第73話 秘密のキッチン
同棲二日目。
朝。目が覚めると——味噌汁の匂いがした。
鈴音が台所に立っていた。俺の台所で、俺の鍋で、鈴音が味噌汁を作っている。
壁越しではなく——すぐそこで。同じ空間で。
寝ぼけた目で見る鈴音の後ろ姿。パーカーにショートパンツ。黒い髪が背中に流れている。包丁で——豆腐を切っている。
あの新しい三徳包丁。俺が買ってやったやつ。鈴音の手に馴染んでいる。
「……おはようございます。起こしてしまいましたか」
「いや。匂いで起きた」
「……出汁の匂い、強かったですか」
「ちょうどいい。いい目覚ましだ」
鈴音が——お椀に味噌汁をよそった。差し出す。指先が、出汁で少し濡れている。
一口飲んだ。
「……九十二点」
「……上がりましたか」
「台所が変わると味も変わるのか。——俺の台所は火力が強いから、出汁の抽出が早い。それに適応してる」
「……みなとさんの台所——使い慣れてきました。鍋の底が厚くて、温度が安定しやすいです」
俺の台所を使いこなしている。二日で。
◇
同棲生活は——驚くほどスムーズだった。
鈴音は邪魔にならない。余計な音を出さない。使ったものは即座に元に戻す。洗い物は溜めない。
二人の生活ルーティンが、この六畳間の中で回転し始めた。
朝六時半:鈴音が起床。味噌汁を仕込む。
朝七時:俺が起床。主菜を作る。二人で朝食。
午前中:大学。別行動。
昼:学食で合流(鈴音が俺の隣を予約するようになった)。
午後:大学。別行動または図書館で自習。
夕方:一緒に買い出し。
夜:二人で夕食の仕込み。食事。洗い物。
夜十時:鈴音がリリの配信(俺の部屋の隅で、イヤホンとマイクで)。
二十三時:就寝。
問題は——配信の位置取りだった。
鈴音がリリとして配信する間、俺は台所にいる。鈴音はちゃぶ台にノートパソコンを広げてヘッドセットをつけ、マイクに向かって話す。
ボイチェンを通した声は外には漏れない。だが——俺がいる空間で配信している。
最初は緊張していた鈴音も、三日目には慣れた。俺が洗い物をしている音すら、配信に入らないようイヤホンの設計を工夫した。
だがたまに——配信中に俺が包丁で食材を切る音が入る。
『——今、何か聞こえましたか。妖精が——まだ何か作っていますね。この時間に。夜食かもしれません』
コメント欄。
『毎晩作ってるの!? 妖精の台所は24時間営業なのか!?』
『壁越しどころか同じ空間にいそうな近さなんだが大丈夫か??????』
——バレかけている。
秘密のキッチンは——こうして始まった。
壁越しだった距離が、ゼロになった。
同じ屋根の下で。同じ空気を吸って。同じ台所に立って。
それが——「秘密」のはずなのに。
俺にはもう、秘密ではなかった。




