不正アクセス——一発で通報が飛ぶ」


「通気口の近くまで行けば電波が届く。そこから——」


「問題は電波じゃない」瀬川が遮った。「どこから送るかじゃなくて、誰が送ったかが記録されること。私の端末IDがクエリに紐づく限り、地下だろうが地上だろうが同じ。匿名でクエリを飛ばす方法が必要なの」


 瀬川が俺の手首を見た。デバッグメニューの緑色の文字列が浮かんでいる。


「あなたの端末のデバッグメニューには保守SE権限がある。ログクラウドへの保守クエリを送れる。そしてブランクを起動した直後——送信機能が完全に停止するまでの遷移状態が数秒間ある。その間にクエリを押し込めば、端末IDが付与されない。匿名の保守クエリとしてログクラウドに到達する」


「——ブランク中じゃなくて、起動直後の隙間を使うのか」


「そう。完全に止まったら送信できない。止まる前の数秒間。端末がシャットダウンプロセスに入って、IDの付与モジュールが先に落ちて、送信モジュールがまだ生きている——その隙間」


 瀬川の目が光っていた。設計者にしか見えない隙間。


「ただし」瀬川が声を低くした。「クエリの送信は最初の数秒で終わるけど、レスポンスが返ってくるのはブランク中。端末が受信停止している間にデータが届く。ブランクが切れてログが復帰した瞬間、受信バッファに溜まったデータを回収する。時間的にはぎりぎり」


「ぎりぎり」


「ぎりぎり」瀬川が薄く笑った。笑うと鋭い目が少しだけ柔らかくなる。「四分十二秒の間に全てのレスポンスが返ってくる保証はない。でも五人分のバイタルデータとメタデータ層のクエリ——データ量から逆算して、たぶん間に合う」


 つまり、瀬川は俺の隣で俺の端末を操作する必要がある。地上に出る必要はない。だがブランクがなければ、クエリに俺の端末IDが刻印される。俺の名前でログクラウドに不正アクセスした記録が残る——逃走犯がログクラウドを漁ったという証拠を、追手に差し出すことになる。


 ブランクの必然性。これは逃走のためでも、瀬川の行動を隠すためでもない。クエリの匿名性を確保するためだ。


「最後に確認する」


 俺は瀬川の目を見た。


「お前はこのアクセスで何を取る」


「二十三人のうち、死亡した五人の死亡直前のバイタルデータ。心拍、血圧、体温、迷走神経活動の推移。自殺のバイタルパターンと比較する」


「それだけか」


 瀬川は少し間を置いた。左手首を握った。


「……もう一つ。あなたの未来ログの書き込み元を特定するために、ログクラウドのメタデータ層にクエリを投げる。書き込みの送信元アドレスが分かれば、通常の予測エンジンなのか、それとも——別のモジュールからの直接書き込みなのかが判別できる」


「別のモジュール」


「シビュラの非公開モジュール。私が上流設計にいた時、仕様書にない処理レイヤーがあることは知っていた。知っていて、深追いしなかった。——今、追う」


 瀬川の声が低くなった。


 俺は立ち上がった。膝が軋んだ。昨日の逃走で酷使した筋肉がまだ痛む。


「やるぞ」


 瀬川が頷いた。テーブルの反対側に回り、俺の左手首の横に座った。戸田がホームの奥から見ていた。何も言わなかった。存在しないタバコを挟む指だけが、ゆっくり動いていた。


 ——


 俺はデバッグメニューを開いた。コマンドシーケンスを確認する。三つのコマンド。前回と同じ手順。だが前回は逃走のために使った。今回は——。


 信頼のために使う。


 そう思った瞬間、自分の思考に驚いた。信頼。瀬川を信じているのか。いや、信じているわけじゃない。信じるかどうかを判断するために、ログのない四分十二秒を差し出す。記録されない時間の中で瀬川が何をするか——それが、ログ以外の方法で人間を判断するということだ。


 拓也なら何と言うだろう。「ログに書いてないことは人生じゃない」と言った兄は、ログなしで人を判断する方法を知っていたのか。知らなかったから、壊れたのか。


 考えている場合じゃない。


「起動する」


 コマンドを入力した。一つ目。二つ目。投影にノイズが走った。三つ目——。


 送信ランプが明滅した。消えかけて、まだ消えない。遷移状態。


「今」


 瀬川の指が俺の端末の投影面に触れた。俺の手の甲の上で、瀬川の指が走る。デバッグメニューの保守クエリ画面を開き、コマンドを叩き込んでいく。二人分の手が重なる狭い投影面。瀬川の指は迷わない。打つべきコマンドを暗記しているのだろう。


 送信ランプが消えた。


 四分十二秒。


 投影が消えた。手首の端末が沈黙した。


 二度目のブランク。


「クエリは通った?」


「通った」瀬川が息を吐いた。「IDの付与モジュールが落ちてから送信モジュールが止まるまで、三秒あった。二本のクエリを押し込んだ。バイタルデータの取得と、メタデータ層への問い合わせ」


「レスポンスは」


「ブランク中に届くはず。端末の受信バッファに溜まる。ログが復帰した瞬間に回収する」


 あとは待つしかない。


 前回と同じ感覚——体が透明になったような、存在が薄くなったような感覚。幽霊になる。だが前回と違うのは、今回は走らないことだった。テーブルの前に座ったまま、動かない。


 前回のブランクは逃走だった。五分間の自由を使って走った。今回の四分十二秒は、走らない。誰かのために差し出す。俺は信号の出ない体をここに座らせて、待つ。


 待つ、という行為が奇妙だった。ブランク中の待機。データの記録されない時間に、何もせずに座っている。地上なら端末が「行動分類:静止、待機」と記録するだろう。ここでは何も記録されない。俺が座っていたことは、どこにも残らない。


 瀬川も隣に座っていた。俺の端末が沈黙している間、瀬川にできることはない。レスポンスが届くのを待つだけだ。二人で、暗い廃駅のテーブルに並んで座って、黙っている。裸電球の琥珀色の光が、二人の影を壁に落としていた。


 一分。


 頭上のどこか遠くから、リニアポッドのチューブを通過する低い振動が伝わってくる。渋谷の地上は動いている。数十万人がログを記録しながら歩いている。この地下で、俺だけがログを止めている。


 二分。三分。


 瀬川が左手首の湿疹を掻いた。指先が赤い。


 四分。


 手首の端末が振動した。


 送信ランプが点灯した。投影ディスプレイが復帰した。ログが再び流れ始める。位置情報、バイタル、行動分類。四分十二秒の空白が、ログに灰色の帯として記録された。


 瀬川が即座に俺の端末の投影に手を伸ばした。受信バッファを開く。指が速い。データが流れ込んでくる。


「来てる」瀬川の声が低く震えた。「五人分のバイタルデータ——死亡直前三十分。それとメタデータ層のクエリ結果——」


 瀬川の目が見開かれた。指が止まった。


「……これ」


「何だ」


「メタデータ層のクエリ結果。あなたの未来ログの書き込み元——通常の予測エンジンじゃない。送信元アドレスが——」


 瀬川がデータを自分の端末のローカルにコピーする操作をした。指が震えていた。


 二度目の〈ブランク〉。


 端末に通知が来た。


> [ログ開示法第7条違反の疑い]

> ログ空白を検出しました。

> 発生時刻:10:03:47

> 持続時間:4分12秒

> 公安ログ管理局に自動通報されました。


 予想通りだ。あのログ公安の主任——筧という名前だったか。前回のブランクで封鎖プロトコルを設定したはずだ。渋谷周辺の半径五百メートルが即時封鎖されるだろう。公安ドローンが上空に集結し、巡回犬が地下に投入されるかもしれない。


 地上の光景を想像した。渋谷の交差点で、黒い公安ドローンが五機、上空を旋回する。巡回犬が駅周辺のビルに展開される。通行人たちの端末に「付近でログ空白が検出されました」の通知が流れる。全員が端末を見て、半歩ずれる。俺がどこかにいると知って。


 だが俺も瀬川も、地下三十メートルにいる。封鎖の内側だが、巡回犬がここまで到達するには時間がかかる。


 ブランクの意味が変わった、と思った。


 前回は逃走手段だった。ログを消して走る。追手から逃げるための五分間。今回は——違う。四分十二秒を使って、匿名のクエリを飛ばした。ブランクが「自分の逃走」から「二人で真実を掘る道具」に変わった瞬間、この四分十二秒は逃走ではなく、選択になった。


 俺はまだ瀬川を信じてはいない。だがログのない時間を共有した。瀬川の指が俺の端末の上を走るのを、横で見ていた。データとしてではなく、人間として。拓也が求めていたものは、たぶんこういうことだ。


 瀬川が自分の端末にコピーしたデータを確認していた。左手首の湿疹を掻いた。それから俺を見た。


 顔が青い。


「データは取れた。五人のバイタルデータも、メタデータ層のクエリ結果も」


「それで」


「……詳しい分析は次にする。でも一つだけ——」


 瀬川が息を吸った。吐いた。


「二十三件どころじゃないかもしれない」


 俺は黙った。戸田の指が、存在しないタバコを挟んだまま止まった。


「メタデータ層にクエリを投げた時、戸田さんの二十三件と同じパターンの書き込みログが——もっと出てきた。全部は追いきれなかった。でも件数のオーダーが違う。数十件じゃない。——百件以上の可能性がある」


 裸電球が一つ、明滅した。琥珀色の光が揺れて、瀬川の青い顔を照らした。


 百件以上。


 俺の件だけではない。二十三人だけでもない。百人以上の人間が、犯していない犯罪の予測を書き込まれた可能性がある。


 テーブルの上の二十三冊のクリアファイルが、急に小さく見えた。

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