第70話 もう、名前がなくても
十一月の最初の日曜日。
鈴音が合鍵で入ってきた。手に持っているのは——鍋ではなく、重箱だった。
重箱。漆塗りの、黒い重箱。蓋に金の筋が入っている。
「……これは」
「……実家から持ってきたものです。……ずっと使っていませんでしたが」
鈴音が重箱をテーブルに置いた。蓋を開けた。
中には——料理が詰まっていた。
だし巻き卵。切り口が美しい。焼き色が均一で、巻きが安定している。鈴音が作っただし巻き卵。
きんぴらごぼう。ごぼうとにんじんが細く切り揃えられている。味付けは——見ただけでは分からないが、香りが良い。醤油とみりんのバランスが取れている。
ほうれん草のおひたし。氷水で締めた色止めが完璧だ。鰹節の地浸しの香りがする。
そして——おにぎり。二つ。三角形。海苔が均一に巻かれている。
「……全部。……私が作りました」
声はいつもの小ささだった。だが——震えてはいなかった。
「……だし巻き卵は。……みなとさんに壁越しに教えてもらいました。……きんぴらは動画を見て練習しました。十七回目で、ようやくごぼうの太さが揃いました。……おひたしは、みなとさんの色止めを見て覚えました」
「……」
「……おにぎりは。百十個目です」
——百十個。百個を超えた。
「……重箱は。……母が昔くれたものです。……私が将来、料理を批評する立場になった時に使いなさいと。……でも今日は——自分が作ったものを、入れてきました」
鈴音が俺を見た。瞳に——星は映っていない。朝の光だ。窓から入る秋の柔らかい光。
「……食べてください」
箸を取った。
だし巻き卵を一切れ。口に入れた。
——うまい。
巻き方にまだムラがあるが、出汁の含ませ方が俺に近い。いや——俺の味をベースにしつつ、鈴音自身の好みが入っている。出汁が少し強め。昆布寄り。鈴音の味だ。
きんぴら。一口。甘辛い。味付けの塩梅がいい。少し醤油が多いかもしれないが——ごぼうの食感が良い。繊維に沿って切っているから、歯ごたえがしっかりしている。
おひたし。色止めが——完璧だった。鮮やかな緑。地浸しは少し薄めだが、ほうれん草の甘みを活かしている。
そしておにぎり。手に取った。温かい。ラップに包まれていたが——出来たてだ。
一口。
塩加減が——ちょうどいい。
百個目の時は塩が多かった。百十個目は——完璧だった。
米の炊き方も改善されている。粘りが出ている。水加減を覚えた。
全部食べた。重箱が空になった。一品残らず。
「……ごちそうさま」
鈴音は——手のひらを膝の上に置いていた。震えてはいない。ただ——汗で湿っていた。緊張していたのだ。
「何点ですか」
聞いてきた。でも——声は、点数を怖がっていなかった。
「……点数はつけない」
「……え」
「お前が自分の味で、自分の意志で作った料理に、俺が点数をつける意味がない」
「……でも——」
「美味かった。全部美味かった。それだけだ」
鈴音の目が——大きく見開かれた。
そして——笑った。
今度は二ミリじゃなかった。唇が——はっきりと、弧を描いた。目元に皺が寄った。頬が持ち上がった。
笑った。鈴音が——初めて、ちゃんと笑った。
泣きながら笑っていた。涙が頬を伝っているのに、口元は笑っている。不器用極まりない顔だった。笑い方を忘れた人間が、どうにか思い出した顔。
「……みなとさん」
「ん」
「……名前、つけなくても——いいですか」
「……ああ。つけなくていい」
「……でも——いつか。いつか、つけてくれますか」
「つけるよ。いつか」
六畳間に秋の光が射していた。空の重箱が、テーブルの上で光を反射していた。
二人の影が——並んでいた。
名前はまだない。でも——もう、名前がなくても、壊れない。
鈴音が俺の隣にいる。俺が鈴音にご飯を作る。鈴音が俺に味噌汁を作る。
それだけのことが——全部だった。
窓の外で、金木犀の最後の花が散っていた。冬が近づいている。
冬になったら——鍋でも作ろうか。
ちゃぶ台の真ん中に、土鍋を一つ。
二人で。




