表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/29

第10話 知っているのに、知らないふりで

知らないふりをする、と決めた。


 だが、知ってしまった人間の目は——勝手に変わる。


 鈴音がテーブルの前に座って食事をしている最中、俺の意識が勝手に分裂する。目の前の無口で不器用な隣人を見ている目と、その裏側にいるはずの辛辣な配信者を想像する目と。


 たとえば、鈴音が焼き鮭の身を丁寧にほぐしている時。


 ——こいつ、昨日の配信では「鮭の塩加減は皮との境界から八ミリの地点で完全に飽和している。これを計算できないのであれば、魚を扱う資格はございません」とか言ってたよな。


 そんなことを考えると、目の前の行儀の良い食べ方が、妙に面白くなる。


 あるいは、鈴音が味噌汁を啜った後にわずかに目を細めた時。


 ——この微動が、配信では「かみ。てんさい。うちゅうのしんり」に変換されるのか。


 変換レートがおかしい。


 ◇


 三週間目に入った。


 変わったことが一つある。夕食後、鈴音がなかなか帰らなくなった。


 以前は食事と洗い物が終わればおとなしく帰っていたが、最近はお茶の時間が延びている。十分が二十分になり、二十分が三十分になり、昨日は四十五分だった。


 特に何を話すわけでもない。鈴音は喋らない。俺もべらべらと話すタイプではない。テレビもない。ラジオもない。


 ただ、座っている。


 湯呑みを両手で包んで、時々一口飲んで、また黙る。窓の外の音を聞いている。換気扇のモーターの低い唸り。上の階の住人が台所で何かを落とした音。


 沈黙が——苦ではない。むしろ心地よい。他人の存在がこんなに静かで穏やかなものだとは、一人暮らしを始めてから知らなかった。実家にいた頃は、人の気配=緊張だった。親父の足音。客の笑い声。板場の怒号。


 ここには、何もない。鈴音の呼吸と、茶の湯気だけがある。


 「……みなとさん」


「ん」


「……今日の、焼き鮭」


「うん」


「……」


「……」


 沈黙。五秒。十秒。鈴音は湯呑みの縁を指先でなぞっている。


「……塩加減が、好きです」


 出た。


 「好き」という単語が、初めて出た。


 今まで「いちばん」で止まっていた言葉の先が——「好き」だったのか。いや、これは料理に対する「好き」であって、それ以上の意味は——ない。ないはずだ。


「……ありがとう」


 そう返すのが精一杯だった。なんだ、急に。心臓の拍動がわずかに上がったのを感じる。


 鈴音は湯呑みに顔を埋めるようにして、残りのお茶を飲み干した。立ち上がる。


「……おやすみなさい、みなとさん」


「おやすみ」


 いつも通りのやり取り。いつも通りのドアの音。いつも通りの鍵の音。


 いつも通りのはずなのに——湯呑みに残った茶渋が、なんだか今日はいつもより濃いような気がした。


 ◇


 深夜。


 ベッドに入ったが、眠れない。壁の向こうからは今夜は配信の気配がなかった。代わりに——パソコンのキーボードを叩く音がかすかに聞こえる。何かを打っている。


 気になってスマホを開いた。鬼舌のリリのチャンネルページ。


 新しい投稿があった。動画ではなく、コミュニティ投稿。テキストだけ。


【本日のメモ】

きょうは、とくべつなことが、ありました。

わたしは、はじめて。

「好き」と。

いえました。

もちろん、おりょうりのことです。

おりょうりのこと、ですけど。

でも。

いえた。

よかった。


 ——ひらがなだ。


 リリの通常のレビューは漢字と専門用語の嵐なのに、この投稿だけが——あのハンバーグ動画と同じ、知性を放棄したひらがなの羅列になっている。


 コメント欄が沸騰していた。


『リリが恋してる件について』

『えっ 語彙力崩壊リリ、テキストでもこうなるの???』

『「おりょうりのこと、ですけど」の「ですけど」に全てが詰まっている』

『神料理人のファンの者ですが、これは付き合ってますね。確定。おめでとう』


 付き合ってない。飯を作っているだけだ。


 スマホの画面を閉じた。天井を見上げる。


 壁の向こうで、キーボードの音が止まった。


 代わりに——ベッドのスプリングが軋む音。彼女も横になったのだろう。


 壁一枚隔てて、俺と鈴音が同じ方角を向いて寝ている。


 「好き」と言えた、と喜んでいる投稿を書いた人間が、手を伸ばせば届く距離にいる。


 ——知らないふりは、したままだ。


 明日も「お粗末さまです」と言って、彼女の食器を受け取る。それだけだ。


 それだけ、なのに。


 目を閉じても、眠りはずいぶん遠かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ