第69話 鋭い夜風
十月の終わり。夜が長くなってきた。
夕食を終えて、ベランダに出た。二人で。いつの間にか、ベランダに二脚のパイプ椅子が置いてある。百均のやつ。いつ買ったのか覚えていないが——二脚あるということは、二人で座ることが前提になっているということだ。
秋の夜風が冷たかった。鈴音がパーカーのフードを被っている。
「……みなとさん」
「ん」
「……私、昨日——アリアさんから、オフで会わないかって、もう一度お誘いがありました」
「……」
「……会おうと思います」
心臓が跳ねた。キララと鈴音が——オフで会う。互いの正体を知ることになる。
「いいのか」
「……はい。……アリアさんは——つまり星野さんですよね」
——知っていたのか。
「……声で、わかりました。あのアリアさん独特のテンションや、話し方のリズムが星野さんと全く同じです。……みなとさんも気づいていたでしょう」
「……ああ」
「……ずるいです。全部知っていたのに、何も言わないで」
「お前から言うまで——」
「……待ってくれていたんですね。……分かっています」
風が吹いた。鈴音のフードの下から、黒い髪がはみ出ている。
「……私も——みなとさんに言っていないことがあります」
「何だ」
「……私が、リリだということ」
空気が——止まった。
「……知っていましたか」
「……ああ。出会って間もない頃、ハンバーグを食べさせたのを覚えているか。その数日後——リリの動画に、俺が渡した百均のタッパーが映り込んでいたんだ」
「……あの、ハンバーグの時の……」
「ああ。いつもの冷徹な分析はどこへやら、『かみです。世界を食べています』なんて、語彙力が壊滅したレビューを投稿していただろう。あのタッパーの傷と、ブロッコリーの切り方を見て……確信した」
鈴音が——フードの下で、耳を赤くしていた。
「……あの時のレビュー、見ていたんですか」
「健太に勧められた」
「……全部、知っていたのに。……ずっと——隣人のふりをしていたんですか」
「隣人のふりじゃない。俺は鈴音の隣人で、飯係で——それ以上の名前がつけられなかっただけだ」
鈴音が俺を見た。フードの影から覗く瞳に、星が映っていた。都会の空なのに——今夜は少しだけ、星が見えていた。
「……みなとさん」
「ん」
「……私の秘密は、もう全部——みなとさんに知られていますね」
「ああ。令嬢なことも、リリなことも、味覚喪失のことも」
「……みなとさんの秘密も。料亭の跡取りなことも、逃げてきたことも、知っています」
「ああ」
「……もう——隠すものがありませんね」
「ないな」
風が、冷たかった。だが——隣に座っている鈴音の肩の温度が、わずかに感じられた。
「……みなとさん。……次は——私から。みなとさんに、何か作りたいです」
「何を」
「……考えます。……今度は味噌汁じゃなく。……もう一歩進んだものを」
「楽しみにしてる」
月が、ビルの向こうに沈みかけていた。




