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陽動

戸田庄吾は、階段を上っていた。


 コンクリートの壁が結露で濡れている。足元は暗い。裸電球の明かりはもう届かない。地下通路の最後の一段を踏んだ時、膝が鳴った。六十八歳の膝。慢性腰痛。十二年分の地下生活が、関節に沈殿している。


 前を歩くハナの白髪が、非常口の薄い光に浮かんだ。六十三歳。元小学校教師。小柄な背中が迷わず進んでいく。その後ろに、十四人の老人たちが続いていた。


 午後七時。予定より一時間遅れた。瀬川が殺害対象を特定した後、全員に事実を伝えるのに時間がかかった。老人たちは動揺しなかった。十二年間地下にいた人間は、もう大抵のことでは動じない。


 鉄の扉に辿り着いた。地上への最後の境界。戸田は扉の前で立ち止まった。


 十二年。


 最後に地上に出たのは2050年。ログ義務化法案が国民投票を通過した翌月だった。デモの帰りに、反対派のジャーナリストが三人拘束された。戸田はその日のうちに地下に潜った。手帳に「一時的」と書いた。一時的が十二年になった。


 鉄の扉のハンドルを握った。冷たかった。ハンドルの塗装が剥げて、鉄の地肌が出ている。この扉を最後に閉めたのは戸田だった。閉めた時、振り返らなかった。振り返っていたら、戻ってきていたかもしれない。


「戸田さん」


 ハナの声。


「開けるよ」


 ハナが言った。命令ではなかった。確認だった。開けるよ。準備はいいかと聞いていた。


 戸田は頷いた。頷いたことが暗闘の中でハナに見えたかは分からない。だが伝わったらしい。ハナの手が、戸田の手の上に重なった。細い指。教師の手。三十年以上黒板にチョークを走らせていた指。


 二人でハンドルを押し下げた。


 鉄の軋み。ロック機構が外れる音が、地下通路に反響した。扉が五センチ開いた。隙間から——空気が入ってきた。


 冷たかった。


 四月の夜気。排気ガスと湿った土と、微かに甘い匂い。花の匂いだろうか。地下の空気にはない匂い。通気ダクト経由の空気は温度情報だけを運んでくるが、匂いはほとんど届かない。


 戸田は、その匂いを肺の奥まで吸い込んだ。


 扉を大きく開けた。渋谷の裏路地。旧市街の、ビルとビルの隙間。コンクリートの壁に挟まれた狭い通路。頭上に——空が見えた。


 空。


 十二年間、天井しか見ていなかった。コンクリートの天井。裸電球の天井。水が滴る天井。その上に空があることは知っていた。知っていたが、見ていなかった。


 今、見ている。


 夜空だった。東京の夜空は星が少ない。ビルの照明とドローンの航行灯と、街路灯の光が大気に散乱して、星を覆い隠している。だが——月があった。薄い雲の向こうに、三日月が浮かんでいた。


 戸田は立ち止まった。


 右手の人差し指と中指が、無意識に動いた。存在しないタバコを口元に運ぶ仕草。吸って。吐いて。煙のない吐息が白く曇った。四月の夜気は、息が白くなるほどには冷えていない。白く見えたのは錯覚か。あるいは、十二年分の何かが吐息と一緒に出たのか。


「……綺麗だね」


 ハナが隣に立っていた。空を見ていた。


「汚い空だ」


 戸田は言った。声がかすれた。ぶっきらぼうに言おうとしたが、声が言うことを聞かなかった。


「汚いけど、綺麗だね」


 ハナが繰り返した。戸田は何も言えなかった。


 老人たちが一人ずつ、扉から出てきた。裏路地に並んだ十四人と戸田とハナ。十六人。投影のない手首。十二年分の皺と白髪。全員が空を見上げていた。


 誰も喋らなかった。言葉は要らなかった。


 配送ドローンが頭上を横切った。弁当箱ほどの機体。四つのローターが低い音を立てている。航行灯が赤と緑に点滅していた。ドローンは老人たちに関心を示さなかった。配送ルートを飛んでいるだけだ。


 だが、足元のセンサーノードは違った。


 街路灯の根元に埋め込まれた環境センサーノード。赤外線と音響センサーが、十六人の体温と存在を検知している。ログ端末の信号を受信している。十二年間ほとんど信号を発していなかった端末が、一斉に地上のネットワークと接続し始めた。


 戸田の手首が、微かに振動した。十二年ぶりの通知。投影ディスプレイが薄い光を手の甲に投げた。見慣れない画面。いや——見慣れているはずの画面。十二年前までは毎日見ていた画面。未来ログ。行動予測。


 投影に文字が浮かんだ。


 `> 19:08 — 渋谷区内を歩行中(実績)`

 `> 19:15 — 不明`

 `> 19:30 — 不明`


 「不明」が並んでいた。十二年間のデータ欠損。シビュラは戸田の行動を予測する材料を持っていない。だから「不明」。予測不能の人間。ログの外側にいた人間が、突然ログの内側に戻ってきた。


 システムから見れば——死者の復活だ。


 戸田は投影を見つめた。この薄い光を最後に見たのは十二年前だ。あの時は憎んでいた。この光が照らすものの全てを。ログ端末が記録するもの。予測するもの。管理するもの。その全てに抗って、地下に潜った。


 今、同じ光を見ている。だが——憎しみは薄れていた。代わりに、妙な郷愁がある。この光の下で、健一が育った。健一がログスコアに苦しみ、大学を諦め、ログ公安に就職した。この光の下で、十二年間。


「移動するよ」


 ハナが声をかけた。


「渋谷駅方面。全員固まって歩く。散らばらない」


 老人たちが動き始めた。戸田は手帳をポケットから出した。革の手帳。十二年分の重み。表紙を撫でた。閉じたまま。ここに挟まっている息子の成績表の切り抜き——小学三年生の「よくできました」に丸がついた通知表——を、確認する必要はなかった。指が覚えている。紙の位置も、折り目も。


 裏路地を出ると、通りに出た。渋谷の旧市街。十二年前と変わっている部分と、変わっていない部分がある。ビルの外壁が改修されている。歩道が整備されている。清掃ロボットが歩道を磨いていた。円筒型の白い胴体。十二年前にはなかった型だ。


 変わったのは——人の歩き方だった。


 通行人が全員、手首をちらちら見ながら歩いている。投影ディスプレイを確認する仕草。十二年前もあった。だが頻度が上がっている。三歩に一回は投影を見ている。未来ログの予測を確認し、予測通りに歩いている。予測通りに角を曲がり、予測通りに信号を待つ。


 人間が端末の指示通りに動く街。


 戸田はその光景を見た。十二年前、この光景に恐怖を覚えて記事を書いた。「ログ端末は人間を便利にしたのではない。人間を予測可能にしただけだ」。その記事で解雇された。


 今、同じ光景を見ている。恐怖は——変わっていなかった。


 十六人の老人が渋谷駅方面に歩いていく。通行人が半歩ずれた。老人たちの投影のない手首——いや、投影はある。だが十二年分の「不明」が並ぶ異常な表示は、周囲の端末に共有されていない。まだ。


 もう少しすれば、ログ公安のシステムが反応する。十六人の「死亡推定市民」のログが一斉に復帰した。それが異常として検知され、対応が始まる。


 渋谷駅前のスクランブル交差点が見えた。


 十二年前と同じ場所。同じ交差点。だがスクリーンが増えている。ビルの外壁が全面ディスプレイになっていて、広告と天気予報とログスコアのランキングが流れている。人混み。金曜の夜の渋谷。二十代から三十代の若い世代が多い。全員が手首に端末を埋め込まれた人間。


 その中に、十六人の老人が紛れ込んだ。


「すごいね」


 ハナが呟いた。


「何がだ」


「みんな、自分のことしか見てない」


 そうだった。交差点を渡る数百人の通行人は、老人たちに気づいていない。投影を見ているか、連れの顔を見ているか、足元を見ているか。十六人の異質な存在——投影のない手首、十二年分の汚れがついた服——に、誰も目を向けない。


 ログが教えてくれないことは、見えないのだ。


 戸田はその光景を記者の目で見ていた。十二年間、忘れていなかった目。データではなく、人間を見る目。記事にするなら——「ログ社会の市民は、ログに記録されない事象を知覚できなくなっている」と書くだろう。だが記事を書く場所はもうない。


「戸田さん」


 後ろから声がかかった。コミュニティの一人。元銀行員の七十二歳。名前は吉田。


「端末が、何か反応してる」


 吉田が自分の手首を見ていた。投影ディスプレイが点滅している。通知が来ている。


 戸田は自分の端末を見た。同じだった。通知の嵐。十二年分のシステムメッセージが一斉に届いている。ファームウェアアップデートの通知。ログスコアの再計算通知。位置情報の同期通知。


 そして——一つだけ、異質な通知があった。


 `> 公安ログ管理局:該当市民のログ復帰を検知しました。身元確認のため、最寄りの管理局出張所にお越しください。`


 来た。


 システムが反応した。十六人のログ復帰が検知され、ログ公安に通報された。ここからは時間の問題だ。


 戸田は交差点の向こうを見た。渋谷の街。ビルとスクリーンと人混みの向こうに、霞が関がある。遼一と瀬川がこれから向かう場所。


 陽動の目的は、ログ公安の注意をこちらに引きつけること。十六人の「死亡推定市民」が一斉に地上に復帰した。テロの可能性を排除するまで、公安は人員を割く。その間に——。


 頭上でモーター音がした。


 見上げた。黒い機体。配送ドローンではない。公安監視ドローンだ。高性能カメラとログ端末信号受信機を搭載した、やや大きめの機体。老人たちの頭上をゆっくり旋回している。


「始まったね」


 ハナが空を見上げた。恐怖はなかった。六十三歳の元教師の顔は、穏やかだった。


「あんたたち。散らばらないで。固まって歩く。走らない。騒がない。ただ、普通に歩くの」


 ハナの声が老人たちに届いた。教師の声だった。三十年間子供たちに語りかけてきた声。老人たちは頷いた。


 戸田はハナを見た。この女は強い。十二年間地下にいて、初めて地上に出て、公安ドローンが頭上を飛んでいる状況で——普通に歩けと言える。正しいだけじゃ人は救えない。ハナはそう言った。正しさではなく、穏やかさで人を導く。戸田にはできないことだ。


 スクランブル交差点を渡った。信号が青になるのを待って、他の通行人と一緒に。普通に。十六人の老人が、数百人の通行人に混じって歩いている。


 巡回犬のモーター音が聞こえた。地上にも出てきたか。黒い四足歩行ロボットが、駅前広場の端を走っている。体高約60センチ。顔認識カメラが搭載されている。ログ端末の信号がなくても、歩行パターンで個人を識別できる。


 だが——十二年間地下にいた人間の歩行データは、システムにない。照合するデータがない。巡回犬は老人たちの顔を撮影し、データベースと照合しようとして——十二年前の登録写真との差異に混乱するだろう。六十八歳の戸田の顔は、五十六歳の登録写真とは別人だ。


 時間を稼げる。少しだけ。


 駅前広場に入った。ベンチがある。花壇がある。十二年前にはなかった噴水がある。噴水の周りに若い男女が座っている。手首の投影を見ながら笑っている。金曜の夜のデートだろう。


 戸田はその噴水の前で立ち止まった。


 水の音。十二年間聞いていなかった音。地下には水が滴る音はあった。結露が壁を伝う音。だが噴水の音は違う。上に向かって噴き上がり、落ちてくる水の音。重力に逆らって上がり、重力に従って落ちる。


 その水音を聞きながら、戸田は思った。


 この街のどこかに、健一がいる。


 二十七歳のログ公安末端事務職員。父が戦った相手の組織で働いている息子。十二年間会っていない息子。


 今、戸田の端末が信号を発している。「死亡推定市民のログ復帰」として、ログ公安のシステムに通報されている。健一がその通報を見ることはないかもしれない。末端の事務職員に、リアルタイムの異常検知通報は届かないだろう。だが——明日の朝、出勤した時に、処理済みの案件として戸田の名前を見るかもしれない。


 「戸田庄吾。68歳。元ジャーナリスト。死亡推定→ログ復帰。渋谷駅周辺で検知」


 その一行を、健一はどう読むだろうか。


 親父が生きている。


 そう思うだろうか。それとも——「また余計なことをしている」と舌打ちするだろうか。


 どちらでもいい。生きていると知ってくれれば。同じ空の下にいると知ってくれれば。


 公安監視ドローンが二機に増えた。旋回の半径が狭くなっている。老人たちを中心に、円を描いている。


「戸田さん」


 ハナが戸田の腕に触れた。


「座ろうか」


 ハナがベンチを指した。噴水の前のベンチ。十二年ぶりの地上で、ベンチに座る。ただそれだけのことが、途方もなく贅沢に思えた。


 二人で座った。老人たちも思い思いの場所に座り始めた。ベンチに。花壇の縁に。噴水の段差に。十六人の老人が、金曜の夜の渋谷駅前広場に座っている。不自然な光景のはずだが、誰も気にしていない。


 ハナが空を見上げた。


「月が出てる」


「三日月だ」


「知ってる。私だって月の形くらい分かるよ」


 ハナが笑った。小さな笑い。戸田も笑いそうになった。だが笑わなかった。代わりに、空を見た。


 三日月。薄い雲の切れ間に浮かんでいる。東京の汚い夜空で、それでも月は光っている。ログに記録されない光。センサーノードは月光の強度を計測できるだろうが、月が美しいかどうかは記録しない。


 美しかった。


 戸田は、十二年間でこれほど単純な感情を持ったことがなかった。正義と自己正当化と息子への罪悪感に塗れた十二年間。切り分けられない動機。予測できない感情。そんな複雑な内側を抱えて生きてきたが——今、月を見上げて「美しい」と思っている。それだけ。


 存在しないタバコを吸う仕草。吸って、吐いて。吐息が夜気に溶けた。


 サイレンが聞こえた。


 遠い。だが近づいている。公安車両のサイレン。自動運転の黒い車両が、渋谷駅前に向かっている。複数台。


 老人たちの顔が強張った。ハナが立ち上がった。


「大丈夫。座ってなさい」


 ハナの声は穏やかだった。子供たちに語りかける声。


「走らない。逃げない。私たちは何も悪いことをしていない。十二年ぶりに外に出ただけ」


 サイレンの音が大きくなった。公安車両が交差点を曲がって広場に近づいてくる。三台。黒い自動運転車両。ヘッドライトが白く光っている。


 戸田は立ち上がった。ハナの隣に立った。


「ハナ」


「何?」


「……ありがとうな」


 ハナが戸田を見た。目が柔らかくなった。


「お礼は後で聞く。今は座ってなさい」


 戸田は座らなかった。立ったまま、公安車両が停車するのを見ていた。


 車両のドアが開いた。ログ公安の制服を着た人間が降りてきた。若い。二十代後半か三十代前半。端末を操作しながら歩いてくる。


 戸田は、その顔を見た。


 健一ではなかった。


 当然だ。健一は末端の事務職員だ。現場対応には出てこない。だが一瞬——一瞬だけ、期待した自分がいた。


 期待したのか、恐れたのか。


 区別はつかなかった。


 公安職員が近づいてきた。巡回犬が二体、職員の横を並走している。モーター音が噴水の水音と混ざった。


「こちらは公安ログ管理局です。ログ復帰が確認された方は、身元確認にご協力ください」


 拡声器の声。淡々としている。事務的だ。テロ対応の緊張はあるが、相手が老人たちだと見て——多少、肩の力が抜けたのだろう。


 その隙。


 今、霞が関では、公安の人員が渋谷に向かっている。注意がこちらに集中している。遼一と瀬川が動くなら今だ。


 戸田は空を見上げた。三日月は雲に隠れかけていた。


 正確に言えば——月が雲に隠れたのではない。雲が月を隠したのだ。月は変わらずそこにある。見えなくなっただけだ。


 十二年間、戸田は月を見なかった。月はずっとそこにあったのに。見えなかっただけだ。


 健一も——そうだろうか。


「身元確認にご協力ください」


 二度目の呼びかけ。戸田はポケットから手帳を出した。古い革の手帳。十二年分の重み。


 これを開けば、中に何が書いてあるか。取材メモ。息子の成績表。ログ制度の闇の断片。紙に書いた記録は、ログクラウドに残らない。消去できない。


「俺は戸田庄吾だ」


 声が出た。かすれていたが、記者の声だった。十二年ぶりの、地上での声。


「ログ復帰に伴い、身元を申告する。正確に言えば——十二年間、ここにいなかっただけだ。消えていたわけじゃない」


 公安職員が端末を操作した。戸田のデータを照合している。十二年前の登録写真と、今の顔を。


 戸田は月を見た。雲の向こうの三日月を。見えなくても、あることは知っている。


 健一。


 お前が生きていることは知っている。お前がログ公安で働いていることも。お前が俺を恨んでいることも。——全部知っている。ログに記録されていないことだけが、俺の知っていることだ。


 公安車両のサイレンが、もう一つ鳴った。増援が来る。注意がこちらに集まっている。渋谷に。十六人の老人に。


 遼一。瀬川。今のうちに行け。


 戸田は立ったまま、月を見ていた。存在しないタバコを吸う仕草。十二年間、地下で吐いてきた煙のない吐息が、初めて夜空に向かって上った。

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