データだけを見る男
筧俊哉は指揮室の椅子に深く座り、モニターを見ていた。
画面には品川から渋谷にかけての地図が展開され、赤い軌跡が一本の線を描いている。霧島遼一。28歳。ログクラウド末端保守SE。外部委託企業ネクストシステムズ勤務。午前7時46分に品川駅ホームから逃走を開始し、現在も渋谷方面を移動中。
軌跡は蛇行していた。大通りから裏路地へ、裏路地から別の大通りへ。途中で自動運転バスに乗車し、二つ先の停留所で降車して逆方向に走った記録がある。筧は右手の人差し指でその軌跡をなぞった。品川駅前バス停、乗車、8:23:04。二つ先のバス停、下車、8:31:47。降車後、西南方向に走行。速度は時速約8km。全力疾走ではない。体力の限界が近い。
筧は軌跡の全体像を縮小表示にした。品川から渋谷方面への蛇行は、俯瞰すると一つの傾向を示していた。東京湾側を避け、内陸方向へ。繁華街よりも旧市街のエリアを選んでいる。
隣の席で藤原が身を乗り出した。26歳。入局三年目の若手で、表情の動きが正直すぎるのが長所でもあり短所でもあった。
「主任、これ見てください。バスの降車後に逆走してます。撹乱のつもりですかね」
「意味がありません」
筧は軌跡から目を離さなかった。
「バスの乗車時間は八分四十三秒。降車後の逆走は四百メートルで停止。ログが全行程を記録している以上、方向を変えても位置は筒抜けです。事前に逃走経路を準備した形跡もない。協力者との事前連絡もない。パニックですね」
「やっぱりそうですよね。計画性ゼロだ」
藤原が画面を覗き込みながら言った。筧は藤原の方を見なかった。
「ただし、完全なパニックではない」
「……え?」
「完全なパニックなら直線的に走ります。この男は蛇行しながらも、環境ノードの設置密度が低いエリアを一貫して選択している。旧市街の、再開発されていない地域です。末端保守SEですから、ノードの配置データに業務で触れている。無意識かもしれませんが、職業的な知識が逃走経路を選ばせている」
筧の声は平坦だった。分析結果を読み上げるように、感情の起伏がない。データを口にしている時の筧は正確で、温度がない。
藤原がプロファイルの詳細画面を開いた。
「えーと、霧島遼一。ログスコアは下位三〇パーセント。交友関係は極めて希薄——同僚との私的な接触がほぼゼロ。勤務先の人事評価は可もなく不可もなく。独身、ワンルーム。趣味は映画視聴、ただし映画館じゃなくて自宅端末で20世紀の作品ばっかり観てるみたいです。特記事項は——」
「兄がいます」
筧は藤原の報告を遮って画面を切り替えた。プロファイルの家族欄を拡大する。
「霧島拓也。享年24歳。2054年、予防拘束法施行年に予防拘束。予測内容は『公共施設への破壊行為』、確率91.3%。拘束期間30日。釈放。予測は不的中——破壊行為は発生していません」
筧はデータを読み上げた。事故報告書を読むのと同じ口調で。
「釈放後の記録。ログスコアが急落。賃貸契約の更新不可。就労記録なし。釈放から三ヶ月後に管理区域の圏外に移動。ログ端末の信号途絶。端末を除去すれば橈骨動脈の血流遮断で死亡しますから、公式記録は死亡推定です。遺体は未発見」
藤原は少し黙った。それから口を開いた。
「……プレクライム法の施行年ですよね。反ログ活動家の一斉拘束があった時期だ。兄は大学院で情報倫理を研究してたみたいです。過激派じゃない、学術的な批判者ですね。それが91.3%で拘束されて——なんか、こう……」
「データ上、兄の予測は不的中です。それ以上の評価はしません」
筧はそう言って画面を閉じた。声にはそれまでと同じ温度しかなかった。藤原が何か言いかけたが、筧の横顔を見て口をつぐんだ。表情が変わっていない。変わっていないことが、藤原には少しだけ怖かった。
「次のデータを確認します」
筧は品川駅ホームの監視映像を呼び出した。三番線ベンチ。午前7時46分。霧島遼一がベンチに座ったまま、ログ端末の投影を見つめている。殺人予測99.97%が表示された瞬間の映像だ。
画面の右端にバイタルデータがオーバーレイ表示されていた。心拍数の推移グラフ。78。94。112。138。164。
「164bpm」
筧は数字を声に出した。
「予測表示から12秒後の最大値です。上昇率は毎秒約7bpm。安静時78から164への急上昇」
藤原が画面を覗き込んだ。「164って、結構やばくないですか。何かの反応——」
「数字を並べただけです」
筧の目は映像の中の遼一の顔に固定されていた。ベンチの縁を握りしめ、膝が折れかけている。手のひらが濡れているのが映像でも分かった。目を見開き、口元は半開き。
殺人を計画している人間の心拍ではない。計画している人間は準備をしている。準備している人間のストレス値は上がるが、「驚き」の成分は少ない。この164bpmは予期しない衝撃への恐怖反応だ。自分が殺人を犯すという予測に対する——
筧の指が膝の上で止まった。
——しかし。そう判断することはデータの外側に出ることだ。心拍数が164であることは事実だが、それが「恐怖」であるという解釈は、筧の主観にすぎない。主観は記録されない。記録されないものは、判断材料にしてはならない。
「データを見ましょう」
口癖だった。七年間繰り返してきた言葉。感情が判断に混入しそうになるたびに、この一文で思考を初期化する。
バス車内の映像に切り替えた。バス会社のサーバーから取得した車内カメラの記録。2番ドアから飛び乗り、一番後ろの座席に崩れるように座った霧島遼一。呼吸が荒い。周囲の乗客が不安そうに距離を取っている。車内中央の案内ロボットが一瞬だけカメラを遼一に向けた。通報機能は搭載されていないが、映像はバス会社のサーバーに保存される。ログ公安の照会で取得できる。
映像の中の遼一は、座席に座ったまま手首の投影を見つめていた。自分の位置情報が表示されている画面。自分が追跡されていることを理解している顔だった。
筧は映像を閉じた。
「藤原。現在の追跡態勢は」
「公安ドローン三機を渋谷エリアに配置済みです。環境ノードのリアルタイム監視も起動してます。購買機能も凍結済みで——正直、二十四時間以内にいけると思いますけど」
「急ぐ必要はありません」
筧はモニターに数値を並べた。
「購買機能凍結済み。飲食不可。協力者なし。公共交通は全て記録対象。逃走は物理的に持続不可能です。変数が一つもありません。結果は確定しています」
藤原は少し引いた顔をした。まるで数式の話をしている。追いかけているのは人間なのに。
「巡回犬を渋谷エリアの主要ビルに二体追加配置してください。屋内への逃げ込みを想定して。以上です」
藤原が立ち上がった。「了解です」。一歩踏み出してから振り返った。「……主任」
「何ですか」
「あの164bpmって、結局なんだったんですか。さっき、何か言いかけてませんでした?」
筧は藤原の方を見なかった。モニターの数字を見たまま答えた。
「心拍数164は、心拍数164です。それ以上の解釈は必要ありません」
藤原は何か言いたそうな顔をして、それから軽く頭を下げて退室した。指揮室の扉が閉まり、廊下のモーター音が遠ざかった。
筧だけが残った。
モニターの光が顔を照らしていた。左手の薬指の結婚指輪が、画面の青白い光を反射した。プラチナの輪。内側に「S&S 2048」の刻印がある。七年経っても外さない理由を、筧は考えないようにしていた。考えれば「データを見ましょう」では処理できない領域に入る。
親指が無意識に指輪を回した。
87.2。
あの男の心拍データを見た時、頭に浮かんだのはその数字だった。いつもそうだ。犯罪予測のケースファイルを開くたびに、87.2という数字が紙面の余白に透けて見える。エレベーターの階数表示。コンビニのレシートの合計金額。時計の秒針が8と7の間を通過する一瞬。あらゆる場所に87.2がいる。
87.2%。閾値の90%に届かなかった予測。プレクライム法は90%以上の予測確率で予防拘束を認める。87.2%は閾値に2.8%足りなかった。たった2.8%。予防拘束が行われていれば、沙織と結は——
筧の右手が左手を握った。指輪が手のひらの中に食い込んだ。痛みがある。痛みがあるうちは、それ以上考えなくて済む。
あの事件の後、筧はログ公安に転職した。犯罪予測の精度が十分なら事件は防げた。精度が十分でなかったのは、当時の〈シビュラ〉の学習データが不足していたからだ。ログ公安に入り、データの収集と分析を徹底し、予測精度を高める。それが筧の七年間の動機だった。正義ではない。復讐ですらない。ただの——修正パッチだ。
筧は視線を落とした。デスクの下の黒い革靴。今朝も二十分かけて磨いた靴。豚毛のブラシで埃を落とし、クリームを薄く塗り、柔らかい布で仕上げる。七年間、毎朝同じことをしている。靴を磨いている間だけ、思考が止まる。思考が止まっている間だけ、赤い靴のことを思い出さずにいられる。靴箱の上に置いてある、右足だけの赤い靴。左足は七年間見つかっていない。
——データを見ろ。感情は記録されない。記録されないものは、判断材料にならない。
筧はモニターに向き直った。霧島遼一のリアルタイム位置情報。渋谷区の裏路地を移動中。速度がさらに落ちている。心拍数は112。走るのをやめたようだ。
追い詰められている。変数はない。結果は確定している。
——本当に、変数はないのか。
筧は公安ドローンの配置画面を開き、捜索範囲の更新指示を入力した。指先が正確にキーを叩いた。迷いのない動き。データに基づいた判断。感情は入っていない。入れていない。
入力を終え、筧は指揮室を出た。廊下の窓から外を見た。霞が関のビル群の向こうに渋谷方面の空が広がっていた。四月の晴天。雲はほとんどない。ドローンの飛行に支障のない天候。その空のどこかに、筧が配置した黒い機体が旋回しているはずだった。
「渋谷方面。全環境ノードを監視体制に」
廊下で立ち止まったまま、端末にその指示を入力した。左手の薬指の指輪が、廊下の蛍光灯の光を鈍く反射した。




