23人の影
お前だけに送られたものじゃないかもしれない。
戸田の言葉が頭の中で何度も再生された。眠ったのは五時間ほどだった。地上なら端末が睡眠の質を記録し、「深い睡眠が不足しています」と通知するだろう。ここでは何も通知されない。代わりに、体が判断する。背中が痛い。首が凝っている。しかし頭は動く。五時間の睡眠が足りたのか足りなかったのか、データなしでは分からない。分からないまま、起きた。
朝の八時だと、壁に掛けられたアナログ時計が示していた。廃駅のコミュニティには電池式の壁掛け時計がある。デジタルではない。短い針と長い針が文字盤の上を回る。ログ端末の精密な秒単位の時刻表示に慣れた目には、分の精度しかない時計が奇妙に映った。
戸田がテーブルの上にメモ帳を広げていた。
昨晩と同じ革の手帳。だがそれだけではなかった。隣に古い紙の束が積まれている。A4サイズの印刷物が、クリアファイルに小分けされていた。二十冊以上。一冊ごとにラベルが貼ってある。手書きの数字と名前。
「二十三件分だ」
戸田がコーヒーの入ったマグカップを置いた。インスタントの、配送ドローンでは届かないコーヒー。ハナが地上の協力者から物資を受け取っているらしい。
「正確に言えば、二十三人の人間の予防拘束記録。俺が十二年かけて集めた」
瀬川が俺の隣に座った。昨夜と同じ位置。半歩の距離感は変わっていない。左手首を右手で握っている——湿疹が気になるのか、癖なのか。
戸田がクリアファイルを一冊ずつテーブルに並べた。
「資料の出所を先に言っておく。拘束記録は公開情報だ。予防拘束の事実と対象者名は、ログ開示法に基づいて市民に通知される。俺が記者時代のコネで集めたのは、通知の範囲を超えた部分——拘束後の追跡情報、一部のバイタルデータ、そして本人の周辺取材の記録だ。不完全だが、パターンを見るには足りる」
「それをログなしで、十二年?」
「紙とペンと記憶と、地上にまだいる何人かの協力者。それだけだ」
俺はクリアファイルを一冊手に取った。ラベルには「03: 佐伯明男 / 2056 / 97.8%」と書かれていた。ファイルを開く。A4の紙に、手書きの時系列メモ。予測内容、拘束日、拘束期間、釈放日、その後の状況。
佐伯明男。2056年、犯罪予測97.8%。予測内容は「知人男性への傷害行為」。予防拘束30日。釈放。犯行なし。釈放後、ログスコア急落。賃貸契約更新不可。三ヶ月後に——。
「自殺」
瀬川が隣のファイルを読みながら言った。声のトーンが低い。技術の話をしている時の早口ではなく、事実を確認している時の声。
「佐伯明男、釈放三ヶ月後に自宅で死亡。公式記録は自殺」
俺は残りのファイルを見た。二十三冊。テーブルに広げきれない量だった。瀬川と二人で、一冊ずつ開いていった。
三十分で、パターンが見えた。
俺は端末の投影ディスプレイに何も表示させずに、紙の上にメモを取った。戸田が渡してくれたボールペンと白紙の裏。ログ端末のメモアプリではなく、手書き。八年ぶりの手書きは、字が震えた。
「まとめる」
俺は紙を瀬川の方に向けた。
「二十三人全員に共通する点。一、ログスコアが下位30パーセント以内。二、独身、または社会的つながりが極めて薄い。三、犯罪予測の確率が全員95パーセント以上。四——」
四番目を書く手が止まった。
「四、拘束後に実際に犯罪を行った者が、ゼロ」
瀬川が俺の手書きメモを見て、しばらく黙った。それから左手首を右手で強く握った。
「ゼロ。二十三人全員が、拘束後に犯罪を犯していない。予測は全件外れている」
「外れていることになる」戸田が訂正した。「表向きは『拘束したから犯罪が未然に防がれた』と処理されている。予測が当たったかどうかは、拘束してしまえば検証のしようがない。反事実は証明できない」
「でも二十三件連続で外れるのは——」
俺は計算を始めた。SE的な思考が動く。シビュラの予測精度は99.97パーセントと公表されている。予測が外れる確率は0.03パーセント。二十三件連続で外れる確率は——。
「0.0003の23乗」瀬川が先に言った。「10のマイナス81乗のオーダー。宇宙の原子の数が10の80乗だから、宇宙の全原子に番号を振って一つを当てるより低い確率」
「統計的にあり得ない」
「あり得ない。偶然ではない」
廃駅の裸電球が、微かに明滅した。電圧の不安定さ。地上ならセンサーが即座に検知する。ここでは誰も気にしない。
「ただし」瀬川が指を上げた。「前提が正しければ、の話。シビュラの公表精度99.97パーセントが本当なら、二十三件連続の外れはあり得ない。でも逆に言えば——公表精度が嘘なら、計算自体が成り立たない」
「精度が嘘というのは」
「二つの可能性がある。一つは、シビュラの予測精度が実際には99.97パーセントより低い。つまり、公表値が過大評価されている。もう一つは——」
瀬川が俺を見た。鋭い目。昨夜、暗闇の中で懐中電灯を持っていた時とは違う光が入っている。
「予測精度は99.97パーセントで正しいが、この二十三件だけが『予測』ではなかった」
瀬川が合流した夜に言った言葉が蘇った。未来の時刻で生成されたデータ。予測ではなく、書き込み。俺の未来ログに書き込まれた殺人予測が、予測ではなく書き込みだとしたら——この二十三人のログにも、同じことが行われたのか。
「書き込まれた犯罪予測」
俺は声に出した。声に出すと、その言葉の重さが腹の底に落ちた。
「二十三人分の——嘘の予測」
戸田がうなずいた。存在しないタバコを挟む仕草。吸って、吐いて。
「証拠はない。俺の仮説に過ぎない。だがパターンは一致する。二十三人全員、犯罪予測が出る前のログに異常な兆候が見当たらない。突然、高確率の予測が降ってきて、即座に拘束。そして——」
戸田がファイルの一つを開いた。
「二十三人のうち五人が、拘束後に死んでいる。公式記録では全員『自殺』だ」
俺は戸田が開いたファイルを見た。五人分のページに付箋が貼ってある。赤い付箋。
「佐伯明男。高橋由佳。中西亮太。大山幸雄。武田恵理子。五人とも拘束後六ヶ月以内に死亡。全員自殺」
「共通点は」
「ログスコアが特に低い。五人とも下位10パーセント。拘束後にスコアがさらに下がり、生活基盤を完全に失っている。——まあ、自殺の動機としては十分だ。表向きには」
瀬川が赤い付箋のファイルを手に取った。ページをめくる手指が速い。技術の話に入ると加速する、あの癖。
「この五人の死亡時のデータは?」
「ない。俺はログにアクセスする手段を持たない。紙の記録しか追えなかった」
「……私なら、追える」
瀬川がそう言った時、声のトーンが変わった。低い声。技術でも分析でもない声。覚悟の声だ。
「ログクラウドにアクセスすれば、この五人の死亡直前のバイタルデータを引き出せる。自殺なら自殺のバイタルパターンが出る。でも、もしパターンが不自然なら——」
「バレるだろう。死亡者のバイタルデータへのアクセスは監査対象だ」
「バレる。ログ開示法違反と捜査妨害。——あなたと同じ側に落ちる」
同じ側。犯罪者の側。俺は瀬川を見た。左手首を右手で握っている。湿疹の上から。掻くのではなく、握っている。
昨夜、暗闇の中で「私にもログに記録されない場所に消えた人がいる」と言った瀬川。母のログを読んだ夜を知っている瀬川。この女にとって、五人の「自殺」のデータは——母の死の構造と重なっているのだろう。ログに記録された完璧な人生。最後の行動分類は「不明」。自殺の動機はどこにも記録されていない。
瀬川が動こうとしているのは、技術的な好奇心だけではない。
だがそれを口にはしなかった。口にすれば、分析になる。分析にすれば、瀬川の覚悟を解剖することになる。
「分かった」
俺はそれだけ言った。
瀬川はうなずいた。左手首を離した。
戸田が咳をした。軽い咳。肺疾患の名残だろう。
「覚悟は結構だが、バレたら終わりだ。方法はあるのか」
瀬川が俺の手首を見た。デバッグメニューの緑色の文字が消えた端末。
「あるかもしれない。——あなたの端末を使えば」
「俺の端末?」
「デバッグメニューには保守SE権限がある。ログクラウドへの保守クエリを送れる。そしてブランクを起動した直後——送信機能が完全停止するまでの遷移状態が数秒間ある。端末IDの付与モジュールが先に落ちて、送信モジュールがまだ生きている隙間。その間にクエリを押し込めば、発信元IDなしの匿名クエリとしてログクラウドに到達する」
俺は自分の手首を見た。前回のブランクから十六時間以上。クールダウンは過ぎている。使おうと思えば使える。
だが持続時間が短くなる。前回は五分だった。次は何分になる。四分か。三分か。分からない。使うたびに短くなる。そして最終的にはバグが不安定化し、端末がクラッシュするリスクがある。
残りの使用回数は限られている。その一回を、ここで使う。
「ブランクの起動は俺がやる。クエリの入力はお前がやるのか」
「あなたの端末を私が操作する。起動直後の三秒間が勝負。——できる?」
俺は手首を見た。端末の無機質な表面。この中にバグがある。五分間の自由をくれるバグが。だが五分はもう五分ではないだろう。次の使用で何秒短くなるか、デバッグメニューの推定値は当てにならない。実測するしかない。
「いいだろう」
俺は言った。
戸田がメモ帳を閉じた。存在しないタバコを吸う仕草。それから俺を見た。
「お前のブランクを使うのか」
「情報のために使う。五人のバイタルデータが手に入れば、パターンの確認ができる。それは俺の冤罪の証明にもつながる」
「合理的だな」
「合理的だ」
戸田は何か言いかけて、やめた。代わりに、ジャケットのポケットのメモ帳に手を触れた。十二年分の記録。紙とペンと記憶だけで積み上げた、ログのない証拠。
「……まあいい。準備しろ」
瀬川は立ち上がった。左手首の湿疹を一度だけ掻いて、俺の隣に座り直した。
俺はテーブルに残った二十三冊のファイルを見た。二十三人の名前。二十三人の予測確率。二十三人のゼロ。
俺だけじゃない。
その事実は安堵と同時に、別の重さを運んできた。一人の冤罪なら、バグかもしれない。運が悪かっただけかもしれない。だが二十三人——統計的にあり得ない数の「外れ」は、偶然ではなくシステムの意図を示している。
誰かが、犯罪を犯さない人間に、犯罪予測を書き込んでいる。
なぜ。何のために。
テーブルの上の赤い付箋が、裸電球の光を受けて小さく揺れた。五人分の死。「自殺」と記録された死。記録は正しいのか。ログに記録された死因は、信じていいのか。
母のログの最後の記録は「屋上移動、行動分類:不明」だと、瀬川は言っていた。
ログは全てを記録する。ログは何も説明しない。




