第10話 知っているのに、知らないふりで
知らないふりをする、と決めた。
だが、知ってしまった人間の目は——勝手に変わる。
鈴音がテーブルの前に座って食事をしている最中、俺の意識が勝手に分裂する。目の前の無口で不器用な隣人を見ている目と、その裏側にいるはずの辛辣な配信者を想像する目と。
たとえば、鈴音が焼き鮭の身を丁寧にほぐしている時。
——こいつ、昨日の配信では「鮭の塩加減は皮との境界から八ミリの地点で完全に飽和している。これを計算できないのであれば、魚を扱う資格はございません」とか言ってたよな。
そんなことを考えると、目の前の行儀の良い食べ方が、妙に面白くなる。
あるいは、鈴音が味噌汁を啜った後にわずかに目を細めた時。
——この微動が、配信では「かみ。てんさい。うちゅうのしんり」に変換されるのか。
変換レートがおかしい。
◇
三週間目に入った。
変わったことが一つある。夕食後、鈴音がなかなか帰らなくなった。
以前は食事と洗い物が終わればおとなしく帰っていたが、最近はお茶の時間が延びている。十分が二十分になり、二十分が三十分になり、昨日は四十五分だった。
特に何を話すわけでもない。鈴音は喋らない。俺もべらべらと話すタイプではない。テレビもない。ラジオもない。
ただ、座っている。
湯呑みを両手で包んで、時々一口飲んで、また黙る。窓の外の音を聞いている。換気扇のモーターの低い唸り。上の階の住人が台所で何かを落とした音。
沈黙が——苦ではない。むしろ心地よい。他人の存在がこんなに静かで穏やかなものだとは、一人暮らしを始めてから知らなかった。実家にいた頃は、人の気配=緊張だった。親父の足音。客の笑い声。板場の怒号。
ここには、何もない。鈴音の呼吸と、茶の湯気だけがある。
「……みなとさん」
「ん」
「……今日の、焼き鮭」
「うん」
「……」
「……」
沈黙。五秒。十秒。鈴音は湯呑みの縁を指先でなぞっている。
「……塩加減が、好きです」
出た。
「好き」という単語が、初めて出た。
今まで「いちばん」で止まっていた言葉の先が——「好き」だったのか。いや、これは料理に対する「好き」であって、それ以上の意味は——ない。ないはずだ。
「……ありがとう」
そう返すのが精一杯だった。なんだ、急に。心臓の拍動がわずかに上がったのを感じる。
鈴音は湯呑みに顔を埋めるようにして、残りのお茶を飲み干した。立ち上がる。
「……おやすみなさい、みなとさん」
「おやすみ」
いつも通りのやり取り。いつも通りのドアの音。いつも通りの鍵の音。
いつも通りのはずなのに——湯呑みに残った茶渋が、なんだか今日はいつもより濃いような気がした。
◇
深夜。
ベッドに入ったが、眠れない。壁の向こうからは今夜は配信の気配がなかった。代わりに——パソコンのキーボードを叩く音がかすかに聞こえる。何かを打っている。
気になってスマホを開いた。鬼舌のリリのチャンネルページ。
新しい投稿があった。動画ではなく、コミュニティ投稿。テキストだけ。
【本日のメモ】
きょうは、とくべつなことが、ありました。
わたしは、はじめて。
「好き」と。
いえました。
もちろん、おりょうりのことです。
おりょうりのこと、ですけど。
でも。
いえた。
よかった。
——ひらがなだ。
リリの通常のレビューは漢字と専門用語の嵐なのに、この投稿だけが——あのハンバーグ動画と同じ、知性を放棄したひらがなの羅列になっている。
コメント欄が沸騰していた。
『リリが恋してる件について』
『えっ 語彙力崩壊リリ、テキストでもこうなるの???』
『「おりょうりのこと、ですけど」の「ですけど」に全てが詰まっている』
『神料理人のファンの者ですが、これは付き合ってますね。確定。おめでとう』
付き合ってない。飯を作っているだけだ。
スマホの画面を閉じた。天井を見上げる。
壁の向こうで、キーボードの音が止まった。
代わりに——ベッドのスプリングが軋む音。彼女も横になったのだろう。
壁一枚隔てて、俺と鈴音が同じ方角を向いて寝ている。
「好き」と言えた、と喜んでいる投稿を書いた人間が、手を伸ばせば届く距離にいる。
——知らないふりは、したままだ。
明日も「お粗末さまです」と言って、彼女の食器を受け取る。それだけだ。
それだけ、なのに。
目を閉じても、眠りはずいぶん遠かった。




