第71話 影が忍び寄る
十一月中旬。秋が深まり、夜風が身を切るようになった。
日常は穏やかだった。鈴音が朝の味噌汁を持ってきて、俺が主菜を作り、二人で食べる。夕食も同様。壁越しの出汁指導は——もう指導というよりは、壁越しの雑談になっていた。
「……みなとさん。さばの味噌煮に使う味噌は、赤と白、どちらが合いますか」
「赤。赤味噌のほうがさばの臭みを消す。合わせでもいいけど、赤を多めに」
「……赤を多めに。……あと、しょうがは薄切りですか」
「薄切りで落し蓋の下に入れろ。皮付きのまま」
「……皮付きのまま。……わかりました」
こんな会話を毎晩している。壁一枚隔てて。世界一近い距離で。
◇
だがその日常に——影が忍び寄っていた。
最初に気づいたのは、リリのコミュニティ投稿のコメント欄だった。
『リリさん、大丈夫? 最近ネットで「リリの身元を特定する」って企画してる暴露系配信者がいるんだけど……』
『↑マジ? どいつ?』
『「真実のカメラ」ってやつ。登録者20万くらいの。VTuberの中の人特定を売りにしてるチャンネル。先週からリリの配信音声の環境音を分析してるらしい。壁が薄いって発言から集合住宅特定しようとしてる』
壁が薄い。
——あの発言が、拾われていた。
リリは配信で何度も「壁が薄いので妖精の出汁の音が聞こえる」と言っていた。それが——特定の手がかりになっている。
スマホで「真実のカメラ」のチャンネルを検索した。
あった。登録者数二十二万。暴露系配信者。過去にも複数のVTuberの身元を特定して炎上させている悪質なチャンネル。
最新の動画のタイトル——「【特定企画】鬼舌のリリの正体を暴く 環境音解析で住所を割り出す」
再生した。
男の声。顔出しなし。黒いフードの男が、リリの配信音声を波形で分析している。
「リリさんの配信で、背景に電車の音が微かに混じっています。この音のパターンから、JR沿線の——」
電車の音。確かに——このアパートは線路から三百メートルほどの場所にある。窓を閉めていても、深夜帯は微かに始発の音が入る。
「さらに、リリさんはしばしば『壁が薄い』と発言しています。木造アパートの可能性が高い。築年数の古い物件。そして——大学生であると推測される生活パターン」
推測が——的確だった。
「近日中に、リリさんの居住エリアを絞り込みます。お楽しみに」
動画が終わった。
壁の向こうから——パソコンが閉じる音がした。椅子を引く音。歩く音。
コンコン。ドアがノックされた。
開けると、鈴音がいた。パーカーのフードを深く被って、顔が半分隠れている。
「……みなとさん」
「見たか」
「……はい」
声が。
細かった。かすれていた。
「……怖い、です」
鈴音が——震えていた。
「入れ」
「……はい」
鈴音が入ってきた。ちゃぶ台の前に座った。膝を抱えて。
俺はスマホを閉じて、鈴音の向かいに座った。
「大丈夫だ。まだ特定されてない。推測の段階だ」
「……でも——電車の音で沿線がわかるなら。……大学の近くという情報と合わせれば——」
「駅周辺のアパートなんて、いくらでもある。ピンポイントでここまで辿り着く可能性は低い」
「……低い、だけで。……ゼロではない」
正論だ。反論できない。
鈴音の手が——膝の上で、開いたり閉じたりしていた。握り拳。開く。握り拳。
「鈴音。今夜はここにいろ」
「……え」
「帰るな。ここで寝ろ。俺のベッド使え。俺はちゃぶ台で寝る」
「……でも——」
「一人で怖がってるより、マシだろ」
鈴音が——俺を見た。フードの下から覗く瞳。ガラス球ではなく——人間の目。怯えている目。
「……すみません」
「謝るな。布団出す」
押し入れから予備の毛布を引っ張り出した。
その夜——鈴音は俺のベッドで、小さく丸まって眠った。
俺はちゃぶ台に突っ伏して、スマホで「真実のカメラ」のチャンネルを監視し続けた。
新しい動画は——まだ上がっていなかった。




