第7話 「鬼舌のリリ」を知っているか
異変は、大学の食堂で起きた。
「湊ーー! これ見ろ! マジでヤバいやつ見つけた!」
昼休み。トレイにカツカレーを乗せて席に着いた瞬間、相馬健太がスマホを突きつけてきた。画面いっぱいに動画のサムネイルが表示されている。
二次元のアバターが映っていた。
銀髪に赤い瞳。冷たい表情のアニメ調キャラクター。画面の下部にチャンネル名が出ている。
【リリの美食録】
「知ってるか? この配信者。正式なチャンネル名は『リリの美食録』なんだけどな、あまりの毒舌ぶりにネットじゃ【鬼舌のリリ】って呼ばれて恐れられてんだぜ」
「知らない」
「グルメレビューのVTuberなんだけどな、マジで毒舌がヤバい。高級レストランとか行列の人気店とか容赦なく酷評するの。飲食業界が震え上がってるらしい」
健太がイヤホンの片方を渡してきた。受け取って、再生ボタンを押す。
銀髪のアバターが画面に現れた。背景はどこかのレストランの料理写真。
声が出た。
低い。澄んだ低音。だが柔らかさは一切なく、外科医のメスのように正確で冷たい声。
『本日訪れましたのは、都内某所の予約三ヶ月待ちと話題のイタリアンでございます。まず前菜のカプレーゼですが——率直に申し上げまして、モッツァレラの温度管理が致命的です。冷蔵庫から出して三分も経っていない。この温度では風味の三割は死んでいます。残りの七割で勝負したところで、トマトの酸味に負けるのは明らかです。素材の持ち味を殺すための並々ならぬ努力だけは、評価に値すると申し上げておきましょう』
……容赦がない。
モッツァレラの温度を秒単位で指摘するのか。しかもこの言い回し。褒めているように見せかけて、全身を切り刻んでいる。
動画はメインディッシュの批評に移った。
『パスタの茹で時間につきましては——もはや申し上げる気力がございません。アルデンテという概念を、このシェフがどのように解釈されているのか、純粋に学術的な興味がございます。ゴムと小麦粉の中間地点に新たなジャンルを開拓されたのでしたら、それは確かに革新的です。評価:星ゼロ。お代は勉強料として受け取っていただきました』
星ゼロ。
「すごくない? この語彙力。レビューっていうか、もうこれ文学だろ」
健太が興奮気味に語る。
「登録者数四十万超えてるんだぜ。しかも完全覆面。アバターとボイチェン使ってて、誰が中の人なのか全くわかってない。顔も本当の声も一切非公開。謎に包まれた超辛口VTuber」
「ボイチェンか」
「ああ。でもこのボイチェン越しでも、喋り方の知性がにじみ出てるだろ? 食の知識がハンパじゃないんだよ。料理人じゃなくて、食べる側のプロ。ソムリエとかフードジャーナリストとか、そういう系統じゃないかって言われてる」
食べる側のプロ。
その言葉に、何かが引っかかった。だが、上手く掴めない。
「で、ヤバいのはここからなんだけど」
健太がスマホの画面をスクロールした。動画一覧が並ぶ。サムネイルのほとんどが赤いバツ印や星ゼロの表示だ。地獄のようなレビュー欄。
その中に一つだけ——異質なサムネイルがあった。
背景が金色。星のエフェクトがキラキラと散っている。中央に巨大な文字。
【★10000000】
「は?」
「星一千万。これ」
健太がその動画をタップした。
アバターが画面に現れる。いつもの銀髪赤目——だが、明らかに様子がおかしい。
アバターの表情トラッキングが、普段と違う。目がキラキラしている。顔の角度がうつむき加減で、なんだか照れているように見える。
『え、えーと。本日は、ちょっと、特別な回でございまして』
声が——上ずっている。
あの外科医のメスみたいな冷たい声が、信じられないほどぐらついている。ボイチェンを通しているのに、動揺が隠せていない。
『先日、とあるお料理を、いただく機会がございまして。その——はい。レビューを、させていただきます』
画面に写真が表示された。
料理の写真。
——保存容器。
見覚えのある、プラスチックの透明な容器。
安物の、だが使い込まれたタッパー。蓋の縁に付いた微かな傷まで、俺には見覚えがあった。間違いなく、俺が貸した保存容器だ。
その中に収まっていたのは、ハンバーグだった。付け合わせのブロッコリーとミニトマト。ソースがかかっている。容器のままの、あまりにも無造作な——だが丁寧な、付け合わせ。
見覚えが、ある。
というか——これは。
『えっと。この。このハンバーグはですね』
リリの声が崩壊し始めた。
『こ、の。つまり。はい。えーと』
数秒の沈黙。
『かみ』
は?
『てんさい。うちゅうのしんり。ほし、いっせんまん。いやそれでもたりない。あの。むり。おいしすぎてなみだとまらん……』
ボイチェンの向こうで、鼻をすする音が聞こえた。
『このハンバーグを作った方は、にんげんではありません。かみです。……かみが、百均のタッパーに、せかいを閉じ込めました。わたしは、いま、せかいを食べています。ごちそうさまでした。星いちおく……いや、そういう次元では……むり……尊い……』
動画が終わった。
食堂の喧騒が戻ってくる。
俺は画面を凝視していた。あの百均のタッパー。あのハンバーグ。あの付け合わせ。間違えようがない。
——あれは、俺が作ったハンバーグだ。
「このレビュー、再生数五百万超えてんの。あの鬼舌のリリが、初めて泣きながら絶賛したってバズりまくってる。リリの眷属——ファンのことな——が大騒ぎで、『神の手料理を作った人間は誰だ』って特定班が動いてるらしい」
健太がカツカレーをかき込みながら喋り続けているが、俺の耳には半分も入っていなかった。
百均のタッパー。
ハンバーグ。
あの日、鈴音にタッパーで持ち帰らせた料理だ。俺が余った分を詰めて「明日のお昼にでも」と渡したやつ。
鈴音が——あの無口で無表情な隣人が——VTuberアバターの裏側から、俺の料理を食べて泣いていた。
「おい湊、聞いてるか?」
「……ああ。聞いてる」
「お前もリリの配信見てみろって。マジで面白いから。特にこの星一千万のやつ。語彙力崩壊リリ、最高だろ」
「……そうだな」
カツカレーの味がしなかった。
頭の中で、鈴音の無表情と、アバター越しに泣き崩れていたリリの声が、交互に再生されている。
あの口下手で、「おかわりいいですか」の一言を絞り出すのに五秒かかる女が。
画面の向こうでは、高級レストランを辛辣に斬り捨てる外科医の舌を持っている。
——そして、俺のハンバーグの前でだけ、全部壊れる。
スプーンを置いた。食堂の天井を見上げる。
世の中というのは、わからないものだな。




