第6話 隣人が残していくもの
二週間が経った。
鈴音との夕食が日課になって、俺の生活にはいくつかの変化が生まれていた。
まず、冷蔵庫の中身が常に充実している。以前は一人分の賞味期限ギリギリの食材がまばらに入っているだけだったが、今は野菜室が八割方埋まっている。もやしと豆腐だけで週を乗り切る生活は終わった。
次に、洗い物が苦ではなくなった。正確には洗い物そのものが変わったわけではない。横に鈴音がいるかいないかだけの違いだ。俺が洗う。鈴音が拭いて戻す。それだけの作業が、一人でやるときとはなぜか時間の流れ方が違う。短い。
そして——自分の料理に対する姿勢が変わった。
実家にいた頃は、親父に怒鳴られないように作っていた。評価基準は「減点方式」だ。ここが甘い、ここが荒い、出汁が濁ってる。完璧から引き算された部分だけが指摘される。
鈴音は何も言わない。
美味いとも不味いとも言わない。けれど彼女の箸の速度、目の動き、指先の微細な動き——それが全部、無言の「評価」になっている。加点方式。ここが良い、ここに気づいた、という体の反応。
それが——たまらなく心地よかった。
誰かに「美味しい」と言われるよりも、誰かが黙って完食する方が信用できる。料亭の客に向かって愛想笑いをしていた実家の記憶が薄れていくような感覚があった。
◇
その日の夕飯は鯖の味噌煮にした。
鯖は皮に浅い十字の切れ目を入れて、熱湯をさっとかける。臭みを取るためだ。生姜は薄切りにして、これは煮汁の中に沈める。味噌は最後に溶き入れる。最初から入れると香りが飛ぶ。
煮汁が泡立ち、鯖の皮がつやつやと光り始める。落し蓋を取ると、味噌と生姜と魚の混ざった匂いが台所に充満した。
壁の向こうから——気配がした。
二〇三号室側の壁に、何かが当たったような微かな音。
……まさか壁に張り付いて匂いを嗅いでいるのか。嗅覚に壁は関係ないだろ。
六時十分。チャイムが鳴る。
ドアを開ける。鈴音。無表情。
手には——エコバッグを持っていた。
「……味噌煮には、大根があった方がいいと、思ったので」
袋の中には大根が一本。
確かに、大根を煮汁で焚いたら絶品なのだが——なぜこの女は、俺が鯖の味噌煮を作っていることを知っているんだ。
「……匂いで」
聞いてもいないのに答えた。
「壁越しに?」
「……換気扇から」
なるほど。台所の換気口が外壁の同じダクトに繋がっているのだろう。ボロアパートの構造を恨むか感謝するか、微妙なところだ。
大根を受け取り、追加で煮込むことにした。
◇
食卓を挟んで、鯖の味噌煮を食べた。大根が煮汁をたっぷり吸って、箸を入れるとほろりと崩れる。鈴音は大根に箸を入れた瞬間、かすかに息を呑んだ。
わかっている。大根が、煮汁の全てを記憶している。鯖の旨味。味噌の香り。生姜の香味。それが大根の繊維の奥まで染みて、一口で全ての味が舌に広がる。
彼女は大根を噛む時だけ、瞬きの回数が減る。集中しているのだ。味覚に全神経を集める時の癖だ。この二週間で学んだ。
「……みなとさん」
「ん」
「……大根、買ってきて、よかったです」
それは彼女なりの最上級の賛辞だった。
◇
洗い物が終わった後、いつもなら帰るタイミングなのに、鈴音は玄関に向かわなかった。
ちゃぶ台の前に座ったまま、手持ち無沙汰そうに膝の上の手を組んでいる。帰りたくないのか、帰り方がわからないのか。
「……お茶、飲む?」
聞いたら、頷いた。
緑茶を淹れた。茶葉はスーパーの安物だが、温度だけは気をつける。熱湯をそのまま注がず、湯呑みに一度移して少し冷ましてから急須に戻す。七十度くらい。渋みが抑えられて、甘みが出る。
鈴音は湯呑みを両手で包むように持った。小さな手だ。湯呑みがちょうど収まるくらいの。
「……このお茶」
「ん?」
「……いい淹れ方です。温度を落として甘みを引き出すやり方。……これも、どこかで習ったんですか」
——参ったな。
茶の淹れ方まで見抜く。
「……まあ」
曖昧に答えた。実家の親父は茶にもうるさかった。客に出す煎茶の温度を間違えただけで、皿洗い三時間の刑を食らったことがある。
それ以上は聞かれなかった。鈴音もまた、踏み込まない。互いの過去に壁がある。その壁の存在を認識しながら、壁の手前だけで時間を共有している。
十分ほど、黙ってお茶を飲んだ。
窓の外で、隣の通りを走るバイクの音が遠ざかっていく。アパートの給湯器がカチ、と小さな音を立てた。
沈黙が——不思議と、重くなかった。
「……そろそろ」
「うん。おやすみ」
「……おやすみなさい。みなとさん」
ドアが閉まった。彼女の足音。鍵が回る音。
テーブルの上に、鈴音が使った湯呑みが残っていた。彼女が包み込むように持っていた場所に——ほんのわずかに、体温が残っている。
洗わずに、少しだけそのままにしておいた。
理由は特にない。




