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透明な檻

 走っていた。


 品川駅の階段を駆け上がり、改札を抜け、駅前の広場に飛び出した。足が勝手に動いている。どこに向かっているのかは分からない。分からないまま走っている。止まったら拓也と同じになる。その一行だけが思考の全領域を占有していた。


 投影ディスプレイの心拍数が点滅していた。156。走っているのだから当然の数値だ。だがこの数値はログ端末が記録し、ログクラウドに送信し、ログ公安のモニターに表示されている。俺の恐怖がリアルタイムでデータに変換され、追手の道標になっている。走れば走るほど心拍が上がり、心拍が上がるほどデータが蓄積され、データが蓄積されるほど追跡が容易になる。逃走と追跡が同じログの上で同時に進行する。それでも足は止まらなかった。走っている間は考えなくていい。体が勝手に処理してくれる。頭で考えるよりも、足で動いている方がまだましだ。何かをしている。ベンチに座って膝が折れていた五分前の自分より、少なくとも前に進んでいる。


 品川の大通り。朝八時の通勤時間帯で人が多い。配送ドローンが頭上を横切り、歩道では清掃ロボットが白い胴体を揺らしながら落ち葉を吸い込んでいる。駅前の案内ロボットが「八時台は品川方面ポッドが混雑します」と通行人に声をかけている。日常だ。昨日まで俺はこの風景の一部だった。清掃ロボットをよけ、ドローンの影を気にせず歩き、案内ロボットの声を聞き流す。それがたった五十五分前の俺だ。


 最初の異変に気づいたのは、大通りに出て三十秒後だった。


 すれ違った女性が、ふいに半歩ずれた。俺を避けた。自然な動作だった。混雑した歩道で他人を避けるのは当たり前のことだ。肩がぶつかりそうになって身をかわしただけかもしれない。だが二人目。次にすれ違った男性も同じ動きをした。視線を一瞬だけ俺に向け、すぐに逸らし、足早に距離を取った。その手首の投影ディスプレイが微かに光っていた。何かの通知を受け取っている。三人目は立ち止まって、手の甲の投影を確認してから、露骨に方向を変えた。子供の手を引いた母親が、子供を反対側に引き寄せた。


 四人目。五人目。六人目。全員が同じだった。


 七人目の男性の投影ディスプレイが、角度的にほんの一瞬だけ読めた。


 ——予防拘束対象者接近。


 全員に届いている。俺とすれ違う全ての人間の端末に、俺の接近が警告として表示されている。半径何メートルかは分からない。十メートルか、二十メートルか。近づくたびに端末が振動し、相手の投影に警告が浮かび、人が避ける。


 通勤客の流れが俺を中心に割れた。人々の間に不自然な空間ができていく。三メートル四方の透明な空間。誰も俺を見ていない。誰もが俺を認識している。それが同時に成立している。腕の表面がざらついた。走って上がった体温が急速に引いていく。汗が冷えているのか、それとも別の何かが肌の温度を奪っているのか。透明な檻の中心に立っている。


 昨日まで俺も同じ側だった。通知を受け取って半歩ずれる側。受け取ったことはないが、もし受け取っていたら——同じように避けていた。確信がある。端末が避けろと言うから避ける。怖いからではない。それがこの社会の作法だから。俺はその作法を疑うどころか、認識すらしていなかった。避ける側と避けられる側の間に、半歩分の距離しかない。その半歩がこれほど絶望的に遠い。


 大通りにいるのは危険だった。すれ違う人間が多ければ多いほど俺の位置が確認される。裏路地に入った。だが状況は変わらなかった。街路灯の根元のセンサーノードのレンズが光っている。こいつは俺がここを通ったことを記録している。次の交差点にもレンズ。古いビルの壁面に取り付けられた環境ノード。自動販売機の側面に埋め込まれたセンサー。建物の入口の認証パネル。全てが第二層のネットワークで繋がっている。保守SEとして仕様は知っていた。知っていたが、追われる側に立って初めて、仕様書の文字列が視界の隅で光るレンズに変わった。


 投影ディスプレイを見た。ログ端末が俺の位置をリアルタイムで送信している。現在位置の座標。緯度、経度、精度5cm。5cm。歩道のどの位置に立っているかまで特定される。自分で自分を追跡しているようなものだ。俺が逃げる経路を俺の端末が記録し、俺の端末がログ公安に送信し、ログ公安がそのデータで追跡する。被害者と証人と追跡装置が全部、俺の左手首に埋まっている。


 ——考えろ。


 頭の中の分析装置が、少しだけ再起動した。断片的に。まだ平常時のようには動かない。だが「走っているだけでは何も変わらない」という判断は出た。


 移動手段を考える。リニアポッドはログ連動。乗ったステーションと降りたステーションが記録される。タクシーもログ連動。自動運転車は全てログ端末認証で動く。個人所有の車は——持っていない。変数を一つ変えてみる。SE的な条件反射だ。テスト環境でバグを再現する時と同じ手順。入力を変えれば出力が変わるかもしれない。


 前方に自動運転バスが停車していた。渋谷方面行き。ドアが開いている。


 飛び乗った。ログ端末が乗車を認証した。座席に崩れるように座る。背中がシートに沈み、呼吸が深くなった。走り続けていた体が、座ったことで一瞬だけ緩んだ。心拍数が下がり始めているのが分かる。窓の外を品川の街が流れていく。何かできた。ベンチで座っているだけだった十五分前、透明な檻の中心で立ち尽くしていた五分前、それよりは前に進んだ。微かな充実が胸にあった。


 車内は通勤客が七、八人。何人かが投影ディスプレイを確認している。俺の接近通知を見ているのか、朝のニュースを見ているのか、区別がつかない。中央の席に座った女性がちらりとこちらを見て、目を逸らした。


 バスの中央に案内ロボットが立っていた。人型の上半身に台車型の下半身。「次は○○停留所です」と案内している。その胸のあたりにカメラレンズがあった。案内ロボットのカメラは通常、乗客の安全確認用だ。通報機能はない。だがカメラが記録した映像はバス会社のサーバーに保存される。ログ公安が要請すれば取得できる。


 レンズが一瞬だけ俺を捉えた。光った。ロボットは何も言わなかった。案内ロボットに俺を追う理由はない。だが記録はされた。


 二つ先の停留所で降りた。降りた瞬間に方向を変えて走った。バスの進行方向と逆に。


 無意味だった。走りながら気づいた。投影ディスプレイに乗車記録が表示されていた。品川駅前バス停、乗車、8:23:04。二つ先のバス停、下車、8:31:47。降車後、逆方向に走行中。全部残っている。


 足が止まった。


 これは末端SEの発想だ。テスト環境でバグを再現するために変数を一つ変えてみる。入力を変えれば出力が変わる。だが今回の問題は変数を変えて解ける類のものではない。バグではなく、仕様だからだ。ログが全てを記録するのは不具合ではない。設計通りだ。俺の思考回路はシステムの末端しか見えない。全体像が見えない。拓也ならそう言う。「お前は末端SEだから、末端のバグしか見えないんだ」。


 撹乱のつもりで乗ったバスは、「パニック状態の対象者が計画性のない逃走を試みている」という分析データを追手に提供しただけだった。逃げれば逃げるほどログが太る。膝に手をついた。前屈みになった。視界の端で投影ディスプレイの心拍数が揺れている。142。手がそのまま止まった。この数字が、いま、どこかのモニターに「逃走中の対象者の身体状態」として表示されている。


 深爪の指先がズボンの布地に引っかかって痛んだ。昨日より赤い。ベンチの縁を握りすぎた後遺症が残っている。右手の人差し指の爪の先に、うっすらと血が滲んでいた。こういう些末な痛みだけが、データに変換されない俺の体験だった。ログは心拍を記録するが、深爪の痛みは記録しない。


 喉が渇いていた。走った後の乾きは本能的で、そこにデータも予測もない。ただ喉が張りついている。


 自動販売機が目の前にあった。習慣だった。のどが渇いたら自販機で買う。ログ端末をかざして認証して、飲み物を取る。毎日やっていること。


 投影ディスプレイを自販機にかざした。認証エラー。画面に赤い文字。


> [アカウント凍結中]

> 公安ログ管理局の要請により、決済機能を一時停止しています。


 水も買えない。


 喉の奥が痛んだ。渇きが、ただの渇きから痛みに変質していた。当然だ。予防拘束対象者の経済活動は凍結される。仕様として知っていた。仕様として知っていたものが、自分の喉の痛みとして返ってきた。現金は十二年前に廃止されている。ログ端末の認証なしに経済活動はできない。飲み物も食べ物も買えない。ホテルに泊まることもできない。自販機の赤い文字は、社会の全てのドアが閉まったことを意味していた。


 壁にもたれて、頭の中で状況を整理しようとした。ログ端末の画面に、昨日の夕食の推奨メニューがまだ残っていた。「鶏むね肉のサラダ、推奨摂取カロリー580kcal」。殺人犯の推奨夕食メニュー。端末は俺が逃走中であることを知っているはずなのに、日常のUIは何も変わっていない。決済は凍結するが、推奨メニューは表示し続ける。仕様通りだ。仕様が残酷なのではない。残酷さが仕様に織り込まれていないだけだ。


 品川から渋谷方面まで約五キロ。走ったり歩いたりして一時間半。その間に理解したことは一つだけだった。


 この社会で逃げることは、不可能だ。


 ログ端末が動いている限り、全てが記録される。位置も心拍も移動手段も立ち止まった時間も。すれ違う全員が俺を認識し、全員が半歩ずれる。買い物はできない。公共交通は全行程が記録される。街の全てのセンサーが俺を見ている。逃走経路の全てがリアルタイムでログに書き込まれ、追手への贈り物になる。


 逃げていない。逃げるふりをして、檻の中を走り回っているだけだ。


 拓也が部屋の中でログ記録を壁に貼り続けたのと、何が違う。あいつは部屋の中を走り回り、俺は街を走り回っている。どちらも檻の中だ。檻の大きさが違うだけで、出口がないことは同じだった。


 渋谷の裏路地をさらに奥に入った。古いビルが並ぶエリア。再開発から取り残された一角で、他の場所より少しだけ人が少ない。築年数の古い建物は環境ノードの設置密度が低い。保守作業で見たデータを思い出していた。旧市街区のノード設置率は新市街の約六割。六割で十分だ。逃げ場はない。だが十割よりは、呼吸がしやすかった。


 壁に手をついた。コンクリートの冷たさが手のひらに伝わった。心拍数は112まで下がっていた。走るのをやめたからだ。体は勝手に最適化する。恐怖にすら慣れる。


 投影ディスプレイの隅に、未来ログのカウントダウンが表示されていた。


 残り、70時間。


 空を見上げた。配送ドローンが二機、弁当箱型の機体でいつも通りに飛んでいる。その少し後ろに——黒い影。やや大型。企業ロゴがない。公安ドローン。さっきより近い。旋回の半径が小さくなっている。


 左手首のログ端末が振動した。心拍数が記録されている。俺の手首が震えているのか、端末が震えているのか。区別がつかなかった。この振動のデータが、いま、どこかのモニターに映っている。

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