予測通りの朝
七時十五分。
未来ログの予測通りに目が覚めた。正確に言えば、ログが予測した時刻に覚醒するよう、体が最適化されているのだろう。従うことと従わされていることの区別が、俺にはもうつかない。
左手首の投影ディスプレイを起動する。手の甲に青白いホログラムが浮かんだ。今日のスケジュール。
> 07:15:00 — 起床(実績)
> 07:18:22 — 洗面(確率 99.1%)
> 07:31:05 — 朝食(確率 98.7%)
> 07:42:33 — 品川駅改札通過(確率 95.7%)
> 08:03:11 — 勤務先到着(確率 97.1%)
昨日と同じ行が並んでいる。一昨日とも同じだった。先月の月曜とも。俺の人生はバグのない優等生コードで、安定していて高速で、何の面白みもない。誰かがコードレビューしたら「問題なし、マージ可」の一言で片付くような人生だ。問題がないことだけが取り柄。
ベッドから出て洗面台に向かう。動作が自動的で、自分の体が外部から操作されている感じがする。鏡の中の男は、昨日と同じ顔をしていた。目の下のクマは体質だとバイタルレポートが教えてくれる。髪は適当に整えた。適当に、という表現は正確ではない。ログの記録上は「整髪:実施」になるだけで、適当かどうかは記録されない。ログは行動を記録するが、行動の質までは見ない。そこに救いがあるのか虚しさがあるのかは、考えないようにしている。
爪を切ろうとして、すでに切りすぎていることに気づいた。右手の人差し指の先が赤い。いつ切ったのか覚えていない。こういうことは未来ログにも過去ログにも載らない。「爪を切る」は行動分類に含まれない。ログの隙間にあるどうでもいい行為。どうでもいい行為だけが、まだ俺自身のものだ。
投影ディスプレイに通知。
> 07:18:22 — 洗面(実績)
予測が実績に変わった。22秒の誤差もなく。
パーカーは三着を順番に着ている。今日は二番目の黒。一番目との違いは、左袖の内側にわずかな毛玉があるかないか。自分でもどっちがどっちか分からなくなる時がある。ハンガーにかかっているのはワイシャツと冠婚葬祭用のスーツ。棚にはモノが少ない。モノを置くと落ち着かない。理由は——分かっている。分かっていて、考えないようにしている。壁一面に何かを貼り詰めた部屋の記憶が、視界の端をかすめて消えた。
配送ドローンの羽音が窓の外で止まった。ベランダの受取ボックスが認証音を鳴らす。ログ端末の生体認証と受取ボックスの端末が通信して、本人確認が二秒で済む。便利だ。便利すぎて、何も感じない。
卵と合成ベーコンのサンドイッチ。先月「脂質がやや過多」という通知が出たので、今月はベーコンの量が微妙に減っている。味は——味がしなかった。舌が何も拾わない。うまくもまずくもなく、ただカロリーと栄養素の塊が食道を通過していく感覚だけがある。空腹という入力に対する処理が完了した。それだけだ。食事という行為がログに記録され、摂取カロリーが蓄積され、それが明日の食事の推奨値に反映される。食べることすら再帰関数だ。入力が出力を生み、出力が次の入力になる。終了条件のない再帰。
> 07:31:05 — 朝食(実績)
部屋を出る。エレベーターで一階に降りると、エントランスの案内ロボットが「おはようございます、霧島様。本日の天気は晴れ、最高気温28度です」と言った。人型の上半身に台車型の下半身。毎朝同じ声で同じことを言う。俺が返事をしなくても、ロボットは気にしない。先月引っ越してきた隣の女性は毎朝「ありがとう」と言い返している。あの人のログスコアは俺より高いだろう。
品川の通りに出た。四月の朝。街路灯の根元にセンサーノードの小さなレンズが光っている。直径五センチほどの円形のカバーの奥に、赤外線センサーと音響センサー。こいつは俺がここを通ったことを記録している。ログ端末のGPSと照合されて、「霧島遼一、7時36分14秒、品川区東品川二丁目の歩道を北北東へ歩行中」というデータが、ログクラウドに積み上げられる。
歩道では清掃ロボットが白い胴体を揺らしながら落ち葉を吸い込んでいた。白い胴体のカメラレンズが一瞬こちらを向いた気がしたが、すぐに路面に戻った。気のせいだろう。清掃ロボットに俺を見る理由はない。
頭上を配送ドローンが横切った。コンビニのロゴが入った弁当箱ほどの機体。この街のどの朝も、だいたいこんな風景だ。人間と機械が同じ歩道を使い、互いに何も感じていない。少なくとも、人間の方は感じていないふりをしている。
駅前のログ弁護士の広告が壁面に投影されていた。「不当な予防拘束、ご相談ください。初回ログ閲覧無料」。予防拘束法——プレクライム法に不満を持つ人間が、商売になるほどにはいるということだ。俺にはあまり関係がなかった。未来ログに犯罪が予測される人間は、俺のように予測通りに生きていない連中だろう。そう思っていた。
品川駅の改札を通る。左手首をかざすと認証が完了した。ゲートが開き、通勤客の流れに乗ってホームに出る。
> 07:42:33 — 品川駅改札通過(実績)
秒単位で一致する。この一致には小さな満足がある。全てが計画通りに進んでいるという安心感。小さくて空っぽな満足。自動販売機が正しく商品を排出した時に、自動販売機が感じる満足——があるとしたら、きっとこんな感じだ。
拓也なら何か気の利いたことを言うだろう。「予測と実績が一致することに喜びを見出す人間は、自動販売機と何が違うんだ」とか。あいつはそういう人間だった。正しくて、明晰で——だから壊れた。
俺は壊れていない。壊れるほどのものを、最初から持っていないだけだ。
ホームのベンチに座って、出社前にログを確認する。習慣だった。昨日のバイタルサマリを流し読みする。平均心拍数68、ストレス値0.3、睡眠スコア82。平凡な数字の羅列。平凡であることだけが、俺と兄を分けている。
投影を閉じようとした時、画面の端にノイズが走った。
一瞬だった。青白いホログラムが乱れ、砂嵐のようなちらつきが視界の隅を横切った。すぐに収まった。投影素子が湿度や体温の変化で揺れることは稀にある。保守作業で対応したことがある。管理コンソールに「投影素子の微細振動」というエラーコードが上がって、大抵はファームウェアの自動修正で直る。気にするほどのことではない。
ただ、ノイズの直後に画面が更新されたのは——偶然だと、その時は思った。
未来ログの末尾に、見慣れない行が追加されていた。
今朝は、なかった行。さっき確認した時には、なかった行。
> 72:00:00後 — 特定人物に対する殺害行為(確率 99.97%)
目が文字の上を滑った。意味が入ってこない。
殺害。
殺害行為。特定人物に対する。
確率。99.97。
文字をなぞるように三回読み直して、三回とも同じことが書いてあった。
立ち上がろうとした。膝が折れた。ベンチの背もたれに手をついた。手のひらが濡れていた。汗だと気づくのに数秒かかった。視界が狭くなっていた。ホームの端が遠くなり、目の前のディスプレイだけが異様に近い。腹の底から何かがせり上がってきた。朝のサンドイッチの味が喉の奥に戻ってきた。吐き気だった。体が椅子の上で前に折れた。
投影ディスプレイの隅で、心拍数の数字が跳ねていた。94。112。138。自分の恐怖を、自分の端末がリアルタイムで数値化している。
殺害行為。
俺が。
誰を。
頭の中が白い。いつもは勝手に回る分析装置が動かない。エラーコードも出ない。分析以前の場所で何かが壊れていた。
> ※本予測に基づき、公安ログ管理局に通報されました。
注記は小さなフォントで表示されていた。道路工事のお知らせと同じ書式。お前の人生が終わるという通知が、道路工事と同じ大きさで届く。
通報された。
もう届いている。この瞬間も跳ね上がり続けている心拍データが、どこかのモニターに映っている。品川駅、ホーム3番線、ベンチ中央。心拍数164の男。ログ公安の誰かがこの数字を見て、椅子から立ち上がっているかもしれない。99.97%の殺人予測だ。閾値の90%をはるかに超えている。
——待て。
呼吸が浅い。浅いまま、思考だけが動き始めた。分析装置の断片が、壊れた基板の上で不安定に明滅するように。
通報から市民への共有まで、タイムラグがある。保守作業でその仕様を読んだことがある。予防拘束対象者の情報が一般市民の端末に通知されるまで、通常三十分から一時間。
三十分。
それだけの猶予が、残されている。
ホームのアナウンスがポッドの到着を告げた。いつもの時刻。いつものリニアポッド。周囲の通勤客がホームの端に移動している。誰も俺を見ていない。まだ。
ポッドが滑り込んできた。ドアが開く。通勤客がぞろぞろと吸い込まれていく。俺は座ったままだった。膝に力が入らなかった。乗るべきか。いつものポッドに、いつものように。勤務先に着けば木村課長がいて、いつもの保守スケジュールがある。
——出社するということは、自分から拘束されに行くということだ。
拓也。
名前が浮かんだ。考えたのではない。浮かんだのだ。八年間蓋をしていた場所から、押し上げられるように。左手首のログ端末が急に重くなった。比喩ではない。手首の内側に埋め込まれた三センチの金属片が、骨に食い込むような圧迫感。心因性の何かだ。ログ端末はこういう主観的な重さを記録しない。
兄の部屋。壁一面のログ記録。起床時刻、歩数、心拍数、食事の内容。紙に印刷されたデータが壁を覆い尽くしていた。あの目。机の前に座って、壁のデータを見つめ続けるあの目。
——「ログに書いてないことは、俺の人生じゃないんだ」
あの時は意味が分からなかった。狂っていると思った。でも今、予測通りに生きてきた俺の未来ログに「殺人」と表示された。予測に従って生きることと、予測に壊されること。その距離は、兄が言うほど遠くなかった。
お前と同じ場所に来てしまった。
ポッドのドアが閉まった。ホームに俺だけが残された。心拍数は152。少しだけ下がり始めていた。こんなものにまで最適化するのか、この体は。
足元に目を落とした。深爪の指先が赤い。ベンチの縁を握りすぎて、爪の先から薄く血が滲んでいた。
立て。
足に力を入れた。膝が震えた。
立て。走れ。拓也は走らなかった。部屋に閉じこもった。壁にログを貼って、自分のデータを見つめ続けて、最後には管理区域の圏外に消えた。ログ端末の最後の記録は青森県の山の中。端末を外せば死ぬ。だから公式には「死亡推定」。遺体は見つかっていない。
俺は逃げる。兄と同じ場所に立ったなら、兄と違う方向に走る。正しいかどうかは分からない。分からないが、座ったまま心拍数が下がっていくのを眺めているよりはましだ。
立ち上がった。膝はまだ震えていた。
ホームの向こうに、街路灯のセンサーノードのレンズが光っていた。頭上で配送ドローンが一機、何事もないように飛んでいった。駅前の案内ロボットが「次のポッドは七分後です」と告げた。
全部が、俺を見ている。
さっきまでただの風景だったものが、全部。清掃ロボットのカメラレンズ。街路灯の根元のセンサー。通勤客の手首に光る投影ディスプレイ。同じ街が、同じ機械が、同じ人間が——一秒前とは違うものになっていた。
残り、72時間。
お読みいただきありがとうございます。近未来SF×逃走サスペンス、全32話です。毎朝更新していきます。よろしければブックマーク・評価をお願いいたします。




