第76話 妖精の手
配信当日。土曜日の夜十時。
リリのチャンネルに、特別告知が出ていた。
【特別配信のおしらせ】
本日、鬼舌のリリの配信に——特別ゲストが登場します。
いつも壁の向こうにいた「妖精」が、初めて配信に出演し、わたしの目の前で料理を作ります。
メニューは——
・出汁巻き卵
・鯛の薄造り
わたしの舌で、全て評価します。
本物の料理とは何か——今夜、お見せいたします。
告知が出た瞬間から——リリのチャンネルの同時接続数が跳ね上がった。通常の五倍。
◇
六畳間。台所にカメラをセットした。手元だけを映すアングル。まな板と包丁と食材が映る。
俺の顔は映らない。声は——地声のまま。
鈴音はちゃぶ台にノートパソコン。ヘッドセットとボイチェン。銀髪のアバター。
準備が整った。
「鈴音」
「……はい」
「いくぞ」
「……はい」
配信が始まった。
『——皆さま、こんばんは。リリでございます。本日は——特別な配信です。わたしの隣に——妖精がいます』
コメント欄が爆発した。一秒で数百のコメントが流れて読めなくなった。
『妖精!!!!!!!!!』
俺がマイクに向かって口を開いた。
「——初めまして。妖精、です。今夜は——俺の料理を見てもらいます」
声が配信に乗った。低い声。ボイチェンなし。
コメント欄。
『声低い!!!!!! イケボ!!!!!!!!!』
「まず——出汁を引きます」
カメラの前で、鍋に水を入れた。昆布を沈める。
「昆布は利尻。水出しを一時間以上行っているので、すでに旨味が抽出されています。ここから弱火にかけて——」
『解説付き!!!!!! しかもプロっぽい解説!!!!!!』
沸騰直前で昆布を引き揚げた。鰹節を一掴み入れる。火を消す。鰹節が沈むのを待つ。布巾で濾す。
これだけの工程を——無駄な動きなく、流れるように。
「出汁巻き卵に入ります」
卵を三つ割った。出汁を加える。箸で混ぜる——泡立てず、切るように。
卵焼き器を火にかけた。油をなじませる。卵液を薄く流す。
ここから——技が始まった。
箸だけで——卵を巻いた。一巻き目。薄い卵が、箸先で弧を描くように巻き上がる。
卵液を追加。また巻く。二巻き目。三巻き目。
六巻き巻いた。黄金色の出汁巻き卵が完成した。
断面を切って見せた。
——層が見えた。六層の、均一な巻き。一層ごとにふわりと出汁が閉じ込められている。色のムラがない。プロの出汁巻き。
コメント欄が——静まった。
沈黙の後——
『は?????? 何これ?????? プロやん!!!!!!!!!』
『この断面見てまだ「大したことない」って言える暴露系いたら逆にすごい。料亭レベルだろこれ』
『手の動きが異次元。独学じゃねえよこれ。ガチのプロだ』
——まだ一品目だ。
リリが——マイクに向かって口を開いた。
『……食べます』
ちゃぶ台に出汁巻き卵を置いた。鈴音が箸で一切れ取る。口に入れる。
三秒。
瞳孔が——全開になった。
『……出汁の比率が——卵三に対して出汁一。通常より多い。利尻昆布の一番出汁と、枯節の合わせ出汁。味付けは薄口醤油とみりんを極少量。巻きの層は六層。一層あたりの厚みが均一で、火入れは全層にわたって完璧。中心部はギリギリ半熟を残しており、口に入れた瞬間に出汁が溢れる設計です』
完全な鑑定。リリの舌が全開で分析している。
そして——
『……おいしいです。……世界で一番おいしい出汁巻き卵です』
コメント欄が——崩壊した。
文字通り、崩壊した。二万件を超えるコメントが一気に流れて、サーバーが重くなっている。
だが——俺はもう次の準備に入っていた。
「——次は、鯛の薄造りです」
柳刃包丁を手に取った。光が刃に走った。
まな板の上に鯛の柵を置いた。冷蔵庫で一日熟成させた鯛。身が締まっている。
柳刃を——引いた。
一刀。
透けるほど薄い一枚が、刃の上に乗った。向こう側が透ける。
二刀目。三刀目。リズミカルに——しかし一枚ずつ、丁寧に。
皿の上に放射状に並べていく。菊盛り。料亭の技法。
コメント欄は——もう言葉を失っていた。
『……何も言えない。ただただすごい』
『「真実のカメラ」見てるか? これが「大したことない」料理か?』
『切り方が和食のプロすぎる。妖精の正体って料理人か??????』
リリが——鯛の薄造りを一枚、箸で持ち上げた。光に透けている。
『……』
七秒の沈黙。過去最長を更新した。
『……何も言うことがありません。……完璧です。……この一枚に、すべてが詰まっています』
そして——リリの声が、ボイチェンを通してなお震えた。
『——これが。……わたしが毎日食べている人の、料理です』
同時接続数が——十万を超えた。
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