彼女の居場所
それは、まだ少し蒸し暑い九月の放課後のことだった。
俺はいつものように旧校舎の備品保管庫で、白雪が来るのを待っていた。
しかし、定刻を十分過ぎても彼女は現れない。時間を守ることに病的なまでに厳しい彼女にしては、珍しいことだった。
様子を見に行こうと席を立ったその時、古びた扉が勢いよく開いた。
入ってきた白雪は、いつも以上に肩を激しく上下させ、顔を真っ赤に上気させていた。
「どうした。学園祭の準備が長引いたのか?」
十月には学園祭があり、実行委員長の白雪も準備に忙しい。
「……そうじゃない。あぁ、もう、最悪……最悪だわ!」
彼女は手に持っていた通学カバンを床に放り投げた。その手は、これまでに見たことがないほど激しく震えている。
恐怖の震えではない。
言葉にできない苛立ちと、どうしようもない困惑が混じったような、不安定な震えだ。
「……告白されたわ。さっき、体育館の裏で。他クラスの、よく知らない男子に」
「……あー」
納得した。
学園一の聖女様であれば、そんなことは日常茶飯事だった。
「それで? いつものように『お気持ちだけ頂戴します』って聖女スマイルで返したんだろ?」
「それが――できなかったのよ!」
白雪は自分の髪を乱暴にかきむしった。
「その男子が、ずっと私の『清楚なところが好きだ』とか『いつも微笑んでくれる優しさに救われた』とか……私の表面だけを見て。それを聞いてたら、なんだか無性に腹が立って……」
国民的女優の娘。
誰もが彼女に「理想」を求める。
「……私、思わず『私の何を知ってるのよ!』って怒鳴りそうになって……」
彼女は俺の肩を掴み、縋るような視線を向けた。
「……怖かった。あの瞬間、私の『中身』が外に漏れそうになった。あんなに完璧に演じてきたのに、一瞬で全てを壊しそうになったのよ……っ」
その手は恐怖で震えていた。
彼女は今までずっと周囲の声に応えてきたが、それも限界に近づいているのかもしれない。
「……佐藤、あんた。私の正体を知ってるくせに、なんでそんなに普通でいられるのよ……もっと蔑みなさいよ。幻滅しなさいよ。なんで、そんなに……優しい目で、私を見るのよ……!」
白雪はいま、聖女という偶像と現実の自分との狭間で揺れていた。
「……今さらだな。俺はお前の『聖女』の部分になんて興味ないし、今の『口の悪いゲーマー』の方が気に入ってるからな」
俺は彼女の震える手を、そっと引き剥がして言葉を続けた。
「世間がお前をどう思おうが、俺の評価は変わらねーよ。……ほら、さっさとスマホ出せ。新イベントの予習するぞ」
それは彼女を思っての言葉ではなく、俺の偽らざる本心だった。
「………………」
すると白雪は、しばし呆然と俺を見つめ、やがて毒気が抜けたように力なく笑うと、いつものように自分の指定席に座った。
「……まったく。聖女の私よりこっちの方が良いなんて……本当、救いようのない男ね」
そう言いながらスマホを取り出す彼女の指先の震えは、すでに止まっていた。
彼女にとって佐藤カズキは、もはや単なる「口止めの対象」でも「ゲームの師匠」でもない。
唯一、自分が自分であれる居場所になっていた。
「よーし、今日はとことん付き合ってもらうわよ! 私のストレス、全部ゲームのMOB(雑魚敵)にぶつけるんだから!」
そして、この先にふたりの関係を大きく変える事件が待ち受けている事など、今のふたりにはまだ知る由もなかった。
次の更新は11日の予定です。




