第72話 完全同棲
翌朝。
目が覚めると——鈴音がベッドの上で毛布にくるまったまま、こちらを見ていた。
「……おはようございます」
「おはよう。寝れたか」
「……少しだけ」
目の下に薄い隈がある。あまり眠れなかったようだ。
ちゃぶ台で突っ伏していた俺の首は——完全に死んでいた。
◇
朝食を作った。俺の台所で。鈴音の味噌汁は——隣の部屋に鍋を取りに行けないので、今日は俺が作った。
「……みなとさんの味噌汁は」
「ん」
「……味噌が少し多いです」
「はいはい」
鑑定機能は正常だった。一安心だ。
食べ終わった後、鈴音がぽつりと言った。
「……しばらく、ここにいてもいいですか」
「いいよ」
「……自分の部屋に帰ると。……壁の向こうが怖い。……誰かがドアの前に立っているんじゃないかって」
恐怖は——論理ではなく感情だ。「駅周辺のアパートなんていくらでもある」という理屈では消えない。
「お前の荷物、必要なものだけ取りに行こう。着替えと、配信機材と」
「……配信は——」
「やめるな。逃げたら負けだ。お前が配信をやめたら、あいつらの思う壺だ」
鈴音の目が——ほんの一瞬、強くなった。
「……わかりました」
◇
実質的な「完全同棲」が始まった。
鈴音の荷物がリビングの隅に積まれた。着替えはクローゼットの空いた部分に。配信用のノートパソコンとマイクとウェブカメラは、ちゃぶ台の上に。鈴音の包丁は台所に——俺の包丁と並んで。
六畳一間に、二人分の生活が詰まった。
狭い。確実に狭い。だが——不思議と窮屈ではなかった。
鈴音は場所を取らない人間だった。存在感が空気のように薄い。座る時は最小限のスペースに収まり、立つ時は壁際に寄る。
問題は——寝る場所だった。
「鈴音はベッドで寝ろ。俺はちゃぶ台——」
「……それは、困ります。みなとさんの首が壊れます」
「大丈夫だ」
「……大丈夫ではないです。今朝、首を回せていませんでした」
鋭い。
「……私が床で寝ます。布団があれば——」
「却下。客を床に寝かせるわけにいかない」
「……客ではありません。同居人です」
同居人。その言葉に——ドキッとした。今更。
結局、ベッドの横に布団を敷いて、鈴音がベッド、俺が布団で寝ることにした。頭のすぐ横に鈴音のベッドがある。寝返りを打てば手が届く距離。
——眠れるわけがなかった。
◇
初日の夜。二十三時。
電気を消した。暗闇の中で、互いの呼吸だけが聞こえる。
「……みなとさん」
「ん」
「……起きていますか」
「起きてる」
「……私も」
沈黙。
「……この距離だと。……壁越しじゃなくても——出汁の話ができますね」
「できるけど、寝ろ」
「……はい」
五分後。
「……みなとさん」
「……何だ」
「……おやすみなさい」
「おやすみ」
鈴音の寝息が——しばらくして、規則的になった。
眠れなかった。天井を見ている。暗い天井。
五十センチ上に——鈴音がいる。
この距離が——今の関係の全てだった。
名前はまだない。でも——同じ部屋で眠っている。
目を閉じた。首は痛くなかった。布団は快適だった。
ただ——心臓だけが、うるさかった。




