第80話 名前をつける夜
十二月。初雪が降った。
朝の気温が五度を下回るようになった。エアコンの咳は相変わらずだが、二人分の体温が六畳間を暖めている。
鈴音の朝味噌汁は——九十三点に到達していた。安定して九十点以上。もう何も言うことはない。
二人の食卓は——もう完成している。俺の主菜と、鈴音の副菜と味噌汁と、ごはん。四品の和食。毎日少しずつメニューを変えながら、季節の食材を取り入れて。
今日の夕食は——鍋にした。
土鍋を出した。前から言っていたやつだ。冬になったら鍋をしよう、と。
昆布出汁を張った土鍋を、ちゃぶ台の真ん中に置いた。カセットコンロに火をつける。
白菜、豆腐、しいたけ、にんじん、鶏もも肉、春菊。ポン酢と薬味。
「鈴音。食材切ってくれ」
「……はい」
二人で台所に立って、鍋の具材を用意した。並んだまな板の上で、並んだ包丁が動く。
ちゃぶ台の前に座った。土鍋から蒸気が上がっている。
「いただきます」
「……いただきます」
鍋を食べた。
出汁が——うまい。昆布の旨味と鶏から出た出汁が重なっている。白菜が甘い。豆腐が滑らかだ。
鈴音は——黙々と食べていた。いつもの速度。いつもの所作。小指が跳ね、左手が膝を掴み、体の末端が全部反応している。
完全復活。もう——何も心配していない。
◇
食べ終わった。洗い物を済ませて、ちゃぶ台に二杯のほうじ茶を置いた。
冬の夜。窓の外に雪がちらついている。
「鈴音」
「……はい」
「前に——名前をつけるって言ったな」
鈴音の指が——湯呑みを握りしめた。
「……はい」
「いつかつけるって。——今が、いつかだと思う」
鈴音が俺を見た。正面から。ガラス球ではない目。温度のある目。ほんの微かに——潤んでいる。
「俺は——お前の飯係で、隣人で、同居人で。——でもそれだけじゃ、もう足りない」
「……」
「鈴音。俺の隣で——ずっと、飯を食ってくれないか」
プロポーズじゃない。——いや、限りなくそれに近い。
「ずっと俺の隣で食べてほしい」。
それは——料理を通して積み上げてきた二人にとっての、一番正直な言葉だった。
沈黙。五秒。
鈴音の目から——涙が落ちた。一滴。二滴。三滴目が頬を伝う前に——
「……はい」
声は——小さかった。いつもの鈴音のサイズ。だが——確かに。
「……ずっと。……みなとさんの隣で。……食べたいです」
涙は止まらなかった。でも——笑っていた。唇が弧を描いている。目元に皺が寄っている。不器用な笑顔。何度目だろう。でも、今までで一番——きれいだった。
「……ただし」
「ん」
「……条件が、あります」
「何だ」
「……朝の味噌汁は——私が、作ります。毎朝。ずっと」
「当たり前だ」
「……お粗末さまです」
「——それは俺の台詞だろ」
湯呑みの中で、ほうじ茶が冷めかけていた。窓の外の雪が、少しだけ強くなった。
名前がついた。
「ただの隣人」ではなくなった日。
六畳間に、二人分の影。土鍋の匂い。ほうじ茶の湯気。雪。
これが——俺たちの食卓だ。終わらない食卓。




