第9話 壁の向こうの、別人の声
確信はあった。けれど確証が欲しかった。
鈴音=リリ。状況証拠は真っ黒だが、決定打がない。あの百均のタッパーとハンバーグだけでは、まだ偶然の範囲だ。日本中のどこかに、俺と全く同じ使い込まれた容器で、偶然あのVTuberにハンバーグをお裾分けしている人間がいる可能性は——まあ、限りなくゼロに近いが。
その決定打は、思いもよらない形で転がり込んできた。
◇
金曜日の夜。鈴音が帰ったあと、俺はベッドに寝転がって天井を眺めていた。二十二時。アパートは静まり返っている。上の階の住人が、かすかに歩く音。水道管がゴボッと鳴る音。ボロアパートの夜は、静かなようで存外やかましい。
そのとき——壁の向こうから、声が聞こえた。
二〇三号室。鈴音の部屋。
最初は独り言かと思った。だが、そうではなかった。声に抑揚がある。一定のリズムで話している。電話——いや、それにしては不自然な『二重の音』だった。
壁越しに聞こえてくるのは、小さくて聞き取りにくい肉声のささやき。それと同時に、パソコンのスピーカーから出力されていると思われる、合成音声のような別の声が響いている。
壁が薄いせいで、両方の音が重なって伝わってくるのだ。
そして——そのスピーカーから響く『作られた声』のほうには、はっきりと聞き覚えがあった。
あの声だ。
鬼舌のリリの、外科医のメスのような冷たい低音。
『——本日レビューいたしますのは、恵比寿の予約半年待ちと話題の懐石料理店でございます』
心臓が跳ねた。
リアルタイムの配信だ。今、この瞬間、壁一枚向こうで鈴音が——リリが——生配信をしている。
スマホを取り出した。動画配信サイトを開く。「鬼舌のリリ」で検索。ライブ配信中の赤いアイコンが点灯している。
タップした。画面に、銀髪のアバターが映る。いつもの冷徹な表情。
そしてスピーカーから流れてくる声——壁の向こうから届く声——が、完全に一致した。
ゼロコンマ数秒のタイムラグ。壁越しに聞こえる生の声が先で、スマホから流れるボイチェン後の声が一拍遅れてくる。
これは、もう、確定だ。
俺はスマホの画面に目を落とした。リリが懐石料理店のレビューを始めている。
『先付けの胡麻豆腐でございますが——』
壁越しの声が、かすかに聞こえる。鈴音の地声だ。小さくて、透き通っていて、鈴のような——けれど今は、普段の途切れ途切れの口調ではなく、滑らかに言葉が流れている。
口下手で、「おかわりいいですか」の一言に五秒かかる女が。画面の向こうでは——淀みなく喋っている。
耳を、壁に当てた。
ボイチェンの手前の、彼女の本当の声が——かすかに聞こえる。冷たい批評の言葉を、消え入りそうな声で紡いでいる。
その声が、不思議と——俺に飯の感想を言おうとする時の、あの途切れ途切れの声と同じ人間のものだとは思えなかった。
同じ人間なのに、違う生き物みたいだった。
◇
配信は四十五分ほどで終わった。
壁の向こうが静かになる。パソコンを閉じる音。椅子がきしむ音。
そして——かすかに、鈴音が咳払いをした。ボイチェンなしの、生の声。小さくて、頼りなくて、消えそうな咳。
配信中のあの冷たい声はどこへ行ったのか。
仮面を脱いだ、ということなのだろう。アバターとボイチェンは——彼女にとって鎧なんだ。リアルでは口を開けない代わりに、画面の向こうの仮面の中では、本当の舌を解放できる。
あるいは——リアルの彼女が本物で、リリが仮面なのか。それとも逆か。
どちらが本物かなんて、たぶん彼女自身にもわからない。
◇
翌日の夕食。
いつも通り鈴音が来て、いつも通り飯を食べた。今日は親子丼。卵は二度に分けて入れる。一回目はふっくらと火を通して土台を作り、二回目はとろみを残す。三つ葉を散らして蓋をし、十五秒。
鈴音は親子丼を食べながら、いつも通りの微細な反応を見せた。箸の速度がやや上がる。瞬きが減る。
俺はそれを見ながら、別のことを考えていた。
——こいつは昨日の夜、壁の向こうで高級懐石を論理の刃で切り刻んでいた。
今、目の前では、俺の作った親子丼を黙々と食べている。
鈴音の口元に、卵のかけらが付いていた。気づいていない。無表情のまま、次の一口を運ぼうとしている。
——あの冷徹な配信者と同一人物とは思えない。
「……鈴音」
「……はい」
「口、ついてる」
「……」
彼女は箸を止めて、左手で慌てて口元を拭いた。探り当てるのに三回ほど手が空を切った。
ティッシュを一枚差し出した。受け取る。拭く。ティッシュを膝の上で小さく畳む。
目は合わない。耳の先、赤い。
知らない、ということにしておこう。
彼女がリリであることを。俺の飯を星一千万にしたことを。画面の裏で泣いていたことを。
知らないふりを続ける理由は——正直、自分でもよくわからない。暴く意味がないからか。それとも——
この、何も知らないふりをして向かい合う食卓が、壊れるのが怖いのか。
「……みなとさん」
「ん」
「……この親子丼——今まで食べた中で」
また、途切れた。いつもの、言葉の途中で止まる癖。
「……いちばん」
そこで止まった。
また、最後の一語を飲み込んだ。
——お前さ、その「いちばん」の先を言ってくれたら、俺はたぶん、もう一品作るぞ。
言わなかった。代わりに、おかわりをよそった。
鈴音はそれを受け取って、また食べ始めた。
卵のとろみが、れんげの上で光を反射していた。




