第88話 春の風
三月。春が来た。
大学二年の後期が終わり、春休みに入る。
もうすぐ一年になる。あの夜——隣の部屋のドアの前で、腹を鳴らしながらうずくまっていた女の子に、うどんを差し出した日から。
◇
柚葉からLINEが来た。
『先輩。大将が——先輩の配信を見ました』
心臓が跳ねた。
『柚葉。見せないって言ったろ——』
『違うんです!! 私じゃないんです!! 板場の若い子がファンで、休憩中に見てたのを大将が横から覗いたんです!! 止められませんでした!!!! ほんとにごめんなさい!!!!!!!!!』
——若い板前がファン。料理クラスタでバズった「妖精の手」の動画だろう。
『大将、何て言ってた』
既読。三分間返事がなかった。
それから——
『何も言いませんでした。ただ——出汁巻き卵の断面を見て。うなずいて。それだけです。
でも先輩。大将の目が——嬉しそうでした。
こういう顔もできるんだなって。先輩の出汁巻きを見て、そう思った顔でした。
先輩がどこで何をしていても、包丁を握り続けていることが——大将にとっては一番嬉しいことなんだと思います。
春になったら。一度帰ってきてください。先輩の席——まだ空けてあります。
柚葉より』
スマホを閉じた。
目頭が——熱かった。
◇
夕食後。ちゃぶ台で鈴音と向かい合っていた。
「鈴音」
「……はい」
「春休みに——実家に一度帰ろうと思う」
鈴音の目が——大きく開いた。
「……実家。……料亭に?」
「ああ。まだ——帰れるかわからないけど。顔を見せるだけでも」
「……」
「……一緒に来てくれないか」
三秒の沈黙。
「……私が——一緒に、ですか」
「ああ。紹介したい人がいる」
鈴音は——俺を見た。じっと。長い時間。
「……はい」
「来てくれるか」
「……はい。……みなとさんが帰る場所に——一緒に行きたいです」
窓の外で、風が吹いていた。まだ冷たい。だが——どこかに春の匂いが混じっていた。




